(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年10月21日に作成)
🔵目次
バードのバンドはスリー・デューセスからロイヤル・ルーストに移る
🔵マイルスは1948年12月にバードのバンドを辞める
1948年の終わり頃になると、オレ(マイルス・デイビス)はバード(チャーリー・パーカー)のバンドにいるのが限界にきた。
バードのバカな行動に付き合うのに疲れたんだ。
だが調子の良い時のバードと演奏するのは、やっぱり大好きだった。
でもバードは有名になればなるほど、バンドをほったらかして、自分だけでソロの仕事を取り始めた。
それに奴は、ステージでオレたちを紹介することもなく、自分のソロが終わると振り向きもしないでステージを離れるようになっていた。
ある日、『スリー・デューセス』で演奏していると、バードはイラ立った目付きでオレを見て、のしかかるようにして「演奏がうるさすぎる」と言った。
数あるトランぺッターの中でも、ものすごくソフトな演奏をするこのオレに、うるさいと言うなんて、気が狂ってるとしか思えなかった。
バードはいつも「エンターテイナーみたいに見られるのは嫌だ」と言っていたが、1948年の後半になると見せ物になり始めていた。
バードが馬鹿なことをやるの見て笑うために来る白人の客が増えて、オレはそれがすごく嫌だった。
奴が曲名を「彼女のプッシーしゃぶり」とアナウンスした時、オレは本当に恥ずかしかった。
アホな白人を笑わせるためにステージに立つなんて、耐えられなかった。
バードが客を笑わせるためにバンドの演奏を途中で止めさせた時、もう沢山だと思った。
1948年12月にオレはバードのバンドを辞めたが、この時のバンドの士気はドン底だった。
クリスマス・イヴにオレたちは『ロイヤル・ルースト』で演奏したが、バードがギャラをきちんと支払わないので、オレとバードは揉めていた。
バードはステージに上がると、おもちゃのピストルでピアノのアル・ヘイグを撃ったり、マイクに向かって風船の空気を抜いて音を出したりと、また道化をやり始めた。
客は大笑いし、受けたと思ったバードも上機嫌だった。
あまりにアホらしいんで、オレはステージから歩き去った。
ドラムスのマックス・ローチも、その晩に辞めると決めた。
代役が決まるまで、少しの間だけオレとマックスはバードのバンドでプレイを続けたが、すぐにケニー・ドーハムとジョー・ハリスが後任に決まった。
🔵JATP出演を断るマイルスとマックス
しばらく経ってからノーマン・グランツが、オレとマックスに「JATPのコンサートでバードと演奏してくれ」と言ってきた。
(※ノーマン・グランツは音楽プロデューサーで、JATPはグランツの主催するジャズ・コンサートである)
オレ達はきっぱりと断わった。
マックスがノーマンをぶん殴ろうとしたから、オレが止めた。
マックスが怒った理由は、ノーマンがオレたちのやっているジャズ(ビバップ)が嫌いで JATPでやろうとしなかったからだ。
そのくせノーマンは、(ビバップの)スタープレイヤーのバードをコンサート・プログラムに入れたくて、バードと一緒にやったことのあるミュージシャンを揃えようとしていた。
(※JATPはスウィング・ジャズを基本にしていて、JATPではバードもスウィング・ジャズの曲を演奏している。)
オレとバードの縁が切れたわけではなく、オレはこの後、2~3回だけだがバードと一緒にレコーディングをしている。
1950年になると、バードのバンドにはレッド・ロドニーが加入したが、ロドニーの話ではバードはいつも「マイルスたちに悪いことをした」と言っていたそうだ。
バード自身がオレたちに何回かそう言ったこともある。
だがそう言いながらもバードは、オレ達の後のバンド・メンバーにも同じ仕打ちを続けていた。
🔵メロトノーム誌のオールスターズの録音
1949年1月にメロトノーム誌がオールスターズを選出した。
トランペット部門はディズ(ディジー・ガレスピー)、ファッツ・ナバロ、オレが選ばれた。
アルトサックス部門はバードが選ばれた。
RCAがこのオールスターズを、1月3日にピート・ルゴロの指揮でレコーディングした。
この日、バードは本当はよく分かっていたのに、「アレンジがよく分からない」と言って別テイクを録らせ続けた。
もっとカネをもらうために、わざとしたんだ。
この時は音楽業界組合が行っていたレコーディング・ストライキが明けたばかりだった。
で、新しいレコーディング・ルールには3時間という制約があり、それ以上は超過料金扱いになったんだ。
バードが別テイクを録らせ続けたおかげで、3時間の超過になり、オレたち全員が儲かることになった。
この日は2曲レコーディングされたが、そのうち1曲はバードのやり口に因んで「オーバー・タイム」と名付けられた。
この日の演奏は、トランペット・セクションを除くと、何の内容もない。
多くのソロイストがいるのにSP盤で収録時間が短いから、全員が本領を発揮できなかった。
でもトランペット・セクションは、オレとファッツがディズのスタイルに合わせて吹いて、ディズそっくりに吹いたから、フレーズがそこら中を飛び回る感じで最高だった。
ユニオン(組合)が大きなストライキとしてレコーディング禁止を呼びかけていたから、オレたちはすぐにスタジオに入ってレコーディングした。
たしかクリスマス前の日曜日だった
このレコーディングが終わると、バードは単独でノーマン・グランツ(※プロデューサー)が主催するJATPツアーに加わるためカリフォルニアに行った。
バードはこのツアー中に、コンサートを1つすっぽかしてメキシコに行き、付き合っていたドリス・シドナーと結婚した。
バードはJATPのスター・プレイヤーだったから、バードがいない公演に客が怒り、 ノーマン・グランツは痛い目をみた。
もちろんバードは、そんなことは気にもしなかった。
バードはいつの間にか相手に取り入って仲直りするのが上手かったから、ノーマンとの関係もやがて回復した。
JATPツアー後のバードは、自信に満ちあふれ、今まで見たことがないほど幸福そうだった。
そしてオレ達は再び『スリー・デューセス』に出演した。
だがバードは、完璧に立ち直ったと見えても、また元に戻ってしまうんだ。
人々が自分のことをスクエア(古臭い)と考えるのを心配するのか、普通の日常生活を送るのが怖いのか、またダメになってしまうんだ。
🔵ヘロインの常用で壊れていくバード
ヘロインの常用で、バードは1948年に入ると手に負えない状態になってきた。
この年にシカゴの「アージル・ショウ・バー」にオレたちは出演した。
だが開演時間になってもバードは現れず、やっと現れた時の彼はヘロインとアルコールでメロメロで吹ける状態じゃなかった。
奴がステージ上で半分眠っているので、オレとマックスが目覚ましがわりに4小節交換のソロをやり始めたところ、Fキーの曲なのに全然別の曲を吹き始めた。
そのイカれたバードを、ピアノのデューク・ジョーダンは追いかけて弾いた。
それがあまりに酷い演奏なので、その場でオレたちはクビになってしまった。
ひどく酔っているバードは、店から外に出ると、トイレだと思って電話ボックスに入って小便をする有様だった。
カネを払いたくないアージル・ショウ・バーの白人の店主は、「黒人のユニオンにいってギャラをもらえ」と言いやがった。
で、オレたちは次の日、黒人ユニオンのシカゴ支部へ行った。
バードはユニオンの代表の部屋に入り、「カネをくれ」とだけ言った。
このユニオン支部の連中は、バードのことを過大評価されたジャンキーのミュージシャンだと思っていたようだ。
だからバードがカネをたかりに来たと思って、代表は机からピストルを取り出すと「すぐに出て行け!じゃないとぶっぱなすぞ!」と言った。
オレたちは大慌てで飛び出した。
バードは引き返して代表を殴ろうをしたが、デューク・ジョーダンが止めた。
もしデュークが止めてなければ、グレイという名のあの代表は本気だったから、戻ってきたバードを撃ち殺しただろう。
オレたちは同じ1948年に、また「アージル・ショウ・バー」に出演した。
演奏が始まり自分のソロを終えたバードは、ステージを降りてロビーの電話ボックスに入ると、そこで小便をし始めた。
ものすごい量で電話ボックスから溢れてカーペットまでびしょびしょになった。
バードはニヤニヤしながらボックスを出ると、チャックを閉めて堂々とステージに戻ってきた。白人の客と店主たち皆が見ている前でだ。
その夜の彼はハイでも何でもなかった。オレたちに変なマネをするなと、態度で店の主人に伝えたんだ。
主人は何も言わず見て見ぬふりをしていた。
🔵不満を高めていくマイルス
1948年になると、ニューヨークの52丁目は警官だらけになり、店の出し物に気をつけるよう圧力をかけ、ハスラーや問題のあるミュージシャンを逮捕し始めた。
それまでは客のほとんどは、騒ぐことの好きな兵隊や軍関係者だったが、第二次世界大戦が(1945年に)終わり、人々はきちんとした生活をするようになってきた。
ニューヨークのジャズ界は、52丁目の凋落と、長く続くレコーディング・ストライキで大損失を受けた。
この時期、バードのバンドは『スリー・デューセス』や『オニックス・クラブ』に定期的に出演していたが、バードが相手構わずに(話術で騙して)力ネを巻き上げるので、皆が頭を悩ませていた。
バードは、オレたちバンド・メンバーにきちんとギャラを渡さなくなって、オレのやる気はどんどん落ちていった。
インディアナポリスに行って演奏した時のことだが、演奏後にバードは「クラブの店主がギャラを払ってくれないから、ギャラは次のステージまで待て」と言った。
オレとマックス・ローチは納得できず、ホテルのバードの部屋に押しかけたんだが、バードが慌ててかなりのカネを枕の下に隠すのを見てしまった。
見られたバードは、「このカネは他のことで必要なんだ。ニューヨークに戻ったら払うから」と言った。
マックスは納得したが、オレは違った。
で、オレは言った。「そのカネをよこせよ、バード」
「一銭もやれんね。ジュニアよ、カネは無しだ。」
オレのことを、バートはよく「ジュニア(息子)」と呼んでいた。
オレはビール瓶をつかむと先を叩き割って、「この野郎、カネをよこすのか、それとも殺されたいのか、どっちだ?」と言った。
言った時にはもうバードの首根っこを掴んでいた。
奴は枕の下からカネを取り出し、顔にいやらしい笑みを浮かべて、
「怒ったなマイルス。見ていたかマックス、あれだけしてやったのに、マイルスはオレに腹を立てやがった」と言った。
マックスはバードの味方になって、「マイルス、バードはお前をちょっと試しただけさ。悪気はないんだよ」と言いやがった。
こんな出来事が、オレがバードのバンドを辞める気になった理由だ。
オレは、バードの女房で白人のドリス・シドナーの行動にも腹が立っていた。
ドリスは自分がボスだと思い込んだ白人が黒人にやる、あの振る舞いを、オレたちしてしていた。
母親になった気分で、オレたちにいちいち指図してくるんだ。
一方でバードは、どこかに行ってはハイになっていた。無神経もいいところさ。
🔵バードのバンドはスリー・デューセスからロイヤル・ルーストに移る
バードのバンドは、バードは演奏してカネを受け取ることしかしなかったから、オレがリハーサルを仕切りバンドリーダーみたいになっていた。
オレは毎日ピアノのデューク・ジョーダンに曲のコード進行を教えたが、デュークはいつまでもダメだった。
でもオレのバンドじゃないから、奴をクビにできなかった。
バードにはいつもデュークをクビにしてバド・パウエルを雇うよう頼んでいたんだがな。
バードのバンドが正真正銘の最高のバンドになるのに、唯一欠けていた要素がバド・パウエルだった。
それにベースのトミー・ポッターは、嫌いな奴の首でも絞めるように弦をきつく押さえていた。
オレたちはいつも「トミー、彼女を楽にしてやれよ」と言っていた。
もっともトミーのリズムは悪くはなかったけどな。
バードとバドは天才肌で、オレの知るこの世でたった2人の類い希なミュージシャンだった。
バドはヘロインと酒に溺れておかしくなり、精神病院に入れられてさらにおかしくなってしまった。
だが彼は今世紀最高のピアニストの1人だった。
バードのバンドの状況は、どんどん酷くなっていった。
この頃になると、バードはいつも自分の楽器を質に入れていて、他人のサックスを借りて吹いていた。
その音が酷いので、『スリー・デューセス』は従業員に毎晩質屋に行かせて、バードの楽器を受け取ってきて、演奏が終わるとまた返しに行かせていた。
バードのやっていることは馬鹿な道化みたいで、見ちゃいられなかった。
ある晩、バードは『スリー・デューセス』に開演時間に遅れてやって来たが、演奏せずに楽屋で鰯の缶詰とクラッカーを食い始めた。
店の主人は楽屋に来てバードをステージに上げようとしたが、バードはうすら笑いを浮かべて食べ続けた。
主人は拝まんばかりだったが、バードは無頓着で主人にクラッカーを勧めたりした。
なんともおかしな光景で、オレ達は笑いが止まらなかった。
バードは最後には演奏したが、それまでに主人は一生忘れられないくらいたっぷりと馬鹿にされていた。
この後バードは、出演先を『ロイヤル・ルースト』に移し、2度と『スリー・ディーセス』には出なかった。
この時期ニューヨークでは、52丁目のジャズクラブたちが衰えて、ジャズクラブは47丁目とブロードウェイに移り始めていた。
その新しいジャズスポットに、ラルフ・ワトキンスが経営する『ロイヤル・ルースト』があったんだ。
この店は元はチキン屋だったが、1948年にモンティ・ケイがシンフォニー・シッドに声をかけて、ジャズ演奏をプロデュースさせた。
モンティ・ケイは白人の若者で、色の薄い黒人に成りすまして、黒人ミュージシャンをプロデュースしてカネを稼いでいた。
『ロイヤル・ルースト』にオレたちは、1948年の9月から12月まで出演した。
これをシンフォニー・シッドがラジオ実況放送をしたので、多くの人がオレたちのライブをラジオで聴くことになった。
(※この時に放送された演奏は、LPやCDにまとめられて発売された。名演がかなりある。)
1948年9月だったと思うが、バードのバンドはこの年初めてのスタジオ・レコーディングをした。
オレはバードを説得して、ピアノをジョン・ルイスに代えた。
ベースもカーリー・ラッセルが参加した。
1948年の12月頃に、ついにデューク・ジョーダンが抜けて、ピアノはアル・ヘイグになった。
だがオレは、バド・パウエルやジョン・ルイスやタッド・ダメロンの方が良いピアニストだと思っていたから、不満だった。