(主に『セロニアス・モンク 沈黙のピアニズム』から抜粋)
セロニアス・モンクは、1917年10月10日にノース・カロライナ州ロッキー・マウントで生まれた。
セロニアスは、生来の無口で無表情な性格だった。
彼の一家は、セロニアスが4歳の時にニューヨークに引っ越し、マンハッタンの西の一画のサン・ファン・ヒルに住んだ。
近くにはピアニストのジェームズ・P・ジョンソンやライオン・スミスやビートル・ヘンダーソンらが住んでいた。
父のセロニアス・シニアは、ニューヨークに転居して数年後に大病になり、南部に戻って音信不通となった。69年にロングアイランドの病院で死亡した。
父が居なくなってからは、母のバーバラ・スフィア・バッツ、姉のマリオン、弟のトマスと暮らす。
セロニアスはトランペットをすこしかじり、5歳の時に自動ピアノが家に置かれ、ピアノを始めた。
(アート・テイタムも自動ピアノから学んだ)
姉がピアノを習い始めると、姉を見て学び譜面も読めるようになった。
11歳の頃に、姉のピアノ教師からレッスンを受けるようになった。
さらに地元の音楽院で音楽理論のコースを修めた。
当時からメロディを1度聞くだけで苦もなくピアノで再現できた。
日曜には教会でオルガンを弾くようになった。
少年時代の彼は、地元の消防署のマスコットだった。
バスケットボールもよくでき、街に溶け込んだ良い少年時代を送った。
この時期に、初恋の相手で姉の親友のルビー、のちに妻となるネリーに出会った。
セロニアスは、学校の成績が優秀で、ピーターストイヴサント高校で中等教育を受ける数少ない黒人学生の1人となった。
彼は、特に数学と物理に秀でていた。
17歳の頃、女性福音伝道者と共にアメリカ巡業に旅立ち、2年近くを過ごす。
この楽団のメンバーは、セロニアスのピアノの他には、トランペット、サックス、ドラムだった。
演奏したのは、当時はそんな呼び名はなかったが、ロックやR&Bだった。
18歳の頃にカンザス・シティに巡業に来たセロニアスの演奏を、メアリー・ルー・ウィリアムスが聴いている。
すでに個性的なスタイルを確立していたという。
巡業から戻ると、1936~37年にはニューヨークでヘレン・ヒュームズの伴奏を2年間務めたらしい。
39年頃は、サヴォイ・ボールルームの隣のレストランで仕事をした。
セロニアスはアポロ劇場で水曜の晩に行われるアマチュア・ナイトで何度も優勝し、参加を禁止された。
彼は「プロとしてやっていく時がきたと理解した」と述懐している。
1940年に、ニューヨークのハーレムにジャズ・クラブ『ミントンズ・プレイハウス』が開店する。
経営者はテディ・ヒルで、ケニー・クラークにスモール・グループを作って出演するよう依頼した。
クラークは、セロニアス・モンク、ジョー・ガイ、ニック・フェントンをメンバーとして雇い、このバンドはレギュラー出演するようになった。
さらに、ホットリップス・ペイジやハービー・フィールズらが定期的にゲスト出演した。
『ミントンズ』は毎週月曜日は、アポロ劇場で演奏してきたミュージシャンはただで食事させるサービスを行っていた。
このため、ケニー・クラークのカルテットが演奏したあとはジャム・セッションをしていたが、第一級のミュージシャンがそこに参加し、凄い演奏となった。
ミントンズのジャム・セッションから、ジャズの新スタイルの「ビバップ」が生まれたとされている。
黎明期のビバップは、反射神経を必要とするコード・チェンジの連続を好んだ。
当時のミントンズのジャム・セッションを録音したジェリー・ニューマンは、コロンビア大学の学生だったがミントンズの常連客だった。
この録音は発売されたが、チャーリー・クリスチャンの貴重な演奏であり名盤と評されている。
チャーリー・クリスチャンは伝説的なジャズ・ギタリストだが、ディジー・ガレスピーは「ジョン・コリンズに比べれば大した事なかった」と語っている。
ミントンズと並んでビバップの生まれた場所として有名な『モンローズ・アップタウン・ハウス』は、クラークとジミーのモンロー兄弟が開業した店だ。
(この店はチャーリー・パーカーがよく演奏していた)
当時は、どの店も法律で午前4時には閉店しなければならなかったので、この店は4時1分に開店するという変わったアイディアを特徴とした。
なお第二次大戦中は、ジャズクラブはダンス音楽を演奏したり、歌手を出演させる場合、特別税を払わなければならなかった。
(戦時中のため戦費に充てる特別税がつくられていた)
セロニアスは1944年に、コールマン・ホーキンスのサイドメンとして初の吹き込みをした。
以後、規則的にホーキンスのバンドに参加した。
セロニアスは、45年のJATPのアメリカ・ツアーに参加している。
1946年にはディジー・ガレスピーの楽団に参加するが、すぐに辞めてしまった。
後任のピアニストはジョン・ルイスだった。
当時のセロニアスは、よく一晩中あちこちのジャム・セッションを渡り歩いていた。
バド・パウエル、エルモ・ホープ、ハービー・ニコルスの3人は、セロニアスを非常に尊敬していた。
ジョニー・グリフィンは、「1948年にニューヨークでセロニアスと出会った時、彼はいつもバドとエルモを引き連れていて、演奏できる場所を探していた」と言う。
バドとエルモは親友だったが、2人の間ではバッハのインヴェンションのコンクールに次いでセロニアスの作品のコンクールが行われていた。
ハービー・ニコルスは、クラシックの正式な教育を受けていて、52年にはサヴォイ・レーベルに、55年と56年にはブルーノート・レーベルにて吹き込みを残している。
セロニアスは、47年に幼馴染のネリーと結婚した。
2人の出会いは、ネリーの一家が近くに引っ越してきて、ネリーの兄がセロニアスとバスケットボール仲間になったのがきっかけである。その時ネリーは12歳だった。
結婚生活に入ると、ネリーが外で金を稼ぎ、家事も全て担当した。
セロニアスはピアノを弾くだけで、それ以外は何もせずごろごろしているのみだった。
セロニアスは、当時では稀な、稼ぎを常に家にちゃんと持ち帰るミュージシャンだった。
彼は1940年代の後半は、ジャズクラブで演奏していたが、よく遅刻した。
2人の子供は、息子のセロニアスが49年12月に誕生。娘のバーバラが52年に誕生した。
バーバラは音楽の才能があったが、29歳で癌で亡くなった。
彼女も父と同じく、ぶっきらぼうで無口だった。
セロニアスは、1947年にブルーノート・レーベルと契約し、初めてリーダーとして録音し、自身のアルバムを制作した。
ブルーノートを率いるアルフレッド・ライオンは、セロニアスの音楽に惚れ込み、いきなり5年の専属契約をした。
このアルフレッドの決断には、妻のロレインの強い推薦があった。
セロニアスのブルーノート時代の録音は7回で、33曲を録音し、そのうちオリジナル曲が23曲を占めた。
これは15枚のSPレコードになって発売された。
彼は、1つの曲を書くのに数週間も演奏をし続けて、推敲に推敲を重ねた。
彼は同じ曲をずっと演奏し続けて、後に録音し直して発売した曲も存在するが、時を経てもテンポは一定のままで、オリジナルに忠実なテンポで演奏し続けた。
ブルーノートはセロニアスのアルバムを沢山発売したが、アルバムはどれも鳴かず飛ばずだった。
1950年にセロニアスは、チャーリー・パーカーのアルバム『バード&ディズ』に参加した。
このアルバムのジャケットの写真は、パーカーとディジーの並ぶ写真が使われているが、カットされてしまったが右にはセロニアスも写っていた。
51年には、セロニアスはバド・パウエルと共に逮捕されて、キャバレー・カードを剥奪されてしまう。
(キャバレー・カードは、ミュージシャンがニューヨークのクラブで演奏するために必要な証明書みたいなものです)
このため57年に再発行が許可されるまで、演奏機会が極端に限られてしまう事になった。
2人の逮捕の理由は麻薬所持だった。
この時は、前月にもバドは私服の警官に捕まる事件を起こしていた。
52年11月15日に、セロニアスはプレスティッジ・レーベルに移籍した。
プレスティッジは新興レーベルだったが、この時点で82回の録音セッションを行っており、専属ミュージシャンにはマイルス・デイビスもいた。
同レーベルの経営者のボブ・ワインストックは、ダイアル・レーベルの経営者ロス・ラッセルの下で働いた経験があり、ニューヨークのマンハッタン47丁目でレコード店を経営していた。
このレコード店は、店の外にスピーカーを置き、一日中音楽を流していた。
近くにはジャズクラブのロイヤル・ルーストや、マンハッタン音楽院があり、音楽院の生徒が常連で、彼らからレコード制作を勧められたのだった。
ワインストックはまずトニー・フラッセラを紹介され、彼からリー・コニッツを紹介され、コニッツからレニー・トリスターノを紹介された。
そして1949年1月11日に、新レーベルのニュージャズ(これはプレスティッジの兄弟レーベルです)を立ち上げて、トリスターノのアルバムを出した。
49年の間に、13の録音をし、その中にはファッツ・ナヴァロのものもあった。
そしてワインストックは、ニュージャズよりも有力なミュージシャンのレコードを高価格で売るため、プレスティッジ・レーベルを立ち上げた。
ニュージャズでは新人をデビューさせ、有力なミュージシャンはプレスティッジに起用する方針を採った。
セロニアスは、プレスティッジで7つの録音セッションをこなした。
このうちリーダーとなって行ったのは5回で、4枚のレコードになって発売された。
残りの2つはマイルス・デイビスとソニー・ロリンズのサイドメンとしてのものだ。
録音の多くは、ハッケンサックにあるルディ・ヴァン・ゲルダーの録音スタジオで行われたが、そこには素晴らしいスタンウェイのピアノがあった。
ここで録音する時は、ヴァン・ゲルダーの要望で食事・煙草・酒が禁じられた。
(レコード・ジャケットなどの写真を見ると、ミュージシャンが煙草をガンガン吸っているように見えるのだが…)
1953年の末に、フランスのビバップ・ピアニストで作曲家のアンリ・ルノーがニューヨークに録音をしに来て、セロニアスと出会った。
アンリはセロニアスをフランスに招こうとし、パリにいるシャルル・ドロネーに連絡を取った。
セロニアスは54年6月に、フランスに渡った。初の海外旅行だった。
パリで演奏したが、受けなかった。
だがこの時、ロンドンから彼を聴きに来たパノニカ男爵夫人と出会った。
セロニアスはパリでラジオ用に、ソロピアノで9曲の録音をした。これは後にアルバムとなって発売された。
セロニアスは55年に、ハリー・コロンビーと仲良くなり、マネージャーとして雇った。
ハリーは当時、学校の教師をしていて、アート・ブレイキーに学校での公演を依頼した。
その頃はブレイキーとセロニアスはクラブで共演しており、ブレイキーの紹介でハリーはセロニアスと知り合った。
さらにハリーの兄のジュールはシグナル・レーベル(ジャズの零細レーベル)を経営していて、少し前にジジ・グライスのサイドメンとしてセロニアスは同レーベルに吹き込んでいた。
ちなみに当時のマネージャーへの報酬は、普通はギャラの10~20%だった。
さらに1955年にはリバーサイド・レーベルと契約し、以来このレーベルから沢山のアルバムを発表していく。
リバーサイドの経営者兼音楽プロディーサーは、オリン・キープニュースである。
この音楽レーベルは、発足したばかりだった。
オリンは、実は48年にセロニアスと会った事があり、当時はレコード・チェンジャー誌の記者だった。
セロニアスのリバーサイドでの初アルバムは、デューク・エリントンの曲のみを演奏するものだったが、彼はエリントンの曲をほとんど知らなかった。
さらに、録音に参加するドラマーのケニー・クラークへの連絡をセロニアスは1日遅く間違えて伝えてしまい、ケニーは参加できなくなった。
セロニアスはフィリー・ジョーに代役を任せる事を主張したが、オリンは断り、録音は翌日に延期された。
セロニアスは57年にアルバム「ブリリアント・コーナーズ」が発売されると、初めて広く支持されるようになった。
ブリリアント・コーナーズの録音の直前の56年11月に、セロニアスが家族と35年余りもが住んできたアパートが全焼し、ピアノ、楽譜、写真などが全て焼けてしまった。
同じ63丁目にある新居に移った。
セロニアスは、1957年の後半に自己のバンドを率いて、ファイブ・スポットというジャズ・クラブに6ヵ月間の長期出演をした。
この時、バンドにはジョン・コルトレーンが加わっていて、非常な人気を博し、満員にならない日は稀だった。
ファイブ・スポットに出演中、オリン・キープニュースはバンドの録音をしようとし、コルトレーンが専属契約をしているプレスティッジ・レーベルのボブ・ワインストックに電話して、コルトレーンを借りようとした。
ボブは「セロニアス・モンクをこっちに貸すならいいよ」と返事し、オリンはセロニアスに相談したが、セロニアスは断った。
このため、コルトレーンの名を伏せて録音する事になり、録音した曲数も少なかった。
ファイブ・スポット出演時にドラムを担当していたシャドー・ウィルソンは、その後に地下鉄の階段から突き落とされて死亡した。
麻薬絡みの事件だったという。
57年12月に、セロニアスはトリオ編成でテレビ番組「ザ・サウンド・オブ・ジャズ」に出演した。
この番組には、カウント・ベイシーやビリー・ホリディらも出演した。
58年2月のセロニアスのスタジオ録音は、1曲だけの録音で終わっている。
これは、参加するはずだったソニー・ロリンズとアート・ブレイキーが来ず、最初の曲の1テイク目を終えた後にピアノの脚が1本折れ、セロニアスが家に帰ってしまったからだ。
リバーサイドとのレコーディング契約は、レコードの売り上げが好調なので3年間の契約延長となった。
契約金は倍になり、セロニアスのレコード売り上げの取り分も上がった。
ジョン・コルトレーンがマイルス・デイビスのバンドに移籍すると、セロニアスはジョニー・グルフィンを新たなテナーサックス奏者として加入させた。
ジョニーは58年末まで在籍し、辞めるとシカゴに戻った。
セロニアスは、1950年代の後半になると、ライヴ・アルバムも作るようになった。
ジョニー・グリフィンの居た時期にも作っている。
1940~50年代のライヴ・アルバムは、1晩中マイクを会場に設置したまま、同じ曲を数回繰り返し、そのうち良い出来の1つが正式なテイクとなり収録された。
(ジャズクラブでは1晩に数セットの演奏が行われるのが普通で、アルバム制作の時は各セットで同じ曲を演奏したりした)
ジョニー・グリフィンはある時、他の仕事があって代理のミュージシャンを立てた。
それはあまり良いプレイヤーではなく、次の日にセロニアスは「また代理をよこす時は、コルトレーンかロリンズ、あるいはチャーリー・ラウズにしてくれ。それ以外は駄目だ。」と言った。
チャーリー・ラウズは、58年末にグリフィンが抜けるとセロニアスのバンドに加入し、それから12年も在籍した。
ラウズは、ワシントンDCの出身で、1944年にビリー・エクスタインの楽団でデビュー。その後はディジー・ガレスピー、エリントン、ベイシー、ベニー・グリーンの楽団に参加した経歴があった。
この少し後に、トランペッターのサド・ジョーンズはセロニアスと共演しアルバム制作している。
サドはどんな曲でも初見で演奏できるとの評判が高かったが、セロニアスとのセッションでは出来なかった。
59年2月には、セロニアスはタウンホールに自己のビッグバンドを率いて出演し、これはライヴ・アルバムとして発売された。
ビッグバンドのアレンジは、ホール・オーヴァートンが行ったが、ホールはミヨーに師事した人物である。
セロニアスは、ジュリアード音楽院に通って勉強をしたという話があるが、1959年のビッグバンドの活動中に、同音楽院に居るホールをしばしば訪ねた事から生じた誤りである。
59年には、ボストンで演奏するために妻ネリーを同行させずに行ったが、ホテルに着くと踊り出し、追い出されてしまうトラブルも起きた。
この時は、クラブに着いて2曲のみ演奏して去り、1時間後に再び現れて2曲を演奏して去り、空港でさまよい歩いて警察に捕まり、精神病院に連れて行かれてしばらく過ごした。
セロニアスの後援者として有名なパノニカは、イギリスの名門ロスチャイルド家の娘である。
彼女はジュールと結婚して6人の子供をもうけたが、ジュールが外交官の職についてニューヨーク勤務となり、一緒にニューヨークに来た。
しだいにパノニカ男爵夫人はジャズメンと付き合い始め、マリファナも吸い出した。
このため離婚となり、ジュールは再婚した。
パノニカは親族会議で一族の資産管理権を剥奪された。
しかしかなりの資産を譲られて、悠々自適の暮らしを始めた。
セロニアスが58年に再びキャバレー・カードを剥奪されると、パノニカがそれを救った。
この事件の詳細はこうである。
58年の秋に、セロニアス、パノニカ、チャーリー・ラウズは車でフィラデルフィアに向かっていて、デラウェアの小さな村に着いた。
そこでセロニアスは一杯やりにモーテルに行ったが、パノニカの車はベンツで、それに乗っているセロニアスを見て警官は車を盗んだと思い、検問した。
すると車内からマリファナが見つかり、セロニアスは2ヵ月の禁固、2年のキャバレー・カード停止となった。
しかしパノニカが弁護士を雇い、4ヵ月後に無効となった。
パノニカの家は、ニューヨークのウィーホーケンにあり、セロニアスはよく遊びに行った。セロニアスはこの家で死去している。
60年の夏は4ヵ月の間、パノニカの忠告でラウズの入ったカルテットにスティーヴ・レイシーを加えて活動した。
セロニアスは1961年の4~5月にヨーロッパ・ツアーを行った。
このツアーは、イギリスではジャズ・メッセンジャーズと一緒に回った。
62年にはニューポート・ジャズ・フェスティバルで、デューク・エリントンと共演した。
63年には日本公演も果たした。
1962年にセロニアスは、リバーサイドとのレコーディング契約が終了し、新たにコロンビアと契約した。
コロンビアの音楽プロデューサーのテオ・マセロは、55年にテレビ番組のスティーヴ・アレン・ショーでセロニアスと共演した事があった。
(テオ・マセロは一時期はジャズ・ミュージシャンをしていた)
コロンビアとの最初の契約期間だった62~65年に、セロニアスは30回以上もスタジオ入りした。
64年のルルズ・バック・イン・タウンの録音の時、スティーヴ・レイシーが「どのように演奏すればいいか」と聞くと、セロニアスは「ドラマーが良い音を出せるようにやってくれ」と答えた。
64年には、ドラマーのベン・ライリーが楽団に加入した。
そのいきさつをベンはこう話す。
「1ヵ月間、セロニアス・モンクのカルテットと看板を共に
するバンドの一員でクラブに出演した。
1ヵ月の間に、セロニアスとは二言ぐらいしか話さなかった。
出演の終わった次の日の朝、電話でセロニアスが今日の
レコーディングに呼んでいる事を聞かされ、急いで行った。
そしてドラムを組み立てるとすぐに録音が始まった。
録音の後、セロニアスは『金はもらっているんだろうね』と
聞いてきて、『俺は自分のバンドのメンバーにちゃんと金が
支払われていないと気が済まないんだ』と言う。
私が『僕はこのバンドのメンバーになったのか』と聞くと、
彼は『パスポートは持っているかい』と聞くんだ。
『切らしている』と答えると、『一体何をしてるんだ、
週末にはツアーに出るんだぞ!』と言われた。」
1965年にセロニアスは、ヨーロッパ・ツアーに続けて、オーストラリアにもツアーに行った。
ツアー中は、朝8時に起床、空港に向かい11時に離陸、13時に着陸してホテルに向かい、ホテルで記者会見、17時に音合わせをして食事、19~23時に公演し、ホテルに戻り深夜2時に寝る、というスケジュールだった。
1965年にはコロンビアとレコーディング契約の延長をしたが、3年で3枚のアルバム制作、レコーディング日数は8日と、それまでの3年間に比べて大幅に減った。
これは黒字にするため、株主がうるさいためで、長期計画ができなかったからだ。
1967年にセロニアスは、ビッグバンドを率いてヨーロッパ公演をした。
この時のバンドには、ジョニー・グリフィンらが参加した。
1969年に、ラリー・ゲイルズとベン・ライリーが退団した。
70年にはチャーリー・ラウズも退団した。
1969年の半ばに、サンフランシスコで演奏中、セロニアスは様子がおかしくなり、妻ネリーに連れられて精神病院に行き治療を受けた。
トランペット奏者のエディ・ヘンダーソンが治療を担当し、エディが付き添ってクラブに出演した。
しかしセロニアスは大汗をかき、音を全く出さずに鍵盤を沈め始めて、休憩時間にエディに「良いステージだろ、違うかい」と言った。
彼は病院に戻され、電気ショック療法も受けた。
1ヵ月後に正常になり退院。
1971年には、ディジー・ガレスピー、カイ・ウィンディング、ソニー・スティット、アート・ブレイキー、アル・マッキボンと共に、ジョージ・ウェインの企画した「オールスターズ・ツアー」に参加した。
このツアーのリーダーはディジーだったが、ブレイキーは「セロニアス・モンクをもっとフィーチャーしたほうがいい」と助言した。
それまではディジーがピアノを弾いてマッキボンとデュオをしたりしていた。
ディジーは、セロニアスの曲のうちラウンド・ミッドナイトとエピストロフィしか覚えておらず、ブルーモンクを演奏したら最初の数小節で会場が沸くのを見て驚いたほどだった。
71年11月には、ツアー中にロンドンで、ブラックライオン・レーベルのために生涯最後のレコーディングを行った。
ソロで13曲、トリオ編成(マッキボン、ブレイキーと共演)で9曲を録音した。
6時間かけてCD3枚分の録音をした。
71年に、セロニアスの息子のトゥーティ(セロニアス・ジュニア)が、ドラマーとして正式にセロニアスのバンドに加わった。
だがセロニアスは、72年の2度目のオールスターズ・ツアーの後、ほとんど仕事をしなくなった。
74年4月に、彼の業績を称えるコンサートに参加。
75年7月にカルテットを率いてフィルハーモニックに出演。
70年代の末に、前立腺の手術と膀胱炎の処置で尿を取る袋を付けて行動しなければならなくなり、友人にも会わなくなる。
82年2月に死去した。
最後にセロニアス・モンクの特徴と、同業者のコメントを紹介する。
セロニアスは、しばしばアルペジオ的に和音の構成音を1つ1つ順番に奏でた。
彼は演奏中にノってくると、サックスがソロをとる間はピアノを離れて、ダンスを踊り始める。
ステージに上がるとバンドのメンバーに話しかける事はなく、演奏の質が良くない時は店から出て行ってしまった。
スタジオで新曲をやる時、彼は譜面を見せず、共演者に「音楽を読み取るのではなく、聴き取ってほしい」と言った。
彼は身長は185cmで、50歳をすぎる頃に体重は100kgを超えていた。
1957年に自動車事故を起こし、病院に運ばれる怪我をした。
お洒落好きで、少しでも金を手にするとすぐに服に使ってめかし込んだ。
他の人が暑くて上着を脱ぐ時でも、彼はしばしばそのまま脱がずにいた。
帽子には特にこだわり、沢山のコレクションを持っていた。
帽子で個性を発揮し、帽子以外の服は伝統的なものを身に付けるスタイルだった。
一時期セロニアスのバンドにいたジョニー・グリフィンは、セロニアスがアート・テイタムのフレーズを丸ごと演奏するのを聞いたことがある。
その時セロニアスは、「こんな風に演奏するのはあまり面白くないね。個性的じゃないし模倣だよ」と言った。
セロニアスの言葉は率直で、しきたりを意に介さず、すぐに問題の核心に行きたがった。
彼の手は大きく、指を開くと親指と小指の間が23cmあった。
左の薬指にはいつもMONKと刻印された指輪をし、演奏中も外さなかった。
右の小指にもしばしば指輪を付けていた。
セロニアスは、大量の麻薬とアルコールを使用していた。
麻薬はあらゆる種類を使っていた。
1948年にはマリファナ所持で1ヵ月間の謹慎をしている。
彼は演奏に遅刻するので有名だった。
マックス・ローチ
「セロニアスは隣り合う2つの半音を同時に鳴らし、すぐにそのうちの1つを放すテクニックを使い、管楽器のような歪み(ピッチ・ベンド)を模倣しようとしていた。」
ジョン・コルトレーン
「彼の音楽は、和音を1つでも見失ってしまうと、まるで空っぽのエレベーターに取り残されてしまったみたいなんだ。」
ジョニー・グリフィン
「ライト・ブルーを演奏している時、テーマの最初の提示と2度目の提示とではハーモニーが違うと納得するのに1週間かかった。」
ハンク・ジョーンズ
「セロニアス・モンクおよびバド・パウエルと一緒に、
6時間もの道のりを共にした事がある。
2人は隣り合って座っていたが、一言も話さなかった。
目的地に着きそれぞれの楽屋に向かったが、別れる際にバドは
セロニアスにNice talking to you(お話出来て良かった)
と言った。」
(2019年12月25日に作成)