(『ジャズ歴史物語』『ジャズを生きる』などから抜粋)
ディジー・ガレスピーは、ジャズ史上でも屈指のトランペッターで、ビバップの創始者の1人でもある。
彼は、テディ・ヒルの楽団に居た頃からエキセントリックで、外套と手袋をしたままリハーサルに参加し、他のトランペッターが立ち上がってソロを取ると自分も立ち上がって真似をする、曲が終わると立ち上がって余計に吹く、などを行った。
テディ・ヒル楽団は、1937年夏~38年7月?に渡欧している。
ディジーは、37年にはライオネル・ハンプトン楽団に参加してRCAに録音した。
チャーリー・クリスチャン、コールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、チュー・ベリーと共演している。
41年9月に、キャブ・キャロウェイの楽団に居たディジーは、事件を起こした。
公演中に背中に紙つぶてを投げつけられたキャブは、いつもおどけているディジーを怒ったのだが、本当はジョナ・ジョーンズの仕業だった。
キャブのどやしがきつく、クビを言い渡されたディジーは、ナイフで切りつけてキャブの背中に大怪我をさせてしまった。
ディジーはその後、ビリー・エクスタインの楽団に加わった。
この楽団は、ディジーが抜けると後任としてファッツ・ナバロが参加した。
ファッツが抜けると、マイルス・デイビスが参加した。
1943年の暮れに、ニューヨークのオニックス・クラブに史上初のビバップ・バンドが出演した。
メンバーは、ディジー、ドン・バイアス、オスカー・ペティフォード、ジョージ・ウォーリントン、マックス・ローチである。
44年2月16日に、コールマン・ホーキンスは、ディジー、オスカー・ペティフォード、マックス・ローチを擁するバンドで、史上初のビバップ・セッションを録音した。
ディジーは45年の夏に、初めて自己のビッグ・バンドを結成した。だが経済的に失敗してしまった。
このバンドのメンバーには、ケニー・ドーハム、チャーリー・ラウズ、マックス・ローチがいた。
45年5月に再びビッグ・バンドを結成し、今度は大成功を収めた。
49年11月21日に、ジョン・コルトレーンはディジーの楽団にて自身初となる吹き込みをした。
チャーリー・パーカーは、ビバップの創始者の1人で、ジャズ史上最高のミュージシャンの1人だが、最初の頃は下手くそだった。
1935年(パーカーが15歳の時)に、パーカーの住むカンザス・シティにカウント・ベイシー楽団が公演に来た。
パーカーは飛び入りで演奏に参加したが、ひどい演奏なのでドラムを叩いていたジョー・ジョーンズに怒られ、ステージから降ろされた。
これを一つの契機にして彼は一念発起し、レスター・ヤングの吹いているレコードを聴いてソロを残らずコピーして吹けるようになった。
1942年1月にパーカーは、ジェイ・マクシャン楽団の一員としてニューヨークに来て、演奏が大評判となりニューヨークに腰を落ち着けた。
そして12月にアール・ハインズの楽団に参加した。
1946年の7月29日に、ダイアル・レーベルに録音後、ホテルに戻ると部屋に火をつけて警察に逮捕され、そのまま精神病院に送られてしまった。
47年1月に、カマリロ精神病院を退院した。
47年4月7日に、パーカーはニューヨークのジャズシーンに復帰した。
パーカーの入院の間にニューヨークでは、再起不能との憶測までささやかれていた。。
噂とは逆にパーカーは40ポンドも体重が増えて健康になっていた。
パーカーは、1947年5月にオールスターズを結成し、自分のレギュラー・バンドを初めて作った。
メンバーは、マイルス・デイビス、バド・パウエル(後にデューク・ジョーダン)、トミー・ポッター、マックス・ローチである。
パーカーのバンドで本格的にデビューしたマイルスは、47年8月14日にサヴォイ・レーベルにて初のリーダー・セッションを録音した。
一方、47年1月に初リーダー録音をルースト・レーベルに吹き込んだバド・パウエルは、その後に精神病で入院してしまった。
パーカーのインタビューが、1947年8月号のメトロノーム誌に掲載された。
パーカーは、47年9月29日にカーネギーホールのコンサートでディジー・ガレスピーと1年半ぶりに共演した。
これは録音がありCD化されている。
ダイアルがニューヨークで行なった最初のパーカーのセッション(録音)は、WOR放送スタジオで行われた。
そこには名エンジニアのダグ・ホーキンスがいて、マックス・ローチのドラムが初めてクリアーに録音された。
ダイアルらのレコード会社たちは、1948年1月から業界がストライキに入ることを知って、録りだめを47年末にした。
ストの予告は47年10月に出た。
ダイアルは、1947年の10月28日、11月4日、12月17日と連続してパーカのレコーディングをした。
当時レコーディングはワン・セッションが通常3時間で、その時間に4曲のマスター・テイクを完成するのが規定だった。
しかしこの時はストの長期化を予測して、セッション時間を拡大し、毎セッションごとに6曲のマスター・テイクを制作した。
なお11月4日のセッションから、パーカーのアルトサックスの音はいっそう輝しく艶やかになるが、直前にセルマーの最新の楽器を購入したためである。
12月17日のセッションは、全てが順調に進み、6曲をわずか2時間40分で録った。
この録音では先立ってリハーサルをしていた。
(※パーカーは録音前にリハーサルをしない事が多かった)
12月17日のセッションは、JJジョンソンがゲストとして加わって3管で行われたが、JJは当時はアレンイーガーと組んでスポットライトを拠点に活動していた。
パーカーが1947年5月に結成したクインテット(のバンド)は、そのメンバーが20ヶ月も続き、彼の生涯で最長寿かつ最良最強のユニットだった。
そのユニットで吹き込まれたダイアルとサヴォイのセッション(録音)は、パーカーが目指した音楽の結晶といっていい。
なお1947年からは、ビリー・ショウという凄腕のエージェントがパーカーのレコーディングや出演契約の交渉を担当した。
パーカーは、メトロノーム誌の読者人気投票で、1948年1月号でアルトサックスの第1位になった。
49年と50年も1位だった。
パーカーは、1948年8月にストリングス・オーケストラと初共演する。
さらにノーマン・グランツ(ヴァーブ・レーベルの創設者)と契約した。
1949年12月15日に、パーカーの渾名であるバードから取られたジャズクラブ「バードランド」がニューヨークに開店した。
もちろんパーカーは出演していく事になる。
1944年7月2日に、JATPのコンサートがロスアンゼルスにて初めて行われた。
JATPは「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」の略で、スター・プレイヤーを集めたジャムセッションである。
ノーマン・グランツがプロデューサーで、人気のあるジャズ公演となり、何度も開催されていく事になった。
ノーマン・グランツは後に、クレフ/ヴァーヴというジャズ・レーベルも創設した。
1948年1月1日に、第二次のレコーディング・ストライキが始まる。
このストは12月15日まで続いた。
48年の4月に、コロンビアがLPレコードを発表した。
その後、ビクターが発表したEPレコードと商戦を繰り広げることになる。
50年1月に、ビクターもLP方式を採用すると発表し、本格的なLP時代に突入した。
当時はまだ録音の機械が未熟で、特に録音に磁気テープが使われる以前はドラムの音を拾える録音技師は少なかった。
ドラムの音を拾えるかは技師の腕しだいで、ルディ・バン・ゲルダーらはそれが出来る事で名が売れた。
ケニー・クラークは、ビバップの代表的なドラマーの1人だが、ピアニストの母からピアノを学び、18歳の時にドラムを始めた。
ドラマーの先輩である、シドニー・カトレット、ズティ・シングルトン、ベイビー・ドッズから影響を受けた。
1935年にロイ・エルドリッジのバンドに加入。
36年にニューヨークに進出し、37年にはテディ・ヒル楽団に加入してディジー・ガレスピーと出会った。
35年11月~37年には、弟のフランク、フレディ・グリーン、ファッツ・アトキンスとカルテットでも活動した。
このバンドは注目され、カウント・ベイシー、ハリー・ジェイムズ、ジーン・クルーパが毎晩のように聞きに来た。
そしてフレディ・グリーンはジョン・ハモンドにスカウトされ、ベイシー楽団に加入した。
1940年に、ニューヨークにジャズ・クラブ『ミントンズ』が開店する。
経営者はテディ・ヒルで、ケニー・クラークにスモール・グループを作って出演するよう依頼した。
クラークは、セロニアス・モンク、ジョー・ガイ、ニック・フェントンをメンバーとして雇い、このバンドはレギュラー出演するようになった。
ミントンズは若いミュージシャンの溜まり場となり、皆がジャム・セッションする場となった。
クラークは43~46年は兵役につき、52~55年はMJQの初代ドラマーを務めた。
55年にはサボイ・レコードの監修者に。56年に渡欧してパリに定住。
バド・パウエルは、6歳でクラシック・ピアノを学び始める。
15歳で兄のバンドに参加し、レストランやクラブで演奏を始めた。
1943年~44年末までは、クーティ・ウィリアムスの楽団に参加した。
バドは、セロニアス・モンクに弟子入りしてジャズピアノを学び、1947年1月に初リーダー録音をルースト・レーベルに吹き込んだ。
しかし同年11月に強度の躁鬱病のため入院。約11ヵ月の入院生活を送ることとなる。
48年11月に退院し、演奏活動を再開した。
彼は何度か精神病院に入っているが、ニューヨークの精神病院の独房の中で、壁にピアノの鍵盤を描き、それを演奏しているつもりになっていたというエピソードがある。
バドは師匠のセロニアスにレコーディングをさせたいと思い、クーティ・ウィリアムスを説得した。
しかしレコーディングは行われたが、その代償としてセロニアスの作曲に共作者としてクーティの名が付いてしまった。
ラウンド・ミッドナイトやウェル・ユー・ニードントがクーティとの共作になっているのは、このためである。
セロニアスは、批判されがちな難しい性格のバドを、いつも擁護していた。
またセロニアスは、服装に非常に気を使う人物だった。(独特の眼鏡と帽子の組み合わせは有名である)
マイルス・デイビスは1948年9月に、自己の9重奏団を率いてロイヤル・ルーストに2週間出演した。
この楽団のサウンドは一部の者から高く評価され、翌年にマイルスらは9重奏団でレコーディングを行った。
キャピトルから発売され、クール・ジャズの先駆けと評されるアルバムとなる。
マイルスは、ヴォイシングやコード進行をセロニアス・モンクから教わった。
マイルスは、9重奏団でアレンジを担当したギル・エバンスからも、ヴォイシングやコード進行を学んだ。
49年1月11日に、プレスティッジ・レコードが創立された。
このレコード会社は、マイルス、ロリンズ、コルトレーンなどの名盤を作ることになる。
初録音は、リー・コニッツ名義でレニー・トリスターノの5重奏団を取り上げた。
チャールズ・ミンガスは、元ニューヨーク交響楽団のラインシャーゲンから5年にわたってベースを学んだ。
彼は、あらゆる音楽は1つであるとの考えから、自分の作品がジャズと呼ばれるのを嫌った。
ミンガスとエリック・ドルフィーは、カリフォルニアで同じ音楽学校に通った。
ミンガスは、自分のバンドに加入してきたサックス奏者のダニー・リッチモンドに、ドラムへの転向を命じた。
ダニーはその後、ミンガスのバンドで長くドラマーを務めた。
クリフォード・ブラウンは、13歳の時に父からトランペットをプレゼントされた。
ローカル・ミュージシャンのロバート・ロウリーに師事して音楽理論を学び、ピアノ、バイブ、ベースも弾くようになる。
彼は成績優秀で、デラウェア州立大学で数学を学び、1949年に奨学金を受けてメリーランド州立大学・音楽科に移籍した。
この頃からフィラデルフィアで演奏を多くするようになる。
48年には、ベニー・ハリスの代役としてディジー・ガレスピーの楽団で演奏もした。
この頃に、ファッツ・ナバロ、マイルス・デイビス、JJジョンソン、マックス・ローチらとも共演した。
50年6月に自動車事故を起こして入院。
ガレスピーが面倒を見て、51年5月にカムバックした。
そしてチャーリー・パーカーとも共演を果たし、クリス・パウエルの楽団に参加した。
53年にタッド・ダメロンの楽団に参加。
この年の8月に、ブルーノート・レーベルに初リーダー・セッションを録音した。
9月にはライオネル・ハンプトンの楽団の一員として、ヨーロッパに巡業に出る。
12月にハンプトン楽団を辞め、今度はアート・ブレイキーの楽団に参加した。
サラ・ヴォーンは、歌手だが、デビュー前の1931~39年にピアノを習う。
42年10月に、アポロ劇場のアマチュア・コンテストで優勝し、11月にアール・ハインズ楽団に加わってプロ歌手としてデビューした。
49年にCBSに移籍、54年にはマーキュリーに移籍した。
スタン・ケントンは、神経衰弱の病気持ちで、ブラジルに療養に行ったりもしている。
1948年12月の彼のバンドの解散も、それが原因だった。
49年後半に、45人編成の超ビッグバンドを結成した。
このバンドは、ピート・ルゴロ、ボブ・グレチンガーの作曲を取り上げた。
ウディ・ハーマンは1947年10月に1年近くの休養から復帰し、再びビッグ・バンドを率いた。
これはセカンド・ハードと呼ばれるが、そのメンバーにはスタン・ゲッツやズート・シムズがいた。
エラ・フィッツジェラルドとレイ・ブラウンは、1948年に結婚した。
しかし52年に離婚。
ケニー・クラークとカーメン・カクレエも1946年に結婚したが、48年に離婚している。
ベーシストのオスカー・ペティフォードは、オクラホマの出身でインディアンとの混血児である。
彼は酒の飲みすぎで若死にした。
(2019年12月19&21日に作成)