🔵村本庄一の職業、植字工
私の母方の祖父・村本庄一は、植字の職人(植字工)をした人で、それも洋字(英語)を扱った。
庄一の父・長八も植字工で、それを受け継いだと言える。
なお庄一の兄弟のうち2人も植字工だったから、一家で植字の世界にいたと言える。
植字とは、本や新聞を印刷するのに必要な工程で、1文字が彫られた印鑑みたいなものを1つずつ集めて、文章にする仕事である。
印刷技術が進んだことで、今ではもう行われなくなった仕事である。
庄一は本の虫だったので、この仕事は合っていたようだ。
本や出版に深く関わった事に誇りを持っていた感じがあった。
私に対し、植字の仕事が嫌だったと言っていた記憶はない。
でも好きだったと言っていた記憶もない。
祖母(庄一の妻・慶子)が曰く、本当は作家になりたかったらしいが、本を(作品を)1つも書いていないから単に憧れていただけだろう。
これは母(庄一の娘・千夏)から聞いたが、植字工も外国語を扱える者は少なく、洋字の植字だと給料が高かった。
だから庄一は勉強してその職人となった。
ただ庄一は病弱で、かつ仕事熱心なタイプでもなく、しょっちゅう仕事を休んだ。
また性格が頑固で、人と打ち解けないタイプでもあり、出世欲もないため、職場に愛着を持たず、職場を転々とした。
職人の世界なので、それでもやっていけたと、母は言う。
これは祖母(庄一の妻・慶子)から聞いたが、退職年齢が近づいた頃(庄一が50代に入ってからか)、植字が必要なくなる技術革新があり、庄一は植字の仕事を失った。
ただし当時はまだ日本の会社は従業員に優しかったので、クビにはならず営業職に回された。
だからだろうが、祖父母の家には色んな紙質のサンプル(見本)を束ねたものが、いくつもあった。
これは庄一から聞いたが、植字は字が逆なので、それに慣れる必要がある。
作業は、字を彫ってある印鑑みたいな奴を拾っていくわけだが、1つ1つの字が小さいので目を酷使することになる。
それで目を悪くしたと言っていた。
🔵村本庄一の月給(1975年)
祖父母の住居を解体した時、村本庄一の月給が分かる一書を見つけた。
それを記録として書いておく。
昭和50年(1975年)の月給だが、当時はもう営業職だったかもしれない。
役付き手当がゼロ円だが、上記の通り出世欲のない会社に忠誠心のないタイプだったので、当時は年齢は50代に入っているが平社員だったのだと思う。
〇 金山印刷株式会社の昭和50年5月24日付の一書。
村本庄一殿
貴殿は昭和50年4月より下記の通りの給料となりました。
記
基本給 ¥96000
精勤手当 出勤日数により支給
役付手当 なし
家族手当 なし
住宅手当 ¥5000
物価手当 ¥7500
その他手当 ¥31500
〇 孫・村本尚立の感想
金額を合計してみると驚くほど少ない。
精勤手当がかなりの額になるのだろうか。
家族がいるのに、家族手当が無いのもよく分からない。
妻も娘もいるのだが。
庄一の場合、妻の慶子も働いており、慶子は公務員で「慶子のほうが給料が高かった」と、慶子からも娘の千夏(私の母)からも聞いている。
慶子のほうがかなり給料が高く、慶子が稼ぎの中心だったと、母は言う。
ちなみに母・千夏(庄一の娘)は、庄一よりも慶子のほうが稼いでいたことに対し、庄一を甲斐性の無い駄目な男だったと評している。
この評価は、庄一が性格的に冷たく、娘の千夏にも冷たかったことも影響しているだろう。
千夏は、父母の影響により、男女平等の思想が強いが、その一方で「男はしっかり金を稼ぐべき、そうでないと駄目男」との価値観に縛られている。
男女平等の思想として、「男女は機会が等しく与えられ、給料も同じであるべき」と千夏は力説するが、その一方で「男はしっかり金を稼ぎ一家を支えるべきだ、女よりも収入が多くて当たり前」と言う。
大矛盾である。
千夏が離婚に至った一因は、この矛盾した価値観に固執して、ミュージシャンをする夫の稼ぎが安定しない事や稼ぎが少ないことに我慢できず、その一方で男女平等の観点から女性も夢を追う権利があるとして外に出て家事を放棄したことにあると、私は見ている。
ただし離婚の主因は別にある。
慶子は千夏と違い、庄一の収入を気にしなかった。
おそらく慶子は、「私が稼げばそれでいい」と思っていた。
だから夫婦仲は良かったし、この点で喧嘩になった事は無かったと想像する。