政治経済や外交の事柄について話す時に、「私はリアリストだ。だから私の認識が正しい。」と主張する人がいます。
また一般的な会話の中でも、「これが現実だ」とか「これがリアルな世界だ」と、断定的に話をすすめる人がいます。
この様な態度や立場に、私は常々から違和感を持ってきました。
私は惑わされませんが、人によってはリアルという言葉を持ち出されると、無条件に「そういうものなのか」と信じてしまう人もいます。
これは非常に危険な状態なので、改善する方がいいと思っています。
そこで今回は、『リアル・リアリスト』について私の見解を書きます。
そして、リアルという名の「虚構と他者への強制」から、人々を開放する道を示そうと思います。
まず「リアルとは何なのか」を考察しましょう。
これは実のところ、『単にその人が信じていること・その人の人生においてリアルなこと』でしかありません。
冷静に分析すると誰の目にも明らかなのですが、『リアルとは、それぞれの人によって、違うもの(異なるもの)』なのです。
多くの人は、自分の意見と大幅に異なる(ずれている)意見があると、「リアリティが無い!」と一蹴します。
ですが、その異なる意見を持っている人から見れば、あなたの方が「リアリティが無い」ように見えているのです。
イスラエルとパレスチナや、日本と中国は、どっちが正しいか(リアルな真実を言っているか)で揉めていますが、実はどっちの意見にも一理があり、どっちの認識もリアルなんです。
だから、大揉めになってしまうのです。
これを解決するには、『相手もリアリティのある認識をしている』と認める必要があります。
リアルな世界は、人によって千差万別だし、統一的なリアル(一つの正しい現実解釈)は存在しない、と私は思うのです。
例えば、同じ体験をしても、人によって「感じるもの」や「そこから得るもの」は違います。
また、物事の見方も人それぞれだし、見る角度によって物事は違って見えます。
だから全員が、『自分が創造(想像)している、自分にとってのリアルな世界の住人』なんです。
誰か一人だけがリアルな世界を認識しており、他の人達はリアルではない状態に生きている、というのは、あり得ないのです。
私はこの考え方が、一番深く正確な現実認識だと思っています。
みんながリアルな世界に生きているなら、「これがリアルだ、これが現実だ」と断定的に主張する意見は、一体何なのでしょうか。
こういう意見を述べている人をよく観察すると、「正しい基準や正しい世界は一つしかない」と思っていたり、「現実とはしょせんこんなものだ」と思っていると、理解できます。
はっきりと言ってしまうと、こうした断定的な主張をする人は、偏見に凝り固まっている状態のために、様々な世界がある事が見えなくなっているのです。
政治家や評論家などには、「リアリスト」を自称している人達がいます。
この手の人達は、「自分は、正しい認識が出来ている、えらい者(エリート)だ」と信じているのが、見ていて伝わってきます。
しかし実際は、「自分は、多様な価値観や考え方を受け入れられない、物分りの良くない者だ」と主張していると、私は感じるのです。
自称リアリスト達は、「リアル」という言葉を、自らを権威づけるために利用しているにすぎません。
(自覚のないままに、使っている人も多そうですけど)
どのような事象でも、様々な解釈があり得るし、唯一絶対の解答は存在しません。
リアリストと称する人々は、せいぜい「一般人よりも精度の高い情報を持っている」くらいです。
その情報が実は誤っている事はあり得るし、情報の解釈を誤っている事も考えられます。
ですから、盲信していけないし、むしろ「私は正しい」と強く主張しているだけに疑ってかかるほうが無難です。
ほとんどの人は、何らかのリアルな世界(正しい世界・不変な世界)があると信じています。
しかし、それらのリアルな世界とは、蓋を開けてじっくりと見てみると、「現在、多数の人が信じていること」か、「自分にとって力のある者(自分が重きを置いている人)が主張していること」の、どちらかです。
例えば、昔は「地球は平らだ」と信じられていました。
それがリアルな世界だったのです。
「病気は悪霊が引き起こす」との考えも、昔はリアルな意見だったんです。
一見、リアルで不変に思えることでも、時間が経ったらリアルでなくなる事は、いくらでもあります。
歴史を学べば、その事に気付くのです。
さて、ここまで「唯一の正しいリアルな認識などない」と書いてきたわけですが、それでは私たちはどう生きたらよいのでしょうか。
まず言える事は、『人はみんな、自分なりにリアルだと信じる世界を持っていて、その世界に生きている。そしてそれぞれのリアルな世界は、間違っているわけではない』と、認めることです。
要するに、答えは一つではないと、認めることです。
次に、『無限にある答えの中で、どれが自分がリアルと認識するにふさわしいのかを、見極める』ことです。
これなら自分が信じていけると思える、「自分にとってのリアルな世界」を見つけ出すことです。
次に、『自分にとってリアルな世界を、社会に広めるのは大変に結構な事ですが、決して他者に押し付けない』ことです。
リアルだと認識している世界は、あくまでも「現時点での自分にとってリアル」なのであり、他者にとってもリアルになるかは、その他者の選択に委ねなければならないのです。
最後に、『自分が見つけた答えが唯一絶対ではないと、冷静に覚えておき、新しい答えへの道を常に開いておく』ことです。
こうしておけば、他者の意見を頭から否定したり、いつまでも古い価値観に囚われることがありません。
最後に、リアルと情報の関係について書きます。
まず、今までの話をまとめると、「万人がリアリスト」なんです。
万人が自分がリアルだと信じているものを持っているし、その基準に従って生きているのです。
だから、「私は、リアリストだ」なんて自慢するのは、根本的にナンセンスです。
さて、そうなると、「どこから、現実認識の違いが生じてくるのか?」というのが問題になります。
私は、現実認識の違いのほとんどが、『持っている情報量の差』『持っている情報が良質かどうか』『情報をどう分析・処理しているか』で決まっていると思います。
この情報には、単なる知識だけではなく、経験・体験や、感情なども当然含まれます。
生き方や価値観の基になる「現実認識」が、情報によって決まるからこそ、仏教では『無知(無明)』が、苦しみを生む代表的なものとされているのだと思います。
何をリアルだと認識するかの鍵は、『情報』なんです。
だからこそ、情報の開示はとても大切な事です。
政治家の多くが、「有権者が理解してくれない」と嘆きます。
しかし、情報を隠していたら、政治家と有権者の持っている情報が異なるため、認識も異なってくるんですよ。
現在の「情報を隠す政治システム」では、理解されなくて当たり前です。
どんな事でも、より多くの人に理解して欲しかったら、情報開示を徹底するのが一番の近道です。
(2012年12月12日に作成)