子供の頃の思い出③
けん玉① 舐めていたが、やったらハマってしまう

私は、小学1~3年生の間、『学童クラブ』というものに入っておりました。

『学童クラブ』とは、両親が共働きの家庭の子で、学校の放課後に家に帰っても1人ぼっちになってしまう生徒を、18時くらいまで面倒をみるための教室です。

「小学生の低学年の子が、1人で家にいるのは危ないので、18時くらいまでは預かってあげよう」というコンセプトでした。

私が通う学童クラブは、最初は小学校内に設置されていましたが、私が通っている間に小学校から歩いて10分くらいの場所に移りました。

移った先は、新設された「児童館」と呼ばれる小学生が遊ぶための場所です。
2階建ての建物で、学童クラブの教室は2Fにありました。

私はそこに、学校が終わると、同じく学童クラブに入っている仲間と共に通っていました。

私は、学童にほぼ毎日お世話になっていたので、児童館で遊び暮らしていたわけですが、そこでは『けん玉教室』が開かれていたのです。

今回は、そのけん玉教室での体験を書きます。

けん玉。
かなり懐かしい感じの、古臭さの漂う遊びですね。

私も、最初は古臭くダサいものだと捉えていました。

児童館は、2Fに学童クラブと児童図書館があり、外にはグラウンドもあります。

1Fには様々な教室が行われる部屋があり、けん玉教室はそこで開催されていました。

けん玉教室は、週に2~3回ほど開かれていて、だいたいは5人くらいが参加していました。
マイナー感が漂っていましねー。

その時は、部屋の近くを通ると、「カチッ、カチッ」というけん玉のプレイ音が聞こえてきて、私は「おおっ、やっとるな」などと思って、たまに外から覗いていました。

最初の頃は、「けん玉なんて今時やるか? 今は20世紀ですよー」などとバカにしていたのですが、見ているうちに魅かれるようになりました。

そのうちに、「マニアックな遊びだけど、暇だし、やってあげてもいいんだぞ」といった心境になってきました。

興味が出てきてからは、しょっちゅう覗き見をしていたのですが、ある時に同学年のOさんが来ている事を発見しました。

Oさんは別のクラスでしたが、かわいい事で有名な女子で、私も彼女のことを知っており、好感を持っていました。

それで、「あの子も来ているのか…。けん玉には、かわいい女の子も興味を持つのか。」と思い、さらに興味が出てきたのです。

やがて、教室にかなり参加したくなってきました。
でも、知り合いが1人も教室にいないので、躊躇してました。

そうこうしていたら、同じく学童クラブに通っている弟が、私と同じ心境だったのでしょう、けん玉教室に入ったのです。

それで私は、「よしっ、ナイスな展開だ。これで偵察役が生まれた。弟の感想を聞いて、面白いようなら俺も入ろう。」と決めました。

それで、弟の様子を見ていたのですが、えらく楽しそうなのです。

最初は未知の世界に飛び込んだ弟に敬意を持ち、偵察役をしている事に感謝していたのですが、すぐに嫉妬が始まり、自分だけ楽しんでいる姿に腹が立ってきました。

「むっ!楽しそうじゃないか。この俺を差し置いて、生意気な。」と思い、私もすぐに入ることにしました。

入ったのは、私が3年生になったばかりの頃だったと思います。

私たちが入ったからか、他の学童の男子たちも参加するようになり、その後に一気に教室は活気づきました。
参加者は10人くらいに倍増しました。

最初に教室に参加した日は、えらく緊張しました。
知らない子が多かったし、それまで一度もけん玉をした事がなかったからです。

とりあえず様子見をして、皆がプレイするのを横で見ていたのですが、皆がすごいプレイを繰り広げていて、完全にびびってしまいました。

自分よりも小さな子が、色々な技を行っている姿を見て、「俺は付いていけるのだろうか…」と弱気になりました。

けん玉は、1人だけで行うマニアックな遊びですが、やった事のない人が見ると神技に見えるようなクールな技を、1年くらいで出来るようになるんです。

そういう意味では、非常に見栄えのする遊びです。

私はそういう事情を知らなかったので、周りの子供達の技を見ていて、「こいつらは天才なのかもしれない。けん玉のサラブレット達に、俺は紛れ込んでしまったのか。」と、恥をかかないうちに辞めようと考えるくらいに弱気になりました。

で、ビクビクしていたのですが、とりあえずけん玉を先生から渡されて、始めてみました。

すると、まったく上手くいかず、大皿に球を乗せるのすら苦戦しました。

先生は、「あせらなくていい、みんな最初はそうだから」とフォローしてくれました。

私は、「舐めていたが、これは本気で取り組まないと上達しなさそうだぞ」と気付かされました。

教室には先生は1人だけで、その人は25歳くらいのお兄さんでした。

彼は、他にも竹馬や一輪車も教えていました。
優しい人でしたが、今から思うと、若いのにこうした事を指導できるなんて、かなりの変わり者だったのではないかと思います。

私は、最初のうちはあまり情熱を感じず、よく教室を休んでいました。

そうしたところ、弟の方が上手くなってしまい、教室に参加すると肩身の狭い感じになってきたのです。

「まずいぞ、これは。頑張らないと、立場がなくなる」と思い、それからはとりあえず弟を目指しました。

子供の頃って、兄が弟に負けると、「どうした君? 大丈夫か?」みたいな、白けた感じの哀れみの視線が注がれる状態になるんですよ。
寒~い空気になるので、意地でも負けられないのです。

結果的には、弟と切磋琢磨するかたちになり、ぐんぐんと上達していきました。

私は、教室に参加するたびに、密かに「Oさんは来てないかな」と期待したのですが、どうも私が参加した頃に辞めたらしく、1回も一緒にはなりませんでした。

でも、だんだんとけん玉に夢中になり、やがてOさんの事は忘れました。

やる気が出て、上達もしてきたので、母にねだって私と弟はけん玉を買ってもらいました。

その後は、家でもけん玉を練習するようになります。

母は、見分けがつくように、球が赤色のけん玉と、球が青色のけん玉を、1つずつ買ってきました。

基本的に、赤色は女子用、青色は男子用となっていて、私たちの教室でもそういう住み分けができていました。
母はそんな事は知らず、ただ「同じ色だと、どっちの所有か分からなくなる」と思い、1つずつ買ったのです。

私と弟は2人共に、青色のけん玉を欲しました。
当たり前です。赤色だと女の子みたいだからです。

で、どっちが青色を手にするかを話し合ったのですが、どちらも譲らずに口論になりました。

「お前が赤でいいだろ」「やだよ、お兄ちゃんが赤でいいよ」などと、10分くらいも揉めました。

母は、「あなたはお兄ちゃんなんだから、あなたが譲ってあげなさい」と言いましたが、私は断固として拒否しました。

この頃になると、弟も小学生となり生意気になっていて、私が譲ってあげてもちっとも感謝しないようになっていました。

私が母の圧力を受けて何かを譲ってあげても、「へへん、当然だよ。いい気味だな、兄さんよー」という態度のため、私は彼を甘やかさない事にしていました。

話し合いでは解決しないため、私たちはじゃんけんでケリをつける事にしました。
まあ、当時の定番的な展開です。

私はこの時期には、じゃんけんの傾向を弟に把握されており、勝率がかなり低迷していました。

「まずいな…、嫌な予感がする…」と思ったので、「おい、3回勝負でいこう」と提案しました。

で、作戦を練って挑んだのですが、手を読まれていたのか、運が無かったのか、見事に負けてしまいました。

私は、赤色のけん玉を手にする事になりました。

最初に赤色けん玉を持って教室に行った日は、からかわれるのではないかと心配し、ビクビクしてました。
しかし、意外にも完全にスルーされました。

「ついに、けん玉を買ったんだねー」と周りから言われましたが、色については言及が無かったです。

私はこの時に、『人々は、けん玉の色を見ているのではなく、けん玉のテクニックを見ているのだ』と気付きました。
少し、大人になったような気がしました。

けん玉の練習で特に憶えているのは、『もしかめ』と『灯台』の練習です。

どちらも技の名前なのですが、この2つの技は一番練習をしました。

『もしかめ』は、球を大皿と中皿に交互に乗せていく技で、「カチ、カチ、カチ」と小気味良く球を跳ね上げつつ、けん軸を動かして球を乗せ替えていくものです。

慣れると50~100回くらいは、出来るようになります。

この技のコツは、膝を柔らかくスムーズに動かすことと、集中力です。
膝を小刻みに伸び縮みさせるのが大切で、手の動きも早くする必要があります。

今思い出しましたが、これを練習していると手が疲れてしびれてしまい、よく手を振ってしびれをとりながら練習したものです。

『灯台』は、球の上にけんを乗せる(球の上に中皿の部分を乗せて、けんを球の上に立たせる)というかっこいい技で、球を持ってプレイします。

文章では伝わりづらいのですが、この技は素人が見ると神技に見えるほどのおしゃれな技で、けん玉の技の中でも華やかさではトップクラスです。

かなり難しい技なのですが、教室の中に出来る子供が何人かおり、「彼らに出来るなら、俺にも出来るはずだ」と思って猛練習した結果、マスターしました(^-^)

『灯台』は、けん玉を始めてから1年後くらいに、「そろそろこの大技が出来るかもしれない」と思い、チャレンジしました。

練習を始めた当初はまったく成功せず、10日間くらいは1度も成功しないほどでした。

5日目くらいで諦めそうになったのですが、踏ん張りました。

10日ほど頑張り続けたら、1回だけ成功して、「おおっ」と思ったのですが、また出来なくなった。

私1人なら諦めていたでしょうが、弟と取り組んでいたので、「負けてなるものか」と頑張れました。

徐々に出来る確率が高まり、最終的には2回に1回ほどできるようになりました。

振り返って思うのは、『けん玉は、膝の使い方がとても大切だ』という事です。

素人の人は、けん玉は腕を動かしてやるものだと思うのですが、私の体験では『膝が5割、集中力が3割、腕が2割』です。

この極意を、灯台の練習を通して体得しました。

けん玉教室で他に憶えている事は、『検定試験』です。

けん玉には、級や段があるのです。

3ヶ月に1回くらい、先生が見守る(審査する)中で、検定試験が行われてました。

検定試験は、ある技を5回とか10回行って、そのうち何回以上を成功すれば合格、という内容でした。

いつも弟と一緒に受験していたのですが、ある時に弟の方が高い級に受かってしまい、非常に悔しい思いをしました。

私は、子供の頃は小心者で、本番に弱いタイプでした。
弟の方が度胸があり、実力では同じなのに、結果に差が出てしまうのでした。

1回目の試験の時には、手や足が震えて、本来の実力の半分くらいしか出来ませんでした。

私はそれまで試験というものを体験した事がなかったので、「試験というのは、こんなにも緊張するのか。別に失敗したからどうなるわけでもないのに、こんなにナーバスになるなんて、人間とは不思議なものだなあ」と感じたのを憶えています。

不思議なもので、本番の方が練習よりも上手い奴が、1人だけいました。
「こういう奴もいるのか!」と思いましたよ。

2回目以降は、慣れたおかげで、実力の8割くらいは発揮できました。

私がとった最高級は、確か2級だったと思います。

段もあるのですが、それはかなり高度で、私たちの教室では有段者は1人もいませんでした。

2級になったのは、3年生の終わりか、4年生の初めだったと思います。

この頃には、けん玉教室はかなり繁盛していて、教室内はぎゅうぎゅう状態でした。
まあ、それでも10~15人くらいです。

生徒が増えたからか、ある時に先生は「おい、2週間後の日曜日にけん玉大会に参加するぞ」と通達しました。

私は、「えー、けん玉に大会なんてあるんだー」と驚きました。

そうして大会に参加したのですが、そこではさらなる驚きがありました。
それを、次回に書きます。

(続きはこちらです)

(2013年8月13日に作成)


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