ジャズの雑学(メモ的なもの)①

(以下は1999年2月にノートにとって勉強したもの)

〇ハービー・ニコルス

ピアニスト、作曲家である。

ブルーノートに録音があり、1955年5月6日と13日の録音は、アル・マッキボンとアート・ブレイキーが共演者。

これは2枚の10インチ盤、BLP5068、5069として発売。

1955年8月1日と7日の録音は、アル・マッキボンとマックス・ローチが共演者。

1956年4月19日の録音は、テディ・コティックとマックス・ローチが共演者。

これは12インチ盤のBLP1519として発売。

1980年代に、マイケル・カスクーナらの発掘(調査)で、1956年4月19日の録音は未発表曲2曲が見つかり、「ジ・アザーサイド・オブ・ブルーノート1500シリーズ」に収録された。

カスクーナはさらに発掘を続けて、総計26の別テイクや未発表曲を見つけた。
これはモザイクから出た「コンプリート・ブルーノート・ハービー・ニコルス」に収録された。全48曲である。

ハービー・ニコルスは、ベツレヘムにも1957年11月に録音している。

○雑学

スウィングジャーナル1998年4月号に、バークリー音楽大学の事が出ていた。

1998年の時点で、千人を超す学生が学んでいるが、そのうち日本人留学生が40%を占めている。

20%がヨーロッパからの留学生で、残りがアメリカ人。

秋吉敏子は、1956年1月に日本人初の奨学生として同大学に入学し、59年までピアノと作編曲を学んだ。

(※渡辺貞夫も、バークリーに留学した時期がある)

バルネ・ウィランは、フランスの代表的なテナー・サックス奏者である。

彼は1959年4月に、クラブ・サンジェルマンでのライブ録音があり、発売されている。
共演者にはケニー・ドーハムとデューク・ジョーダンがいる。

ドーハムはこの時、映画『彼奴を殺せ』のサントラ録音でフランスに来ていた。

この日のライブ録音は、未発表曲集として「モア・フロム・バルネ」もある。

オスカー・ピーターソンは、1949年9月にJATPに参加した。
(※ピーターソンはカナダ人で、これを期にアメリカで演奏することになった。)

この時は、主にレイ・ブラウンとのデュオで演奏。
レイ・ブラウンは、1966年までピーターソンのバンドに参加し続けた。

ピーターソンのバンドは、1951年の後期にギターが加わり、トリオ編成となった。
最初のギタリストはアービング・アシュビーで、次はバーニー・ケッセル。

1953年9月~58年は、ギターはハーブ・エリスが担当した。

1958年末からは、ギターを外してドラムを加えたトリオに変更した。

最初のドラマーはジーン・ギャメージ。1959年にエド・シグペンに代わった。

1965年春からはドラムはルイ・ヘイズに。

67年にはベースがサム・ジョーンズに代わった。ジョーンズは70年まで在籍した。

ニューヨークにあった有名なジャズ・クラブ「ロイヤル・ルースト」は、1948年に開店した。

店主はラルフ・ワトキンス。

チャーリー・パーカーのバンドは、1948年9月~50年5月に出演した。

マイルス・デイビスの九重奏団は、48年9月に出演。

タッド・ダメロンも48年に出演。

レスター・ヤングは、48年11月~49年4月に出演。

○『マグニフィセント・サド』の解説文から抜粋

チャールズ・ミンガスは、サド・ジョーンズのことを「もう生涯こんなすごいトランペッターに出会うことはないだろう」と評し、ファッツ・ナヴァロやクリフォード・ブラウンよりも高く評価していた。

サド・ジョーンズは、13歳でトランペットを始めて、16歳の頃にプロになった。

1950年から53年までは、ビリー・ミッチェル(サックス奏者)のバンドにエルヴィン・ジョーンズと共に在籍した。

54年春には、1ヵ月ほどミンガスのグループに入った。

バリー・ハリスは、キャノンボール・アダレイの再三の要望で、NYに1960年に定住した。

○『ジョー・ヘンダーソン with ケリー・トリオ』の解説文から抜粋

ウィントン・ケリーのトリオ(ベースはポール・チェンバース、ドラムはジミー・コブ)は、年に1、2回はボルチモアで演奏した。

いつもゲストでサックス奏者を加えていた。リハーサルは無し。

(※これが録音されており、数十年してからCDで発売された)

ウィントン・ケリーはアルコールで若死にした。

ケリーは、3歳でピアノを始めて独学した。
右手は3本の指しか使わず、親指と小指は使わなかった。
右耳が難聴だった。

あらゆる曲を知っていて、好きなテンポで演奏できた。

ケリーとポール・チェンバースは、金銭面の不満からマイルス・デイビスのバンドを辞めた。

ジミー・コブはバンドに残ったが、マイルスの3ヵ月に及ぶツアーを、ジョージ・コールマン、ハロルド・メイバーン、ロン・カーター 、フランス・ストロージャーの新メンバーと共にしたあとに、バンドを退団した。

そして3人はトリオを結成した。

ケリー・トリオのマネージャーは、最初はエディ・ロックジョウ・デイビスがしたが、ロックジョウはすぐにジャズ・ミュージシャンに戻り辞めてしまった。

○『DUCK'S BIG4』の解説文から抜粋

ルイ・ベルソンがエリントン楽団に加入すると、それまでのソニー・グリーア時代のリズムを一新した。

ルイ・ベルソンは、黒人歌手のパール・ベイリーの夫である。

○ソニー・ロリンズの『ウェイ・アウト・ウェスト』の解説文から抜粋

『ウェイ・アウト・ウェスト』と『コンテンポラリー・リーダーズ』のCDに追加された合計6曲は、元々LPで『オルタネイト・テイクス』として1986年に発売された。

『ウェイ・アウト・ウェスト』は、4時間でアルバムの半分を仕上げた。

○『ジャズ批評43』から抜粋

ショーティ・ロジャースの姉は、レッド・ノーボと結婚し、2人は義兄弟になった。

クラブ「ヘイグ」に、ジェリー・マリガン~チェット・ベイカーのカルテットの後任として、ショーティ・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツが出演した。

ヒズ・ジャイアンツには、ラス・フリーマンが参加していた。

チャーリー・パーカーは、1944年9月に最初の自己のバンドを結成したが、メンバーはジョー・オーバニーとスタン・レヴィでトリオ編成だった。

『ダウンビート誌』は1934年の創刊、『スウィングジャーナル誌』は1947年の創刊である。

チャーリー・パーカーの娘プリーは、1951年に誕生したが、53年7月に肺炎で死亡した。
パーカーは落胆し、精神的にも弱って、トラブル起こすこと多くなった。

パーカーのサックスは音が大きいので、人より一歩さがって吹いていた。

パーカーは、レベッカ・ラッフィンと1936年にカンサスにて結婚した。
レベッカは4歳年上だった。

パーカーは1943年4月10日に、ジェラルディン・マーグリット・スコットと再婚した。

さらに1947年12月には、白人のドリス・シドニアと正式に結婚した。メキシコのチワワにて。

さらに1950年には、白人のチャン・リチャードソンと結婚した。
51年7月に娘プリーが生まれ、52年8月に息子ベアードが生まれた。

○『ジャズ批評67』から抜粋

ヴァーブ・レーベルの日本盤は、最初は東芝が出した。(数は少ない、エンジェルマークが特徴)
その後に日本コロンビア、その後にポリドールが発売した。

マスターテープは経年変化でくたびれてくるため、録音されてすぐに作られた、昔のレコードの方が音がよい。

1990年度の時点で東芝EMIは、ブルーノート、キャピトル、UA、パシフィック・ジャズ、ルーレットの各レーベルの作品の権利を持っていた。

○『ジャズ批評74』から抜粋

マイルス・デイビスは1954年に、デトロイトのクラブ「ブルーバード」と契約し演奏した。

その後にデトロイトで、コンテ・カンドリのバンドにゲスト参加した。

コンテ・カンドリは、15歳のハイスクール在学中に、夏休みの間だけウディ・ハーマン楽団にシカゴで加入した。

仕事は、映画館の上映の間の時間、1時間ほどの演奏。当時はクラブ・ギグは少なかった。

ライトハウス・オールスターズのオーナーのジョン・レヴィンの死後、その息子とラムゼイ・ルイスの意見が合わなくなり、ラムゼイは自分でクラブ経営を始めた。

○ジャズのスタンダード曲(作成年と作曲者)

セントルイス・ブルース
1914年、W.C.ハンディ。

Bye Bye Blackbird
1926年、レイ・ヘンダーソンとモート・ディクソン。

そよ風と私
1928年、エルネスト・レクオーナ。組曲アンダルシア第二番が原曲で、キューバの曲である。

I Love Palis
1951年、コール・ポーター。ミュージカル「カン・カン」の曲。

My Favorite Things
1959年、ロジャース&ハマーステイン2世。
「サウンド・オブ・ミュージック」から。この2人の組んだ最後の作品。

酒とバラの日々
1962年、ヘンリー・マンシーニ。映画主題歌でアカデミー賞をとった。

○ジャズ・ミュージシャンの一時引退

ソニー・ロリンズ
1954年11月~55年11月 シカゴの麻薬療養所へ入るため。
1959年8月~61年11月  行き詰まりを感じ、新たな演奏法を身に付けるため。

デクスター・ゴードン
1955年12月~60年 麻薬中毒のため。

チャーリー・パーカー
1946年7月29日の録音直後~47年1月 発狂者と見られてカマリロ精神病院に入れられた。

バド・パウエル
1947年11月~48年11月 躁鬱病のため入院。
1951年8月 セロニアス・モンクと共に麻薬所持で逮捕。ピルグリム病院に入院となる。53年2月に退院。

ビリー・ホリディ
1947年5月 麻薬所持で逮捕され、刑務所へ。48年2月に仮釈放となった。
これによりキャバレー・カードを没収された。

アート・ペッパー
1952年11月~56年7月 麻薬中毒の療養。
1960年からは麻薬で活動が断続的に。
1968年~74年? 麻薬療養所に入る。

オスカー・ピーターソン
1991年末~93年4月 体のおとろえのため。ブルーノート東京で復帰記念ライブをした。

レッド・ガーランド
1962年末から活動が少なくなる。65年に故郷ダラスに帰り引退。
1971年5月 復帰してレコーディング。

ジョージ・ウォーリントン
1957年末~83年。

アール・ハインズ
1956年から地味な活動を西海岸でする。
1964年3月にNYのリトルシアターでコンサートし、ソロピアニストとして再び活発な活動を始めた。

メル・パウエル
1953年以後はジャズのレコーディングなし。現代音楽をプレイした。ベニー・グッドマン楽団のLA公演ではジャズをプレイしていた。
1987年に34年ぶりに録音をした。

ギル・コギンズ
1960年代は不動産関係の仕事をし、ジャズ演奏はほとんどせず。
1982年頃に本格的にカムバックした。

J・J・ジョンソン
?~1954年7月 ジャズシーンの不況のため、写真技師をしていた。

クリフォード・ブラウン
1950年6月に自動車事故を起こして入院。51年5月にカムバックした。

カーリー・ラッセル
仕事が無くなったので、1960年にトラックとタクシーの運転手に転職。

マイルス・デイビス
1975年10月~81年6月26日まで。精神と肉体の疲労から活動休止。
録音は80年5月から再開していた。

ジミー・ヒース
1955年~59年。刑務所入り。

ウォルター・ビショップ
1953年~59年。

オーネット・コールマン
1962年12月21日~65年6月までレコーディングをせず。活動自体も63年1月~64年9月はせず。

チェット・ベイカー
1953年9月~同年12月25日まで。麻薬所持で刑務所入り。

アレン・イーガー
1957年暮れの録音を最後に引退同然に。

デューク・ジョーダン
1960年代の半ば~72年。仕事がなく、タクシーの運転手などをしていた。

ハーブ・エリス
1958年にオスカー・ピーターソンのバンドを辞めてからは、西海岸でスタジオの仕事をする。1969年にジャズ界に復帰した。

タル・ファーロウ
1957年頃~1967年。

アル・ヘイグ
1955年頃~1973年頃。

ベニー・ゴルソン
1964年頃~75年6月。テレビや映画音楽界で働いた。

ジーン・アモンズ
1962年に麻薬で逮捕され刑務所に。69年に出所した。

アニタ・オデイ
1964年~1969年2月。活動を停止。

タッド・ダメロン
1954年頃~1960年。麻薬に溺れて活動停止に。

(2024年6月~7月に作成)


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