(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年10月31日に作成)
🔵目次
マイルスのプレスティッジでの初リーダー録音、ソニー・ロリンズの初リーダー曲
プレスティッジでの2回目のリーダー録音(アルバム『ディグ』)
バードとマイルスの最後の録音(アルバム『コレクターズ・アイテム』)
🔵バードとマイルスがバーブの録音で再共演
1951年に入ると、オレ(マイルス・デイビス)は1月17日に、1日で3つのレコーディングをやった。
この日、まずバード(チャーリー・パーカー)の『バーブ・レーベル』へのレコーディングに参加した。
これは、ウォルター・ビショップがピアノ、テディ・コティックがベース、マックス・ローチがドラムスだった。
この日のバードは調子が良くて、オレたちは全員がすばらしい演奏をした。
音楽もラテンタッチで面白かった。
たいしたリハーサルもなかったが、バードのレコーディングでは珍しくスムーズに進行した。
🔵マイルスのプレスティッジでの初リーダー録音、ソニー・ロリンズの初リーダー曲
オレはバードとのレコーディングを終えると、『プレスティッジ・レーベル』での録音をするため、別のスタジオに向かった。
これはオレのプレスティッジにおける初リーダー録音で、ソニー・ロリンズ、ベニー・グリーン、ジョン・ルイス、パーシー・ヒース、ロイ・ヘインズを共演者に選んだ。
この日は寒くて雪が降りそうな天気だった。
オレはバードとの演奏で疲れてしまい、プレスティッジの録音では調子が出なかった。
だが他のメンバーは良い演奏をした。特にソニーは1~2曲で素晴らしい演奏をした。
オレはソニー・ロリンズを買っていたから、この機会にソニーをリーダーにした録音もするべきだと、プロデューサーのボブ・ワインストックに提案した。
ボブはソニーがまだ経験不足だからと反対したが、オレがチャンスを与えるべきだと説得して、この日に続けてやることになった。
ソニーがリーダーになった録音は1曲だけで、ピアノのジョン・ルイスは用事があって帰ったから、オレがピアノを弾いた。
録音を終えると、皆から「トランペットよりもピアノのほうが良かった」なんてからかわれたっけな。
スタジオから出て、ソニーとヘロインを買いに行きながら、「このヘロイン常習をやめられたら、全てが上手くいくのになあ」と思ったのを憶えている。
だがヘロイン常習から抜け出すには数年かかった。
🔵プレスティッジでの2回目のリーダー録音(アルバム『ディグ』)
プレスティッジでのオレの2回目のリーダー録音は、同じ年(1951年)の10月に行われた。
この時プレスティッジは、マイクログルーブという新しい技術を使って録音しようとしていた。
この技術だと、それまでのレコード(SP盤)の制限時間である3分よりも長時間の録音ができる。
つまり、オレたちがジャズクラブでやっている長いソロが録音できるというんだ。信じられなかった。
オレはそれまでのお決まりの3分間の演奏に飽きていたから、自由なソロを取れることに興奮した。
オレはこの録音では、サックスはソニー・ロリンズだけでなく、ジャッキー・マクリーンも起用した。ジャッキーはこれが初めての録音だった。
オレはトランペットを十分に練習していたし、バンドとしてリハーサルもしていたから、この録音は最高の出来になった。
この録音は『ディグ』と呼ばれるレコードになったが、チャールズ・ミンガスもベースを持ってスタジオに遊びに来たので、「コンセプション」のバックで少し演奏した。
だがミンガスの契約の関係で、レコードにクレジットはできなかった。
この日はバードも見に来て、コントロール・ルームに座っていた。
ジャッキーは、自分のアイドルのバードがいるのを見てひどく取り乱し、何度もバードの所に行っては「何をしているのか」と聞いた。
バードはその度に「ふらりと聴きに寄っただけだ」と答えていた。
ジャッキーは千回は聞いたと思うほど、同じ質問をくり返したが、バードはそういう体験に慣れていたからクールに振る舞って、「良いサウンドだ」とか励まし続けていた。
しばらくするとジャッキーも落ちついて、すばらしい演奏をした。
『ディグ』でのオレは、他のトランペッターのように聞こえなかったし、トーンも以前に戻りつつあったから、その出来に満足した。
新しい長時間録音のフォーマットは、オレはやり易くて、オレのために発明されたようなものだった。
🔵バードはジャッキー・マクリーンをべた褒めする
1952年の5月にオレは、ジャッキー・マクリーン、ピアノのギル・コギンス、ベースのコニー・ヘンリー、 ドラムスのコニー・ケイ、メローホーンのドン・エリオットと共に、ニューヨークのジャズクラブ『バードランド」に出演した。
この日、バードが客席にいたが、ジャッキーの演奏に大きな拍手を送り続けた。
1度なんかセットが終わると、バードはジャッキーに走り寄って首だか頬にキスまでした。
だがバードはオレとは口をきかなかった。
そんなバードは見たことがなかったし、ジャッキーに大きな拍手を送っているのはバードだけだったから、オレは変な気分だった。
バードがそんな事をするのは、オレへの嫌味なのではないかと、演奏中にずっと考えていた。
だがバードのおかげで批評家たちがジャッキーに注目しだしたのも事実だ。
あの晩、ジャッキーの知名度が上がり、その名が音楽界に刻まれることにつながった。
🔵バードとマイルスの最後の録音(アルバム『コレクターズ・アイテム』)
オレの1953年は、プレスティッジ・レーベルでのリーダー録音で始まった。
この時のメンバーは、刑務所から出てきたソニー・ロリンズ、 バード、ウォルター・ビショップ、パーシー・ヒース、 フィリー・ジョー・ジョーンズだった。
バードは、バーブ・レーベルを離れてマーキュリー・レコードと専属契約していたと思う。
だからこの録音では、彼はチャーリー・チャンという偽名を使い、(普段のアルトサックスではなく)テナーサックスを吹いた。
バードは、自分のバンドでトランペッターをするレッド・ロドニーがクスリで捕まってレキシントンの刑務所に送られて以降、 自分も警察に見張られていると思ってヘロインを止めていた。
それでヘロインの代わりに、いつも通りにアルコールをがぶ飲みしていたが、リハーサルの間にウォッカを飲んで泥酔してしまった。
バードはオレのことを息子か自分のバンドのメンバーみたいに扱ったから、録音のリーダーが2人いるような状態になった。
この日はオレがリーダーだったから、奴に言うこと聞くよう求めたが、奴はあること無いことをくどくどと言って聞かなかった。
で、オレもとうとう腹を立てて言ってしまった。
「やめろ。オレはお前の録音でそんなことはしなかっただろ。いつだってプロとしてちゃんとやったじゃないか。」
あの野郎、なんて答えたと思う?
「わかった、わかった。スイレンから美を生み出すには苦しまねばならぬ。牡蠣から真珠が生まれるようにな。」
こんなふざけた事を言って、奴は眠り込んじまった。
プレスティッジで働いていたアイラ・ギトラーはコントロール・ルームから出て来て、「演奏になってないな」と苦情を言った。
オレは嫌になって、楽器をしまって帰ろうとしたんだが、その時にバードが起きて言った。
「マイルス、何をしてるんだ?」
アイラの言葉を伝えると、バードは「おい、何言ってるんだ。マイルス、さあ一緒にやろう」ときた。
それからオレたちは本当にすばらしい演奏をした。
🔵バードの死と葬式
オレは1954年に、ヘロインと手を切り、それまでで最高の録音も残せた。
だから良い気分で1955年を迎えたが、
オレはヘロインに溺れて、朝から晩まで打ち続けた。
オレは妻子と共に、故郷の東セントルイスに帰ることにした。
ニューヨークから脱出すれば立ち直れると考えたんだ。
だが実家に帰ったオレは、デイビス先生(※マイルスの父親は医者である)の頭のイカかれたミュージションをする息子と近所で見られた。少なくともオレはそう感じた。
ちょうどこの頃、妻のアイリーンが別の男の子供を身ごもっていると知った。
オレ達は法的には結婚してなかったから、離婚する必要はなく、言い争いもなく関係が終わった。
オレはニューヨークに戻ると、(ジャズ歌手の)ビリー・エクスタインのバンドに加入した。
当時のビリーのやっている音楽は気に入らなかったが、他にマシな仕事がなかったんだ。
バスでの長いツアーが始まり、デクスター・ゴードン、アート・ブレイキー、バードも、バンドのメンバーだった。
ところがバーバンク空港に着いた所で、アート・ブレイキーがクスリを所持していたため、バンドの全員が警察に捕まった。
オレたちはパトカーに押し込まれて、名前を聞かれたんだが、アートはアブドゥラ・イブン・ブハイナというモスリム名で答えた。
書き取っていた警官が、「ふざけるな、お前の正しい名を言え」と言ったが、アートは「それが正しい名前だ」と言って、もう一度くり返した。
それで警官たちは怒って、オレ達を牢屋にぶち込んだ。
アート・ブレイキーとあいつが答えていたら、たぶんぶち込まれることはなかった。
オレは父親に電話して、弁護士を雇ってもらった。
その弁護士に会ったら、驚くことを聞かされた。
アートが皆の罪を軽くするために、オレがクスリを打っていると証言したと言うんだ。
アートはオレを裏切ったんだ。
だが、この件でアートに恨みがましいことを言ったことはない。
オレは牢屋からは出られたが、ロスアンゼルスで裁判をすることになった。
1950年の終わり頃、ダウンビート誌が「ヘロインやコカインが音楽シーンをダメにしている」と書き、「アート・ブレイキーとマイルス・デイビスがロスアンゼルスで捕まった」と書いた。
そのせいで、オレは仕事を見つけるのがさらに難しくなった。
オレが裁判で苦しむ中、ボブ・ワインストックという若い白人が『プレスティッジ』という新しいジャズ・レーベルを始めて、オレをレコーディングしたくて連絡してきた。
それでオレは、1951年の1年間ということで、プレスティッジと契約した。
契約金は750ドルくらいの少額だったが、オレの希望するグループでやれるという条件だった。
1951年1月にオレは裁判で勝ち、無罪放免と決まった。
だがこの事は、逮捕された時のような大きなニュースにはならず、オレの評判は落ちたままだった。
いま振り返ると、1950年はそれまでのオレの人生で最低の年だった。
バードは1950年にドリス・シドナーと別れて、チャン・リチャードソンと暮らし始めた。
チャンはドリスよりはるかにましで、音楽とミュージシャンのことを理解していた。
その点、ドリスは全くダメだった。
バードはめちゃくちゃな生活のせいで、体の具合が悪くなり、ひどく老けて見えるようになっていた。
だが『バーブ』という大きなレコード会社と契約し、もう1度オレとレコーディングしたいと言ってきた。
オレはOKし、楽しみにしていた。
(※このレコーディングは1951年1月17日に実現した)