私はサッカー観戦が好きで、このウェブサイトの日記でも、試合の感想記事をいくつも載せています。
観戦している中でサッカー界の現状についてもかなり詳しくなりましたが、『一部の選手(スーパー・スター)が年棒10~15億円にもなる』など、金銭感覚が異常な状態になっています。
冷静に見つめると、最近のサッカー界は、移籍金や年棒が異常なレベルにあると気づきます。
サッカーに関わる人々は、感覚が麻痺しているらしく、せいぜい笑いネタにするくらいであまり触れませんが、1選手の移籍金が100億円を超す例が出るなど、「頭がおかしいのではないか」と疑うほどのバブル状態なのです。
こうした状態と密接に繋がっているのですが、最近のサッカー界は「勝てばすべてが許される」という、倫理の破綻した状態になっています。
例を挙げるならば、監督や選手が暴言をしたり試合中に相手選手に暴力をふるっても、能力の高い人(成績の良い人)の場合、出場停止が3試合くらいで、あっさりと復帰してしまいます。
さらには、中東の王族などの超リッチ層がサッカー・チームを買収して、ポケット・マネーで選手をかき集めたりもします。
あげくの果てには、投資目的で有名なチームを、投資ファンドが買収する始末です。
こうした惨状は、『サッカーは世界的に人気があり、ビッグ・ビジネスになっている』ことを理由に、見逃されて(正当化されて)います。
しかし、「スポーツマン・シップ」とか「スポーツを通して青少年を育てる」という、スポーツにとって一番大事なことから考えれば、明らかに良くない状態です。
スポーツ好きの少年・少女たちが、このような異常なサッカー界を見ていれば、
「活躍している人ならば、暴言や暴力も許されるんだ」
「世の中は、お金をどれだけ持っているかで決まるんだ」
「勝つためには、何をしてもいいんだ」
などと、誤解してしまうでしょう。
こうした拝金主義や勝利至上主義は、サッカー界だけではありません。
多かれ少なかれ、他のスポーツ界にも見られます。
考えてみると、最近のスポーツ界は、スポンサー企業が多くなり、放映権が高騰しているために、地に足がつかなくなっています。
しばらく前に日本柔道界の腐敗が明らかになり、「勝利至上主義によって、柔道本来の精神が失われた」と、多くの方が警鐘を鳴らしました。
これは、大きな視点で見るならば、世界全体のプロ・スポーツ界にも当てはまると思います。
有名なプロ選手になると、メディアにバンバン取り上げられて、いくつものスポンサーがつき、それらからのプレッシャーにさらされてしまいます。
そうして、いつの間にか、その選手は笑顔を失い、競技中に「良い成績をあげなければ」「失敗したらみんなに迷惑をかける」などと考えて、不安そうな顔を観客に見せることになるのです。
最近のサッカー日本代表・男子も、ぜんぜん笑顔がありません。
いつも苦しそうな、つらそうな表情で、ピッチの上でボールを追っています。
本人達が「ワールドカップで優勝する」とぶちあげた事で、自らを追い込んだことも、原因の1つです。
しかし本質は、『メディア、スポンサー、サッカー協会が、良い成績を出すようにとプレッシャーをかけすぎていること』に、問題があると思います。
私のような熱心なサッカーファンたちは、あれこれと日本代表についても語ります。
でも私もそうですが、ファンの多くは「勝つ事も大事だが、良いサッカーを見せて、楽しませてほしい」という思いの方が強いでしょう。
そして『良いサッカー』の中には、笑顔で楽しくプレイする事も含まれます。
私は、今のサッカー日本代表・男子が、『痛い虫歯が5本くらいあるような顔つきで、試合をしていること』に、かなり危機感を感じています。
彼らを見ていると、「これでサッカーの素晴らしさを、人々に伝えられるのだろうか?」と思いますよ。
スポーツの良さや素晴らしさとは、一体どこにあるのでしょうか。
改めてこのシンプルな問いをしてみるならば、答えは決して「勝利」ではありません。
スポーツの素晴らしさは、だいたい次の点ではないでしょうか。
① 身体を鍛えて、健康になる
(鍛えた肉体の素晴らしさを感じられる)
② 他人とコミュニケイトする事で、刺激をうけられる
(友達や知り合いをつくれる)
③ 打ち込むことで、意欲や向上心や集中力を養える
④ 目標を達成した時には、達成感や自信を得られる
⑤ 国籍や民族に縛られない、自由な交流ができる
(他国や他民族と仲良くなれる)
これ以外にも、協調性を養えるとか、人格を立派にできるとか、挙げる人もいるかもしれません。
でも、スポーツに打ち込んでいる人でも、協調性のない人や人格がむごい人も沢山いるので、ここでは外しました。
こうして列記してみると、②~④はとくにスポーツじゃなくても、実現できます。
スポーツの特質とはいえません。
そうなると、『スポーツの良さ素晴らしさとは、①と⑤に代表される』と気付きます。
この2つが、スポーツの特質だと、私は思います。
さて、最近のプロ・スポーツ界を見ると、①と⑤を表現できているでしょうか。
「①身体を鍛えて、健康になる(鍛えた肉体の素晴らしさを感じられる)」について考えると、表現できていないと思います。
というのも、最近の選手達は試合数が多くて身体を酷使するために、ケガを抱えている人が多いからです。
現在のプロスポーツ界は、過度の競争とスケジュールのために、選手達が健康を保てないのです。
『身体を鍛えて、健康になる』という本来の目的から、完全に外れてしまい、鍛えた肉体の素晴らしさを見せるよりも、「ケガとの闘い」を見せている状態です。
一般の人々でも、健康を追求するあまり運動をしすぎて、身体を壊す人がいますが、そうした悪例を体現しているのがプロ選手になっています。
冷静に見ると、これは本末転倒のみじめな状況ですよ。
「⑤国籍や民族に縛られない、自由な交流ができる(他国や他民族と仲良くなれる)」についても、本来はスポーツの大きな魅力なわけですが、現状ではあまり実現できていません。
今のスポーツ界は、勝利を重視しすぎるために、対戦相手を「敵」と認識しがちで、相手をおもんばかる余裕が無いからです。
本来は、対戦相手は、同じスポーツをする仲間(同じ志を持つ仲間)です。
でも多くのプロスポーツ選手は、それを見失っています。
相手を負かすことばかり考えているし、大会や試合を、違う価値観や環境にいる人と理解し合うための機会にしようとする選手は、ほとんど見受けられません。
こうしたプロスポーツ界の「お寒い状況」は、一般のアマチュア・スポーツ界にも確実に影響しています。
子供たちのスポーツの場でも、勝利を意識しすぎてしまい、子供から笑顔が消えている事はしょっちゅうです。
プロ選手たちは、自分が子供とプレイする時は、子供たちが「憧れの選手とやれるぞ」と笑顔全開になるので、「子供は笑顔でプレイしている」と思うのでしょう。
そうしたイベントに参加する、スポーツ協会のお偉方も、同様に思うのでしょう。
しかし日常の練習や試合では、勝利を意識しすぎて、楽しめていない子供がたくさんいます。
勝利を求めるあまり、できない子供をいじめたり排除したりする事も、しょっちゅうです。
あまりに日常的なので、「レギュラー争い」などと肯定的に捉えられている位ですが、『スポーツを通して友達をつくる(友情を育む)』という観点から見れば、最悪ですよ。
メディアでスポーツをする子供を取り上げる場合、将来有望な「できる子」ばかりをターゲットにするので、これらの現場での負の側面は、表には出てきません。
でも、『スポーツを通して、友達をつくったり、他地域と交流をはかる』という点からみれば、現状は惨憺たるものです。
一見すると昔よりもよくなっているように見えますが、本質は変わっていません。
グラウンドが芝になったりと、よい環境が整備されても、勝ち組と負け組みをつくるスタイルが変革されないかぎり、スポーツが人々にとって真の癒しになる事はありません。
「スポーツは、勝つ事を目指すものだ」という価値観が、いまだに根強くありますが、それは間違っています。
私は、そう断言します。
スポーツは、「勝者を決めるゲーム」という形をとるために、プレイヤーは皆が勝利を目指します。
でもそれは、あくまでも『建て前』なのです。
皆が全力を出さないと、ゲームは盛り上がりません。
だから、「1番になる奴はえらいんだぞ」とか「1番には景品をあげるぞ」などと決めて、盛り上げるのです。
でも、だからといって、1番が本当にえらいわけではありません。
『あくまで、盛り上げるための、方便』です。
スポーツ(スポーツ以外でもゲームはすべてそうです)は、本当は、皆が楽しく関わって仲良く遊ぶものです。
つまり、勝者を決める事をしますが、勝者が敗者よりもえらいわけではないし、ゲームを終えたら『それを引きずらないもの』です。
そういうものなのに、最初のうちは皆がそれを理解しているのですが、熱中するとその事を見失ってしまう人が現れます。
そうして、「勝つ奴は特別だ」とか「勝たなければならない」と、言い出すのです。
非常に冷静に言うと、ゲームにのめり込みすぎて「勝利至上主義」に陥る人は、『幻想に嵌まり込んでしまった人』です。
幻想の国に入り込んでしまい、帰って来れなくなった、迷い人なのです。
「ゲームを盛り上げるために、勝者はえらい奴だと、一時的に決めるよ」としたのに、それが永遠のルールのように思い込んでしまっているのです。
これは、スポーツだけではなく、企業同士の競争にも言えます。
企業は、本来は『人々によい商品を提供すること』を目指すし、同業者はライバルであると同時に「同じ道をゆく仲間」です。
それが、幻想に嵌まり込んで「勝利至上主義」に陥ると、消費者軽視の悪徳商法になり、同業者を敵とみなして倒そうとムキになります。
冷静に見れば、企業同士の切磋琢磨(業績競争)も、ゲームですよ。
企業戦士たちはそれを認められないかもしれませんが、ゲームなのです。
考えてみて下さい。
例えば今、自動車の燃費向上で、日本の自動車メーカーは必死の競争をしています。
それ自体は、地球環境のために素晴らしい事だし、私も高く評価しています。
でも、冷静に考えるならば、燃費が5%とか10%の向上をするくらいでは、人間の生死は決まらないし、それで人間(その企業にいる人々)のすべてを評価できますか?
燃費が5km/ℓも違えば、「凄い新車だ。奇跡だよ、これは」と宣伝しますが、そこまで本質的に違いますか?
くり返しますが、本当は「ゲーム」なのです。
ゲームなのだから、例えばトヨタが画期的な新技術で勝利を収めたら、その技術をトヨタは公開したらいいのです。
その方が、ゲームは再び盛り上がるじゃないですか。
ゲームだというのを忘れて、「相手を倒さなければならない」と盲信するから、過酷で楽しくない競争になるのです。
私のように凄く冷静な視点から見ると、「皆が仲間なのに、何をムキになっているの?頭を冷やしたほうがいいよ」と思えます。
どうでしょうか。
「勝たなければならない」という勝利至上主義の幻想から覚めてみれば、今のスポーツ界は異常な状態であり、楽しさを味わえない危機的な状況だと分かります。
特に今のプロ・スポーツ界は、選手の成績で年棒の格差がありすぎます。
華やかに活躍する選手の影では、みじめな気持ちで去っていく選手が山のようにいるのです。
こんな状態で、本当に人々に夢や希望を与えられるのでしょうか?
プロ・スポーツ界は、もっと年棒を平準化し、引退した人やケガをした人にお金を支払う仕組みも充実させた方がいいです。
そういうサポート・システムが充実していないから、選手達はやたらと年棒にこだわるのですよ。
サポート・システムが充実しない背景には、「良い成績を出す者は、優れている者だ。だから、その選手だけを褒め称えればいい」との、勝利至上主義に毒された価値観があると思います。
普通の人々が年収150万円~600万円くらいで生きているのに、1億円とかの年棒提示に「低い」などとごねるプロ選手たちを見ていると、「この人たちは、スポーツ選手としては1流なのだろうが、人間としては3流だな」と思います。
それに、応援してくれる地域のスポーツ振興にも、お金を還元する必要があります。
何億円もの年棒を払えるならば、その分チケット代を安くするとか、子供たちのスポーツ教育に回した方が良いのではないでしょうか。
子供たちが、プロ・スポーツ界の裏の事情を見たら、がっかりすると思いますよ。
アマチュア・スポーツ界の指導者も、勝利をあまりうるさく言わずに、子供たちが笑顔でプレイできる環境を作る事が必要です。
強いチームを育てても、こぼれ落ちて挫折感を味わう子供や、プレッシャーのために楽しめなくなる子供や、ポジション競争で勝利するためにチームメイトを敵だと認識する子供がいるならば、そのチームは本当は「負けたチーム」ですよ。
(2013年10月12日に作成)