質問者
私は子供の頃、神やイエスが大いなる父で、自分はその子供だと思っていました。
それと同じに、『内なる存在』が親で、私が子供のような関係を、求めている部分があります。
エイブラハム
あなた方の多くが、一方では自由を欲しながら、他方では自分を導いてくれる賢い存在を欲している。
だが、前者の道しか採れないと私たちは言いたい。
あなた方は創造者としてこの世にやって来たのであり、思考の力を通して創造するために生まれたのだ。
あなたがイエスと同一化しているという感覚を持つのは、イエスのエネルギーがあなたの『内なる存在』の中に居るからだ。
イエスという思考エネルギーないし意図は、物質世界で絶えず表現され続けている。
こうした概念を把握し始めると、「私はいつも私というわけではないのですか?」と言う人が出てくるが、そうではない。
あなた方は神であり、全てのエネルギーと繋がっているのだ。
あなたの『内なる存在』は、あなたに安らぎの感覚や幸せの感覚をもたらす。
それは、母親や父親があなたを腕に抱き「すべて大丈夫だよ」と言った時に覚える感情と同じだ。
あるいは、親があなたの目を覗き込んで「あなたのことが誇らしいわ。あなたならきっとできる」と言った時に感じるパワフルな感覚と同じだ。
あなたは『内なる存在』から、自分を奮い立たせてくれる感情を受け取れる。
けれども、『内なる存在』からの指示を期待してはならない。
誰かにやるべき事を命令されるのは、楽しくないし、あなたにとって価値のある経験にならない。
あなた方は、自分が望むものについて日々、決定を下している。
それらの決定に基づいて、あなたが送り出す思考に基づいて、あなたは現状を引き寄せている。
私たちが強調したいのは(強く勧めるのは)、「意図的に決定を下す」という事だ。
あなた方は成長・喜び・自由を求める存在であり、不幸よりも幸福を、閉じ込められるよりも自由を、停滞するよりも成長を、人を打ち負かすよりも励ます人になるのを好む。
従って、他人を打ち負かしている事に気付くと、ネガティブな感情を覚える。
質問者
それでは聖霊とは何ですか?
エイブラハム
私たち流に解釈するなら、「聖霊」とは『内なる存在』であり、あなたの内部に住む家族だ。
言い換えるなら、あなたが用いる「見えない世界のエネルギー」である。
聖霊は、あなたを導く存在ではなく、あなたが目的を果たすために意識的に活用するものだ。
それは、家庭の電気回路を流れる電流にすこぶる似ていて、あなたはプラグをコンセントに差し込めばいいのだ。
『内なる存在』を聖霊と呼ぶのは、私たちは好まない。
なぜなら実際とは異なるイメージをもたらすからだ。
質問者
神の介入について説明していただけますか?
エイブラハム
ほとんどの人が思っているような意味では、神の介入は存在しない。
多くの人が口にする神の介入とは、何が起きたか分からずに、その経験を正当化するための言葉にすぎない。
あなたに起こる事は全て、あなたの意図と信念の組み合わせに基づいて起こる。
見えない世界のエネルギーは全ての人に均等に流れており、それをどう使って表現するかは、あなたの思考にかかっている。
だから「あれが欲しい。それだけの価値が自分にはある。私にはそれができる。」と思えば、それを得られる。
だが「私はあれが欲しい。でも、それを持つのにふさわしくない。」と思えば、それを得られない。
物事が上手く行かないことに対し、他人に責めを負わせている限り、あなたは無力であり続ける。
なぜなら他人の行動はコントロールできないから。
他人をコントロールしようとすればするほど、勝算がないことに気付くだろう。
あなたが「望みのものを得られないのは自分のせいだ。思考を変えればいいのだ」と認めた時、自由が訪れるだろう。
あなたが決断を迫られ迷っている時、疲労を覚える。
それは見えないエネルギーをいくつもの方向に送り出すため、疲れるのだ。
だがいったん決断すれば、あなたは再び充電される。
迷わずに「イエス」と言う時、見えないエネルギーがあなたに流れ込む。
それが「神の介入」だ。
あなたが決断し、思考を1つの方向に向かわせる時、私たちは「成り行きに任せなさい!」と助言する。
というのは、「宇宙の妖精たち(あなたが積み上げてきた意図や思考)」が背後に回り、後押ししてくれるからだ。
(『引き寄せの法則の本質』から抜粋)