初期のジャズおよびジャズメンについて①

(『ジャズ栄光の巨人たち』から抜粋)

アンドレ・ジイド著のコンゴ紀行(1927~28年の旅行記)には、マッサ族の踊りと音楽の記述がある。

そこでは、マッサ族の歌は採譜できず、百人もの人数が一斉に金切り声をあげ、それぞれが違う音を出し不協和音な事や、楽器も音の輪郭をぼかすために数珠玉を付けていると指摘している。

リズムも一定ではなく記譜できない。

こうした事を考えると、ジャズはアフリカ音楽よりも、むしろヨーロッパ音楽を起源として生まれたといえる。

(ほとんどのジャズ曲には譜面があるし、一定のリズムもある)

イギリスで清教徒革命の際に、教会からカトリックの名残りが放逐され、オルガンを叩き壊して使用が禁じられた。

聖歌の合唱も禁止され、鐘も禁止された。

その代わりにドラムやトランペットを持ち込み、口琴なども使って教会で演奏され始めた。

アメリカでは1700年ごろから、教会にオルガンが復帰しだし、聖歌も歌われた。

13の植民州では、多声合唱やハープシコード(チェンバロ)の演奏が盛んになった。

そしてイギリスのバラードが、アメリカ流に歌われて変化し、徐々にブルース、スピリチュアル、ヒルビリーソングに変貌していった。

19世紀の初期にアメリカの街々で歌われていた歌は、大体が外国産だった。

黒人たちの作るアメリカ音楽は、最初に生まれたのは労働歌を奴隷たちが歌ったもので、のちにブルースに発展した。

黒人霊歌は、1870~80年の10年間で盛んになったが、俗謡と平行して成長した。

奴隷に寛容な雇い主や監督者は、奴隷の中の長老や物知りに聖書を教えた。

それを元にして、慰めと希望の言葉に節を付け、仲間に広めていって黒人霊歌は生まれた。

黒人霊歌と白人霊歌には多くの共通点があり、黒人は白人霊歌から影響を受けながら独自の霊歌を創った。

ミンストレル・ショーは、ドイツから1795年にアメリカに来たゴットリープ・グラウプナーが、99年に自分の顔を黒く塗って黒人の音楽をやったのが始まりである。

1850~1920年頃には、アメリカの重要な演芸娯楽だった。

ステファン・フォスター(1827~64年、自殺して死亡)は、アメリカ音楽の父とも称される作曲家だが、200以上の歌曲を作った。

ペンシルバニアの生まれで、ミンストレルの音楽に大きな影響を受けた。

彼は曲の権利を二束三文で売り貧乏だった。

一般的な流行歌は、8小節の導入部と、32小節から成る1コーラスで出来ている。

1コーラスは、普通はA-A-B-Aという型になって8小節づつに分けられ、Aがテーマ、Bがサビ(ブリッジ)となる。

ブルースの基本形は12小節で、A-B-Cという型で4小節づつに分けられる。

Aがトニックコード、Bがサブドミナント(4度)コード、Cがドミナント(5度)コードによって演奏される。

(実際には上記のルールを基本にして、もっと複雑な構造になってます)

ブルースのメロディは、普通の音階(長音階・メジャースケール)に、ブルーノート(フラットの付いた3度と7度の音)を加えた10音で出来ている、「ブルース・スケール」で作られている。

大抵のブルースのメロディは、ブルース・スケールの始めの5音か、残りの5音かの、いずれかのみで作られる。
ハ長調の場合だと、C~F音か、G~C音。

リフとは、ブルース・ナンバーの中で、メロディやハーモニーを変える事なく繰り返される2ないし4小節のフレーズをいう。

(実際にはブルース以外でも使われます)

ストライド・ピアノとは、ブルースから生まれたもので、左手で弾くベース音を、各小節の1と3拍目はシングルトーンで、2と4拍目は3つあるいは4つの和音で弾く。

ブギーウギーは、元来はピアノのブルース形式で、左手で弾くベース音がシングルトーンや三連音で8拍子を強調している。

1912年にW・C・ハンディが、メンフィス・ブルースを作曲・出版した。

曲名にブルースの名が入った最初の曲である。

ハンディは14年にはセントルイス・ブルースを発表している。

ブルースは、1900年頃から勢いを得て、1930年代まで黒人ミュージシャンはニューオーリンズを中心に盛んにブルースを歌った。

ジャズが広く世界に浸透していった時、力を貸したのはブルースだった。

(実際のところ、ブルースは1940年代以降も盛んだし、ジャズにおいてブルース曲は中心的な存在です。ただしアレンジに凝り、コード進行を変えている事が多い。)

レース・レコードとは、黒人向けのレコードを指す。

1800年代の前半に、黒人奴隷たちは日曜の午後など仕事のない時には、広場に集まり寛いだ。

儀式の踊りなども行い、バンブーラ(牛革と樽で作ったタムタム)がベースドラム(牛の骨で叩いた)となり、竹筒がメロディを担当、アクセントには骨を打ち合わせるカスタネットやガヒーラ(ロバの顎骨を打ち鳴らす)などを演奏した。

これは、中南米ではルンバ、サンバ、コンガなどに発展した。

1880年代の末になると、ニューオーリンズの黒人ミュージシャンは白人の楽器に目をつけ、演奏し始めた。

昼は働き、夜や土日に演奏の仕事をした。

街を練り歩き、パレードや結婚式で演奏。有名な讃美歌がレパートリーだった。

行進の後は、ダンス場で演奏した。

1880年代の最高のジャズバンドは、クレイボーン・ウィリアムスのセントジョセフ・ブラスバンドと、ジョン・ローブショーのエクセルシア・バンドだった。

1895年~1907年にかけて、バディ・ボールデンのラグタイム・バンドは形を整え、最強の存在となった。

バディは1907年もしくは8年に、パレードの途中で発狂し、精神病院に入れられて、31年もしくは32年に死亡した。享年は70歳?ほど。

バディのバンドは、長い間ジャズの基本となる編成を作った。
1本か2本のコルネット、クラリネット、トロンボーン、ギター、ベース、ドラムの構成。

バディ・ボールデンは、「ワン・ナイトの仕事のある所に必ず彼あり」と言われた程の精力家で、あらゆる所で吹きまくった。

ピクニック、ダンス会、カーニバル、公園など。

自分のバンドの仕事の無い時は、ビッグバンドに参加した。

彼のコルネットは、河に沿って何マイルも先に聴こえたほどの大音量だった。

彼はコルネット奏者の他に、床屋とゴシップ新聞「ザ・クリケット」の編集と発行の仕事もした。

バンク・ジョンソンは、1905~12年にスーペリア・バンドに在籍。

彼は1879年の生まれで、16歳の時にバディ・ボールデンのバンドに加入した。

1931年ごろに引退したが、38年に作家のウィリアム・ラッセルがルイ・アームストロングの昔話で聞いてからニューオーリンズの近くで彼を発見し、入歯を贈った。

そしてバンクは42年にジャズ界に復帰し、沢山の録音も残した。

1917年以前のニューオーリンズ・ジャズは、和声的に考えて演奏され、スイングジャズやビバップと同じくコード(和声)の観念から出発している。

メロディは、ブルースコードやスタンダード・ナンバーから取っていた。

ニューオーリンズの一画に設置されたストーリービルでは、1897年~1917年まで法律によって売娼制度が認められていた。

アメリカの都市では唯一の例である。1897年に新法により公娼地区が地理的に規定されたのだ。

ここは、それ以前から売娼のメッカだった。

トム・アンダーソンは、ストーリービルの非公式の市長でボスだった。

彼は他にも、州の立法者、サロン連盟の会長、石油会社の社長も務めていた。

大サロンであるアーリントン・アネックスを所有していた。

アンダーソンは、ストーリービルの正式な案内書としてブルーブックを発行した。

1895年以後、アーリントン・アネックスで25セントで売った。

ブルーブックは、1915年まで定期で刊行し、他にも同種の本がたくさん出た。

娼婦の一覧表が載っていて、黒人234名、新人45名など。

ストーリービルの2大女将は、ルル・ホワイトとウイリー・ピアッツァだった。

ルルは、マホガニー・ホールを経営し、このホールは総工費4万ドルで、大理石の4階造りで、5つの大広間と15の寝室、全室が冷温両方の浴室つきで、エレベーターもあり、全館暖房付きだった。

ピアニストを最初に雇い入れたのはウイリー・ピアッツァで、トニー・ジャクソンを雇った。

ルルは、リチャード・M・ジョーンズやクラレンス・ウィリアムスを雇った。

トム・アンダーソンは、ジェリー・ロール・モートンらを雇った。

ストーリービルの有名なジャズ演奏場所は、タキシード・ダンスホール、プードルドッグ・カフェ、ピート・ララのカフェなど。

フレディ・ケパードは、1923、26、27年にシカゴで吹き込みを残した、コルネットの名奏者である。

彼は楽譜が読めず、バイオリンを捨ててコルネットの持ち替えた。

そしてロレンソ・ティオに学び、ティオと同じくフランス歌劇にしばしば出演した。

ケパードは、酒飲みで大食い、ステージでは騒ぎ回るショーマンで、1915年に自己のバンドでピート・ララのカフェに出演。

7~15年の間は、イーグル・バンドに何度か出入りした。

ロレンソ・ティオとビッグアイ・ネルソンは、ジャズ初期のクラリネットのスタイルを作った人物である。

そのスタイルを、シドニー・ベシェやジョニー・ドッズやジミー・ヌーンらが発展させた。

ズー・ロバートソンは、バディ・ボールデンの親戚で、後のスライド・トロンボーンのスタイルに大きな影響を与えた奏者である。

ジョン・ビーンとルイ・コットレルは、ベース・ドラムを使った四ビート奏法や、技巧的なドラミングを考え出したドラマー。

オリジナル・クリオール・バンドは、ビル・ジョンソンがケパードらオリンピアの連中と1911年に結成した。

13年までの間に、ボードビル巡業を全国的に広げた。

このバンドでただ1人譜面を読めたのが、ジョージ・バケットだった。

ノベルティ(宣伝)・バンドは、ツイター奏者のステイル・ブレッドが道を開いたもので、1900年頃のニューオーリンズ近辺の南部では大いに流行った。

ステイル・ブレッドは、ブルーニス兄弟、レオン・ラポロ、ローレンス・ベガらと共演したが、1903年に眼病で盲目になり、それまで率いていた河船のバンドを去った。

キング・オリバーは、1911年ごろにストーリービルに現れ、多くのバンドに参加した。

ある日、アイバービル・ストリートに立ってブルースを吹き、その演奏の凄さを認められてキングの名を勝ち取った。

彼は、ロレンソ・ティオ、ズー・ロバートソン、バディ・クリステャン、ズィーノとバンドを結成した。

オスカー・セレスティンは、タキシード・カフェやダンスホールで長い間、リーダーとなってバンドを率いた。

1923、24年にはニューヨークで吹き込みもしたが、共演者はロレンソ・ティオ、ピーター・ボケージ、ジョン・リンゼイ、ルイ・コットレルである。

キッド・オリーは、1989年にルイジアナで生まれ、11歳で少年ストリングス・バンドでプロデビューした。

1905年にニューオーリンズに出て、バディ・ボールデンのバンドに参加。

個人教授やベテラン奏者の連中に指導をしてもらい、研究に励んで15年にはピートララ・カフェのバンドを引き継いで市内で最高のバンドを作った。

そのメンバーは、キング・オリバー、シドニー・ベシェ、ヘンリー・モートン、フレディ・ケパードである。

19年にはディンク・ジョンソンに付いてカルフォルニアに移住し、ロスアンゼルス付近でブラウン・スキンド・ジャズバンドを24年まで率いた。

シドニー・ベシェは、ニューオーリンズ生まれで、8歳の時からフレディ・ケパードのバンドに出入りし、翌年にジョージ・バケットに弟子入りした。

17歳でイーグル・バンドに加わり、1917年にシカゴに移ってケパード、トニー・ジャクソンらと共演。

1919~21年にはウイル・マリオン・クックのマンモスコンサート・オーケストラに参加し、ヨーロッパに行って過ごした。

その後はニューヨークに戻って3年過ごしたが、再びヨーロッパに移住し30年まで留まった。

トミー・ラドニアを加えてロシアへ音楽ツアーをしたりもして、28~38年にはノーブル・シスル楽団に出たり入ったりする。

ジミー・ヌーンは、ニューオーリンズ生まれで、15歳からクラリネットを始めた。

タキシード・カフェのバンドなど色々なバンドに参加し、1918年にオリジナル・クリオール・バンドと旅行してシカゴに移住。

そしてキング・オリバー、フレディ・ケパードの楽団や、ドック・クックのドリームランド・オーケストラなどに参加した。

彼は若い頃に、ベシェやロレンソ・ティオに学んでいる。

当時のニューオーリンズ・ジャズでは、腕利きのピアニストがほとんど居なかった。

これは行進する楽隊やワゴンでの宣伝楽隊ではピアノが使えなかったためで、ピアニスト自体が少なかった。

ピアノの仕事は、初めは娼家で求められ、後に広がっていった。

娼家時代の有名なピアニストは、リチャード・M・ジョーンズ、トニー・ジャクソン、ジェリー・ロール・モートンである。

このうちジェリー・ロールの昔語りと演奏が、国会図書館のレコード・シリーズにあり、7時間以上の録音で1938年6月の吹き込み。

ジェリー・ロールは、1885年にニューオーリンズで生まれ、7歳でギターを習い、後にピアノを学んだ。

当時はピアノは女の子の楽器と思われていた。

ジェリー・ロール・モートンは、1909年にニューオーリンズに行き、M・ジョーンズらが仕事を探してくれて、アーリントン・アネックスのソロピアニストに収まり15年まで務めた。

15~23年にはカリフォルニアに移住し、その後の5年間はシカゴ、その後はニューヨークで7年を過ごした。

22~40年に何度もレコードへの吹き込みをしている。

彼は「タイガー・ラグ」(ジャズ曲の有名な古典)について、フランスのカリドールを素材にして作られたと説明している。

彼はベルディの歌劇イル・トロバトーレの中の悔恨歌をジャズピアノ・ナンバーに作り替えたが、クラシックの曲をジャズ化しようとした最初の試みだった。

インディアンの歌などもジャズ化している。

ズー・ロバートソンは、1891年生まれで、ピアノを習い、13歳でトロンボーンを始めた。

1910年にキッド・カーソンと共に1年ばかり旅回りに出た。

26~29年にはニューヨークのハーレムにあるラファイエット劇場でピアノとオルガンを弾いた。30年に引退。

当時のニューオーリンズの優れたバンジョー、ギター奏者には、ジョニー・サンシールとバド・スコットがいる。

サンシールは、ルイ・アームストロングやジェリー・ロールと吹き込みをしている。

スコットは、キッド・オリーやバディ・ボールデンと共演している。

ポップス・フォスターは、1892年生まれで、チェロを始めて、姉からベースを習った。

イーグル・バンド、キッド・オリー、フレディ・ケパードらと共演。

1935年以降はルイ・アームストロングのものとなったルイ・ラッセルのバンドでも活躍した。

ズティ・シングルトンは、1898年にニューオーリンズの近くのバンキで生まれた、ドラマーである。

1935、40、44年に自己のバンドで吹き込みをしている。

彼は河船バンドで最も有名なフェートマラブルにも参加している。

ベイビー・ドッズは、1896年生まれで、フェートマラブルでもプレイしたドラマー。
沢山のバンドで演奏した。

1947年にはルディ・ブレッシュの放送楽団のメンバーとして、モダンジャズ(ビバップ)のバンドと競演・対戦した。
この時に、ビバップに理解を示し評価した事が逸話として残っている。

(1947年の当時、ルイ・アームストロングなど多くの古参プレイヤーは新興のビバップを批判し、評価していなかった。そのためドッズの寛容な態度は印象的だった。)

ルイ・アームストロングは、1947年の夏に、35年7月以来率いてきたビッグ・バンドを解散。小編成のオールスターズを結成した。

(2019年12月中旬に作成)


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