中期のジャズおよびジャズメンについて②

(『ジャズ歴史物語』『ジャズを生きる』などから抜粋)

ホレス・シルバーは、12歳で本格的にピアノを始めた。

14歳で本から独学でハーモニーを学んだ。

23歳の時にニューヨークに進出。

1050年12月に、スタン・ゲッツのバンドで初録音をした。

ホレスは56年7月末に、自身がリーダーのクインテットを結成した。

メンバーは、アート・ファーマー、ハンク・モブレイ、ダグ・ワトキンス、アート・テイラーである。

テイラーは1週間で辞めてしまい、ドラムはルイ・ヘイズに代わった。

ジャッキー・マクリーンは、親の要求で1952年にノース・カロライナ農工大学に入った。

しかしすでにジャズの世界で麻薬に溺れていたため、1年で退学し、ニューヨークに戻った。

ジャッキーは、57年に麻薬所持で逮捕された。

初犯のため執行猶予となったが、キャバレー・カードを没収された。

後にさらに2度も逮捕され、合計11ヵ月を刑務所で過ごした。

ジャッキーは59年に、ジャック・ゲルバーの芝居「ザ・コネクション」に出演し、麻薬患者のミュージシャンを演じた。

この芝居は、ジャズ・ミュージシャンが俳優の半数を占めていた。

映画化され、それにも出演している。

61年には「ザ・コネクション」のロンドン公演に出演。これはジャッキーの初の国外旅行となった。

公演後にはパリに行き、クラブ「シャ・キ・ペシュ」で2ヵ月仕事をし、10月にニューヨークに戻った。

60年代初めには、ニューヨークに住む黒人ジャズ・ミュージシャンは、ほとんどがブルックリンのベッドフォード・スタヴィサントにあるゲットーに住んでいた。

ジャッキーは62年に、ボストンで天才ドラマーのトニー・ウィリアムスに出会う。

この時、トニーはまだ17歳だったが、ジャッキーは自分のバンドに誘った。

トニーは翌63年に、マイルス・デイビスのバンドに引き抜かれた。

64年初めにジャッキー・マクリーンは、レジー・ワークマン、シダー・ウォルトン、ベニー・ゴルソン、ロイ・ヘインズと共に初来日し、公演を行った。

帰国後すぐに、麻薬所持で3年越しで続いていた上告を棄却され、6ヵ月を刑務所で過ごした。

所内では、囚人同士の喧嘩、看守による囚人への拷問、ホモになった囚人に少年が強姦されるのを目撃した。

ジミー・ヒースは、1955~59年は刑務所で過ごした。

仮釈放で出所すると、ジョン・コルトレーンの後任としてマイルス・デイビスのバンドに加入した。

しかし規則で仮釈放中はフィラデルフィアから半径60マイル(97km)以内に居なければならず、バンドを辞めざるを得なくなった。

ソニー・ロリンズは、子供の頃からピアノを練習し、まずアルト・サックスを始め、1944年にテナー・サックスを始めた。

彼は、生涯に何度も一時引退をしている。

1回目の引退は、1954年11月~55年の11月までで、シカゴの療養所で麻薬中毒から抜け出すためで、療養所を出てからは肉体労働をしながら練習に励んだ。

2回目の引退は59年8月~61年11月までで、この時はウィリアムバーグ橋の上で練習に励んだ。

3回目の引退は、68年である。

リー・モーガンは、14歳の誕生日にトランペットをプレゼントされた。

ディジー・ガレスピーの楽団に参加し、同楽団が解散するとニューヨークに行きボビー・ティモンズと同室に住んだ。
そしてジュリアード音楽院に入学した。

1957年11月にシド・フレイは、初めてのステレオ・レコードを業界向けにリリースした。

58年2月には一般向けのステレオ・レコードも制作し、ここからLPレコードはステレオが主流になっていく。

ジョン・コルトレーンは、1948年ごろにはフィラデルフィアで、ハワード・マギー、ジミー・ヒース、フィリー・ジョーと演奏していた。

キャノンボール・アダレイは、1941年にアルト・サックスを始めた。

ワシントンで兵役につき、海軍学校に通った。

ビル・エバンスは、6歳の時にピアノを始め、大学でジャズを弾き始めた。

3年の兵役ではシカゴに配属された。ニューヨークのアンヌ・ミュージック・スクールで学んだ。

マッコイ・タイナーは、1954年に近くに住んでいたバド・パウエルから学んだ。

ウォルター・ビショップ・ジュニアは、1953年~59年は引退していた。

アート・ブレイキーは、20歳の時に働いていたカーネギー製鋼所から、フレッチャー・ヘンダーソン楽団を追って逃げ出してきた。

1941年に同楽団と共に巡業中、アトランタで警察に捕まり頭を殴られ、頭蓋骨に鋼のプレートをネジで留めなければならない重傷を負った。

42年末にニューヨークに進出し、メアリー・ルー・ウィリアムスと仕事して世話になった。

彼は、アフリカを訪問後にイスラム教に改宗した。

彼の初リーダー録音は1947年12月に行われた。

ブルーノート・レーベルが手掛けたが、すでにブレイキーはメッセンジャーズの名を使っている。

ブレイキーが率いるジャズ・メッセンジャーズは、1961年の正月に初の来日公演を行った。

その後、63年と65年の正月にも来て公演を行う。

ウェイン・ショーターは、16歳でクラリネットを始め、17歳でテナー・サックスを始めた。

高卒後は学資を稼ぐために就職し、1952年(19歳)の時にニューヨーク大学に入学。

そして昼は絵画の勉強、夜はクラブで演奏し、午前2時~5時に寝ていた。
当時のアイドルは、ソニー・スティットとソニー・ロリンズ。

56~58年は兵役につき、その間にフィラデルフィアでホレス・シルバーと共演した。

59年にジャズ・メッセンジャーズに加入した。

1965年の正月に、第2回・4大ドラマーの世紀の競宴ツアーとして、フィリー・ジョー、チャーリー・パーシップ、バディ・リッチ、ルイ・ベルソンの4人がツアーを行った。

ところがツアー中に、麻薬所持でフィリー・ジョー、パーシップ、カーティス・フラーの3人が逮捕されてしまった。

(2019年12月21日に作成)


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