ジャズ仲間の語るチャーリー・パーカーの実像

(『Swing Journal2006年1月号』から抜粋)

〇アート・ファーマーの話

アート・ファーマーは(トランペットも吹くが)、数少ないフリューゲルホーンの名手である。

繊細でリリカルなプレイを特徴とした。

彼はチャーリー・パーカーとの思い出を、こう語った。

私がカリフォルニアでハイ・スクールに通っていた頃、パーカーがディジー・ガレスピーと別れた直後(1946年の初め)のことだが、パーカーと親しくなった。

私と(双子の兄弟の)アディソンは、楽器の練習用に大きな部屋を借りていたが、パーカーは暇な時によくやって来た。

私たちはよく映画を見に行ったが、誰もカネを持ってなかったので、係員の好意でタダで入れてもらっていた。

ある晩、パーカーは酷い演奏のピアニストと、アフター・アワーズに共演した。

私はまだ16歳と若かったので、「何であんなのと一緒に演奏したの?」と、後で尋ねたんだ。

パーカーは「演奏したいと思ったら、必ず出来るはずなんだよ。それが楽器をマスターする唯一の方法さ」と言った。

この事は、私にとって重要な教訓となった。

パーカーは、演奏したくなれば演奏するタイプで、逆に気分が乗らないと仕事を休む人だった。

彼が出演するジャズクラブ「バードランド」のすぐ近くで、私がライオネル・ハンプトンと共演していた時、パーカーがこっちに来て我々と演奏した事があった。

バードランドの客が怒ったのは容易に想像できる。

パーカーは仕事に現れない事がしょっちゅうだったが、数日後にやって来て無料で演奏することもよくあった。

エキセントリックな天才と呼ばれる所以だよ。

(『ジャズ批評No.43』から抜粋)

〇マイルス・デイビスの話

俺たちが新しくてスリリングな音楽、君たちがビ・バップと呼ぶ音楽をやっていた頃、ニューヨークの52番街は軒並みジャズ・クラブだった。

俺たちの出演するクラブの隣りに、コールマン・ホーキンスやビリー・エクスタインが出ていて、向かいのクラブにはディキシーランド・ジャズの楽団が出るといった具合だ。

ある晩、俺たちチャーリー・パーカー・バンドは、52番街の店で「オーニソロジー」を演奏していた。

そしたら、パーカーはサックスを吹きながら店から外へ出ていくんだよ。

理由はさっぱりだったが、リーダーが出て行くから、俺たちも後に付いて出た。

どこに行ったと思う?

パーカーは道路を横切ると、賑やかにディキシーランド・ジャズを演奏しているクラブに入って行った。

それで「セインツ・ゴー・マーチン・イン(聖者の行進)」の曲に合わせて、店の中を歩き廻るんだ。

それに合わせて奏者たちも一緒に歩き出し、お客も乗ってきて皆で外に出て大行進さ!

あの時の52番街はクラブは空っぽになり、皆が外で演奏してた。
あれは楽しかったな。

〇カーリー・ラッセルの話

私が、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーと共に、サミー・ケイのクラブであるデューセスに出演していた時のことだ。

サミーが来て、「カーリー、パーカーの事が俺には分からないよ!?」と真剣な顔で言うんだ。

話をきくと、「さっきまでセックスの汚い話ばかりをしていたのに、突然に身のこなしも話し方も立派になって、人が変わったみたいだ」と言うんだよ。

そう、パーカーには2つの顔があって、ジキルとハイドみたいだった。

チャーリー・パーカーという男は素晴らしかったけど、ヤードバードと呼ばれるもう1つの彼は最悪だった。

私たちがデトロイトかシカゴに公演に行った時のことだ、パーカーは公衆電話のボックスに飛び込んでは小便をしていた。

出演後にギャラを取りに行ったマネージャーが、青い顔で出てきたので、私たちは「どうした!?」と声をかけた。

マネージャーは見向きもしないで、私たちが宿泊しているホテルに駆け込むんだよ。

パーカーの部屋に行き、「ドアを開けろ!中にいるのは分かってるんだ!カネはどこだ!」とマネージャが叫ぶと、中から「カネ?何のことだ?」とのパーカーの返事だ。

マネージャーがドアを打ち破って中に入ると、ベッドの上に数えている最中のカネが広がっていた…。

こんな事もあった。

ジャズ・クラブで「レディ・イン・レッド」を演奏していた時だが、ラテンのリズムで、いつもより早いテンポでやっていた。

テーマを吹いていたパーカーは、突然にテンポを落として、いきなりスロー・バラードになってしまった!

私たちは目を白黒させながら、パーカーが何の曲を始めたのか掴もうとしたが、パーカーは目の前にいる濃紺の服の女性に目が釘付けになっていた。

赤い服のレディから、ブルーガウンのアリスに変わったというわけさ。

シカゴに、ラン・ブギーというクラブがあった。

客席にもバルコニーがある、変わった作りの店だった。

セカンド・セットの演奏を始めたところ、パーカーが変な恰好をしているのに気付いた!

靴を脱いでいて、野球用のソックスを履いているんだ。

ステージを終えた後に聞いたら、「だって野球場でバッター・ボックスに立っている感じだったよ」と、ニコニコしながら言っていた。

(※カーリー・ラッセルは、パーカーのバンドで活躍したベーシストだが、1960年代にロックンロールが全盛になると、ジャズの仕事が無くなって引退してしまった)

〇マックス・ローチの話

チャーリー・パーカーは、心底から人間的な人で、優しく周りに気を配り、偏見を持たずに生きていた。

それは音楽の上だけではなく、国籍や人種や宗教についてもそうだった。

彼はすべての人に対して、相手の生き方を尊重して接したし、敵ではなく友人として受けとめる事ができた。

パーカーは本当に純粋だったので、そうではない者達に利用されてしまった。

プロデューサーやレコード会社は、彼から搾り取り、巨額のカネを得ていた。

彼は最後には人間に絶望してあの世にいったと、思えることもある。

だが、パーカーの音楽はあれほど深く、輝きに満ちている。

彼の音楽には、彼自身が解き放たれて存在している。

私たちは当時、同志として過ごし、音楽を通して自らと世界との関わりを述べることを、目指していた。

音楽は、単なるエンターテイメントではない。

音楽とは、人々を啓発するもので、人生や政治や、愛や家族について考えさせるものだ。

そのような音楽を創ることに、私たちは情熱を燃やした。

この事が人々に理解されて、敬意が払われる日が来ると信じている。

パーカーが音楽活動していた当時は、彼が音楽で語ることが、すべて拒絶された時代だった。

だが彼は状況に屈せず、自分の音楽を曲げなかった。

彼は多くの美しい曲を残したし、その楽器奏法はどこまでも深遠だ。

ジョン・コルトレーンのような例外を除けば、サックス奏者であそこまでの高みに達した人はいない。

アメリカの音楽は、アフロ・アメリカンの創造したものを基に発展してきたが、ほとんどは投げやりだったり、甘ったるい。

こうした音楽は、若者から思考能力を奪い、政治や社会への関心を奪うものだ。

チャーリー・パーカーの音楽は、常に世界に対して開かれていた。

だからパーカーのレコードは、寝転んでダラダラと聞いていることは出来ない。

聴き終えた後は、自分の頭で真面目に何かを考えないわけにはいかない。

彼の音楽は、頭の中に忘れがたく残る。

いま、マイルス・デイビスでさえもが、聴き終えて何も残らないレコードを作っている。
パーカーとまるで違っている。

先ほど、パーカーは人間に絶望して死んだと思えると言ったが、同じように死んだのがビリー・ホリディだ。

彼らは人々に喜びを与え、思考する契機をもたらし、悩み事に慰めを与えるために、自分自身を投げうっていた。

それなのに、友人も親類も音楽関係者も、彼らを裏切った。

彼らは音楽に全精力を注いでいたため、そうした状況を解決する余力がなかった。

パーカーが死ぬ3ヵ月ほど前、私を訪ねてきた事があった。

彼は快活にふるまっていたが、まだ34歳なのに身体はボロボロで、極端に太り、くたびれていた。

彼は自分の姿を鏡の中に見つけると、しばらく眺めた後に、寂しげに笑って言った。

「見ろよ、俺の身体はすり切れちまってるぜ」

何年もしてから、彼の言葉にどういう意味が込められていたかが分かった。

彼は自分の肉体を、衣服と同じように見ていたのだ。

彼には、また新しい服が手に入るという考えがあったと思う。

彼は他にもこういった奥深い言葉を、よく口にしていた。

パーカーは、後輩のミュージシャンから「どうすれば貴方のような立派なミュージシャンになれますか」と質問されると、こう答えていた。

「楽器が自分の肉体の一部になるまで、練習を積みなさい」

実際の言い方はもっと多彩で、私には真似ができないものだった。

私たちは、チャーリー・パーカーが地球に存在したことを、感謝すべきだと思う。

彼は貧しく死んでいったが、彼の音楽に頼って膨大な人が生活している。

かく言う私も、リズムの面でパーカーから多くの恩恵を受けた。

私が共にバンドを組んだクリフォード・ブラウンは、パーカーと同じものを感じさせる人だった。

つまり、人間や生命への愛情という意味で、パーカーと同様のものを持っていた。

だから彼と共にカリフォルニアのアパートで住むことにし、共同生活は1年続いた。
その間、私はニューヨークの52番街で体験したことを、残らず彼に語ってやった。

クリフォード・ブラウンは非常にきつい練習をこなしながら、音楽に対する愛を育てていった。

そして憎しみも、非人間性や残虐性に向かう時は、前向きの力となる。

私は彼との付き合いから、こうした考えを見出した。

演奏活動は、人間愛に支えられて、恒常的に続けねばならない。

この世界では、非人間性をもたらす力は弱くない。

だから自らの人間性を守るために、強靭でなければならない。

私たちに強靭な防壁がなかった事が、ビリー・ホリディ、クリフォード・ブラウン、チャーリー・パーカーを若死にさせたことを、忘れるわけにはいかない。

(2022年10月4日に作成)


『私の愛するジャズアルバム』 目次に戻る

『サイトのトップページ』に行く

『日記』のトップページに行く