日本の原発史②
アメリカ主導で原発の建設が進む
政府内の一部が、原発を核兵器製造の潜在能力にする

(毎日新聞2013年4月8日から抜粋)

1966年に、日本初の商業用の原発(東海原発)が運転を始めた。

70年には敦賀原発が、71年には福島原発が、運転を始めた。

原発については、技術をアメリカに依存していた。

1968年の「日米原子力協定の改定」により、30年分の濃縮ウランがアメリカから提供されて、日本の原発すべてにアメリカの軽水炉が導入された。

この頃、原発と核兵器を結びつける検討が、日本政府内で密かに進められた。

きっかけとなったのは、1964年の中国の核実験だった。

1969年に外務省が作成した文書「外交政策の大綱」には、「当面は核兵器を保有しないが、核兵器製造の潜在能力は常に保持する」と書かれている。

この『潜在的な核兵器による戦争抑止論』は、国民には知らされず、外務省や一部の政治家のみが共有していた。

『核兵器製造の潜在能力』を担うのは、「ウラン濃縮」「使用済み核燃料の再処理」「プルトニウムを使う高速増殖炉」である。

六ヶ所村の核燃料サイクル施設は、この政策の産物だ。

そして、外交や安全保障に深く関係する施設を、民間が運営する不条理が、長く行われてきた。

○ 吉岡 斉の話

原子力の推進体制は1956年に確立したが、当初は国会議員の大多数が賛成していた。
必ずしも自民党だけが推進してきたのではない。

原発の推進は、官僚と電力業界が中心で、政治の介入は少なかった。

ただし、核兵器製造につながる「隠された核技術」には、自民党は強く執着した。

自民党の執着の典型は、「動燃の設立」である。

日本原子力研究所を、国会で問題化させて中枢から追い出し、「隠された核技術」は国家プロジェクトとして動燃に担わせた。

この背景には、「国家の安全保障のための原子力」という発想がある。

これは、「核武装は控えるが、核武装できる潜在力を外交カードとして使う」という事だ。

アメリカは、非核保有国の中で日本にのみ「隠された核技術」を開発する特権を与えて、日本の権力者の自尊心を満足させつつ、アメリカへの忠誠心を高めてきた。

原発産業は今や、アメリカの原発メーカーは、日本メーカーに製造面で依存している。

日本が原発から撤退した場合、アメリカの打撃は重大となる。

軍事と民事の双方にまたがる「日米の原子力同盟」は、日本の脱原発における最大の障害である。


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