先日に、仕事を失い再就職をするために「自立支援」を受けている人々を取り上げた、TV番組を見ました。
自立するための(再就職するための)支援をしている方々は皆が誠実な人で、そうした活動に私は敬意を持っているのですが、見ていて次のような疑問を感じたのです。
「人間は仕事をして金を稼ぐ事をすれば、自立した事になるのか?」
「人生のトラブルに巻き込まれている人に、頑張って働きなさいと言う事が本当の支援なのか?」
「支援を求めている人が仕事について、一定の金額を稼げるようになったら、それで自立支援の成功なのか?」
多くの人は、「人間は自立しなければならない」とか「働いて一定の金額を稼ぐ事が、自立することである」と考えています。
人によっては、「親と同居していては自立していない」、「一定の貯金がないと真の自立とは言えない」、「結婚していないと自立した人間ではない」などと、もっと条件を挙げるでしょう。
しかし、こうした自立についての考えは、かなり曖昧でいい加減な定義だと私は思うのです。
それを証明するために、例をいくつか挙げて考えてみましょう。
まず、『働いて一定の金額を稼ぐ事が、自立することである』という定義です。
たぶん年収で250万円くらいが、自立していると認められる金額の下限だと思います。
250万円以下だと、「おいおい、大丈夫かよ。自立できてんの?」といった態度を日本社会から受けるわけです。
この金額ラインの設定は、かなり個人差があるのが実情でしょう。
生活態度や生き方によっては200万円以下でも生活できると思うし、贅沢な暮らしを基本としている人には500万円くらいが自立ラインかもしれません。
この定義があるために、今の日本では子供・老人・病人などは「自立できていない人々」と分類されます。
一方で、収入の多い家庭の主婦や資産家などは、全く金を稼いでいなくても、「立派に自立しているえらい方々」となります。
冷静に考えると、ずいぶんいい加減な定義だと思いませんか?
次に、『親と同居していては自立していない』という定義です。
これも、よく言われる言葉ですね。
この定義から、「パラサイト・シングル」との用語が生まれたくらいです。
ですが実際には、「将来に向かって貯金するために、親と暮らしている」、「親が病気がちなので、一緒に暮らしている」といった例はたくさんあると思います。
もっと言えば、昔は親と同居するのが当たり前でした。
長男は家に残って、親の面倒を死ぬまで見るのが普通だったのです。
親と同居=自立していない人という考え方は、ここ30年くらいのものです。
さらに突っ込んだ話をすると、現在の社会通念だと、親から生前贈与で家や資産を子供が譲られたら、今度は親が自立できていない人になってしまいます。
マイホームを持つと、「ああっ、あなたはとても自立できている人ですね」と評価されるのが現状ですが、マイホームを購入した人には親から援助金をもらっている人もかなりいると思います。
中には、全額を親などから出してもらった人だって居るでしょう。
冷静に考えると、ずいぶんいい加減な定義だと思いませんか?
ここまで読んだ人は、「じゃあ、自立とは何なのさ」と思うでしょう。
ここからは、私の考える自立を書いていきます。
まず、結論から書いちゃいます。
『自立というのは、幻想である。
本質的には、すべての人や生物は関連し合って、支えあっている。
自立はあり得ない。』
これが、私が長年考えた末に出した解答です。
「『自立』という概念は、自分に自信を付けるための道具にすぎない 」
これが、私の自立についての解釈です。
本当は、どんな人も1人では生きていないし、誰もが関わっている人々から多大なお世話になって生きています。
腕一本で生きている職人は、「自立している」と言われやすい存在ですが、そうした職人だって、雇い手、商品の買い手、商売の仲間、家族、などの支えが無ければ成立しません。
さらに言えば、人間は毎日、地球の大自然から生まれる豊かな食べ物を頂いて生きています。
毎食ごとに他の生物と繋がり合い、お世話になっているのに、自立なんてあり得るのでしょうか?
だから私は、「私は自立して、1人で生きている」などと主張するのは、勘違いだし驕りなのだと考えます。
これを読むと、「そんな事、言われなくても分かっている」と思うかもしれませんが、ほとんどの人が、子供や病人を「自立できていない存在である」と平気で言います。
それは、「自分は自立できている」と思っている証拠です。
それでは、自立という概念は無意味なのでしょうか。
そうではありません。
「私はしっかりお金を稼いで自立している」とか「私は自分のスタイルを確立しているから、自立している」などと思う事は、自分に自信を与えてくれます。
自信を持つために、自立という概念を使うならば、人生の役に立つのです。
しかし、「お金をこれだけ稼いでいるから、私は自立している。だが、あいつは稼ぎが少ないから自立していない。」とか、「あの人は自分をしっかり持っていないから、自立していない」などと、
『人間に上下を付けるために』自立の概念を使い始めると、人生の役には立たなくなります。
なぜ役に立たないかというと、なによりも「自分は、いつ自立できない人間に堕ちてしまうかも分からない」との、不安に付きまとわれるからです。
他人を、「あいつは自立できている、こいつは自立できていない」と色分けしていくと、そのうちにその価値観が絶対的になってしまいます。
そうなると、何かの事情で自分が不利な状況(例えば病気で動けなくなる状況)になると、「私は自立できていないダメな人間なんだ! 私は負け犬になってしまった。もう生きる価値などない!」となってしまう。
そうして、そうなるのが怖いがために、不利な状況にならないように自分を殺して生きたり、病気にならないだろうか、などとビクビクしながら生きるはめに陥ってしまうのです。
私は、もし人間に自立というものが成立するのなら、『その人が生きて存在しているだけで、自立している』と考えます。
これは、多くの人にとってなかなか理解しづらいでしょうから、説明しましょう。
ここに「年棒が2億円のスター野球選手」がいると想像して下さい。
実際に目にするので、想像するのは難しくないはずです。
現在の日本では、こうしたスター・プレイヤーは『最高に自立できている、憧れの存在』ですよね。
誰もが、文句なしに賞賛します。
そのスター選手が、試合で大怪我をして、寝たきりの状態になりました。
最初は再起できるかと期待されますが、怪我は回復しません。
そのうち再起の可能性は低くなってきます。
やがて契約が打ち切られ、その選手は「元選手」になり、「稼ぎのない自立できない人」として扱われるようになります。
この場合、「あいつは運が悪かったんだ」「人生はつらいよね」「一寸先は闇だな」「仕方ないよ、この世の中は負け犬も存在するから」などと言って、それでお終いにしてしまう人が多いのですが、本当にそれでいいのでしょうか?
このスター選手の話から分かるのは、お金などを自立の基準にしていると、誰もが簡単に自立できない惨めな存在になる可能性が出てしまう、という事です。
それに対して、『人は生きているだけで自立している』と考えていれば、自分も他人も惨めな負け犬になる事はありません。
冷静に考えれば、誰かが大怪我をして寝たきりになったりしても、その人の価値は減るものではないと気付きます。
これは、家族など身近な人なら、容易に理解できる事です。
人間は、存在するだけで価値があるし、存在するだけで自立しており、立派にその人の世界を表現しているのです。
どうでしょう。この説明で分かりましたか。
長々と書いてきましたが、話を最初に戻して、私が自立支援のTV番組を見て感じた疑問への答えを書きます。
自立支援を必要としている人には、このように言えばいいのです。
こう言えるような社会を創ればいいのです。
「私たちは皆、つまずく時がある。
そうした時は、お互いに助け合おう。
なぜなら、私たちは全員が仲間であり、関連し合っているのだから。
あなたは今、苦境にあるが、何の心配もいらない。
なぜなら、私たちは無条件にあなたをサポートするからだ。
変に自立しなければいけないなどと考えると、自分を追い込んでしまう。
そんな事を考える必要は全くない。
あなたは、自分らしく在ればいいのだ。
あなたは今、私たちからサポートを受けているが、いつか多くの人をサポートする存在になってほしい。
それが、私たちへのなによりの恩返しになる。」
(2013年5月8日に作成)