今回は、「アーティスト」と「アイドル」の違いについて、自分なりに出した答えを書きます。
このテーマは、芸術を愛している私にとっては、長い間大きな課題でした。
私は、かつてジャズミュージシャンを志していた事もあり、アートというものに強いこだわりがあります。
そのためでしょうが、アートにあまり興味の無い人が、「アイドルの歌も、アーティストの歌も一緒でしょ」と言うのを聞くたびに、違和感を持ってきました。
さらに、アイドルたちが「私たちも、お客さんに喜んでもらうために歌っている。私たちの作品もアートです」と言うのを聞くたびに、違和感を持ってきました。
自分が愛している芸術作品と、アイドル達の作品を比べた時に、言葉では説明できなくても根本的な違いがある事は、自分の感性に照らして確信していました。
でも、その違いを上手く説明できないので、もの凄くストレスになっていました。
偉大なアート作品と、内容の無い流行を追っただけのアイドル作品が、同列であるなどというのは、どうしても受け入れられません。
しかし世間では、「金を稼げたら、それが一流作品。だから、売り上げの高いアイドルの作品は一流作品」との考えが蔓延しています。
私は、憤りをおぼえてきました。
そんな私を見て周りの人たちは、「それぞれの好みや感性があるのだから、それでいいんじゃないの」と、呆れ顔で言いました。
ですが私は、そんな意見で納得できる人間ではありません。
とはいえ、どの作品も受け手に届けるために作られた点では同じだし、楽しむ人と楽しまない人がいる点でも同じです。
ですから、上記した私が違和感を持つ意見も、一理はあります。
結局私は、『アーティストは金とか名声のためではなく、自己表現や人を喜ばせるために活動をしている者』、『アイドルは口では何と言っていても、金や名声を得るために活動をしている者』という分け方に到達し、それで長い間納得してきました。
この分け方を使ってみて、かなり正確に分けられる事は実感しました。
しかし実は、「ちょっと分けきれない例もあるぞ」とずっと思っていました。
分かり易い例が、「人を喜ばせるために活動しているのが明らかに伝わってきながら、一方では金や名声を追いかけている」という人です。
こういう人が、かなり多いんです。大抵の人間は、割り切れない面を持っているからです。
「う~ん困った。こういう例は、中途半端な迷いを捨てきれないタイプ、としておくしかない」というのが、私の決着の付け方でした。
以上、少々長い説明になりましたが、「アーティスト」と「アイドル」の違いについての、私の過去の考えを書きました。
要するに、最近までは両者の違いについて、完全に納得できる答えは見い出せていなかったのです。
それが数ヶ月前に、『神との対話』という本の中で、「援助とは何か」についてを学び、この概念を使うと「アーティスト」と「アイドル」の違いに、きちんと解答をだせると気づきました。
それが、今回のエッセイで書きたい事です。
『神との対話』では、援助について、このように書いてあります。
「援助とは、相手に力を与える事であり、自分が居なくても相手が生きていける状態にする事、相手が自分の足で立てるようにする事だ」
これを読んだ時に、「なるほど。説得力があるなあ」と感心したのですが、しばらくしてから「この考え方を使うと、自分が悩んでいたアーティストとアイドルの違いを説明できるぞ」と気づきました。
「アートと援助は、関係が無いのでは?」と思うかもしれませんが、偉大な芸術作品になればなるほど癒しのパワー、勇気を与えるエネルギーなどがある事は、皆さんは実感していると思います。
これは援助(相手に力を与え、相手が自分の足でしっかり立てるようにすること)そのものじゃないですか。
このところ、私の母は韓流にはまっており、韓国のアイドルグループの映像がよくテレビに映っています。
とにかく凄い人気で、ファンの熱狂ぶりと歓声がすさまじい(気持ち悪い)です。
(私がこの世界で最も嫌いなサウンドの一つが、黄色い歓声です。
理由は、知性も愛も感じないからです。
こんな声を出している時点で、本当の力を得ているのではない事は明らかですが、声を出している当人には分からないんですよね。)
見ているとよく分かるのですが、アイドルの側もファンの側も、お互いに楽しい気持ちを共有しており良い事をしている(喜びと生きる力を得ている)と、勘違いをしています。
このファンたちに、「これは偽者の音楽だ。ここには真の喜びは無い。」と話しても、ファンの人には「私は喜びを得ている。余計なお世話よ! 私にとっては本物の音楽、アートです!」と反論されてしまいます。
これが、私にとって長い間のジレンマでした。
さあ、そこで援助についての上記の考え方の出番です。
アイドルのやっている事は、一見すると相手に喜びを与えて、相手に力を与えている様に見えます。
しかし、相手が自分の足で立てるようにしているでしょうか?
答えは明らかです。
アイドルは、ファンがいつまでも自分のファンでいる事を望んでいるし、相手が力を得ると(例えば、しっかりした価値観を持つなどをすると)自分から去っていくだろうと恐れ、いつまでもファンが成長しない事を望んでいます。
(アイドルは大抵10~20代のため、はっきりと自覚をしていませんが、こういう意識を持っているのは、見ていて伝わってきます。
30代以上のアイドルは、自覚的にこのコンセプトを取っている人が多いです。
もちろんアイドルを抱える事務所は、作品がファンの人間的な成長を促すかは全く考慮していません。
カネになるかだけを基準にしています。)
結論を言うと、アイドルたちは刹那的な(表面的な)喜びしか、ファンに与えていません。
ファンに力を与えている様に見えますが、実はファンから力を奪っています。
(考える力や、自分らしさを発揮する力を、ファンから奪っています)
それと比較をして、偉大な芸術作品を見てみて下さい。
これらの作品には、何ら押し付けがましさはなく、純粋に作品として存在しています。
相手が成長していく中で自分から去っていっても、それを全く問題にしません。
アーティストには様々なタイプの人がいますが、私が見たり接した限りにおいては、すばらしい作品を作るアーティストになればなるほど、押し付けがましさがありません。
そして、「相手がどう評価するか」とか「金になるか」よりも、『自分らしくあること』や『相手と分かち合う事』を重視しています。
私が敬愛するアーティストたち(バッハ、ベートーベン、チャーリー・パーカー、ゴッホ、葛飾北斎、チャップリン、小津安二郎などなど)に対して、「あなたの作品を愛し応援してきたが、もう卒業します」と言ったら、彼らは「それでいい」「俺は気にしない」「自分の好きにすればいいんだよ」などと答えるでしょう。
それに対し、アイドルに同じ事を言ったら、「そんな事を言わないで。冷たいじゃないか。愛しているよ、ハニー。」と答えるでしょう。
分かりますか、この違い。
これなんですよ、アーティストとアイドルの違いは!
非常に大胆に言うと、(自覚をしていないアーティストが相当多いと思いますが)アーティストは『受け手が成長すること』『受け手が自分らしい道を歩むこと』『受け手が自分を超えること』を目指しています。
偉大なアーティストは、芸術表現を通して受け手に力や愛を与え、受け手が成長・覚醒するのを望んでいるんです。
先ほど例として出したアイドルのファンに対して、こう説けばいいと私は悟ったのです。
「これは偽者の音楽だ。
なぜなら、受け手の成長を促していないからだ。
真の音楽や芸術は、愛や物事の本質を探究しており、相手が自分の足でしっかり立てるように導くものなんだ。
受け手が成長していき、自分を必要としなくなっても、それでいいと考えるものなんだ。」
こう説明すれば、そのファンは「うっ! 私が接しているアイドルの世界は、到底アートと呼べるシロモノではない…。偽者なのか…。」と理解できます。
こうして、私はついに答えを得て、自分のジレンマから救済・開放されたのです。
やや長い文章になりましたが、両者の違いを理解してもらえましたか?
今回は、人間の感性や感覚と絡んでくるテーマのため、文章がまとまりのないものになった気もします。
読んで下さり、感謝いたします。
書いていて思ったのですが、ここで説明したアーティストとアイドルの違いは、本物の宗教と偽物の宗教の違いにも、がっちりと適用できますね。
さらには、本物の愛と、偽物の愛の違いにも適用できます。
両者の違いは、「表現者の意識、意図、目的」によって生じるのですから、アーティスト→アイドルやアイドル→アーティストという変質は、いつでも起こり得ます。
『神との対話』は、「援助者は、常に自分を振り返りなさい」と説いていますが、アーティストは常に自分の意識・目的を振り返ったほうが、良い作品を作れると思います。
「作品を作っていると楽しいから、活動している」とか「お客さんが喜んでくれればいい」と言うアーティストが多いのですが、これだと一歩間違うとアイドルになってしまうと思います。
モーツァルト、ベートーベンら偉大なアーティストは、なぜか世間では「いかれた頭を持った、感性一発の人たち」と考えられています。
しかし、あのように一貫して高い芸術性(奉仕と愛)のある作品を創るのは、物凄く厳しい自己への戒めがないと、絶対に無理です。
周りの人からどう見えたにせよ、彼らがすごく自分をコントロールしていたのは、作品から見て明らかです。
(2012年11月19日に作成)