(以下は1999年2月にノートにとって勉強したもの)
〇ジャズ批評65に掲載の岩波洋三氏と石原康行氏の対談から
モダンジャズで日本盤が最初に出たのは、ジャズ・メッセンジャーズのエカローと、マイルス・デイビスのラウンド・ミッドナイトだった。
これはEP(コンパクト盤)で発売された。
それまでは輸入盤で聴くしかなく、ほとんどが10インチ盤だった。
1950年代に10インチ盤をかけていたジャズ喫茶は、銀座のスイング、ユタカ、上野のイトウ、渋谷のデュエット、有楽町のコンボ(1949年開店?) 、横浜のちぐさ、くらいだった。
コンボとちぐさはジャズメンのたまり場で、みんなそこでジャズを聴いてから仕事場に向った。
1950年代末になって、八重洲と有楽町にママ、新宿に渚、ヨット、キーヨ、その後に木馬、ポニー、DIGと新しくジャズ喫茶ができた。
(※戦後のかなりの時期までは、ジャズなどのレコードは高額で一般人に買いづらいので、喫茶店がレコードをかけて客を呼ぶのが流行した。)
モダンジャズは、日本ではまずソニー・ロリンズが有名になり、モンク、クリフォード・ブラウンが続いて、その後MJQが知られた。
(※ビバップがアメリカで登場した1940年代は、日本は戦時中か、戦後の混乱期で、ジャズどころではなかった。)
岩浪洋三が東京に出てきてスウィングジャーナル誌に入社したのは1957年11月だが、その頃は殆どハードバップを取りあげてなかった。
岩波は、四国の松山出身で、雑誌、放送局、評論家によく投書していた。
当時はラジオのジャズ番組が多かった。
評論家の油井正一にも手紙を出したところ、ぶ厚い返事の手紙をもらったと言う。
1950年代後半に、秋吉敏子はラジオで週一回レギュラーで、イブニング・コンサートという番組に出演していた。
当時にハードバップをやっていたバンドは、CBナイン、八城一夫バンド、シックスレモン・オールスターズ、コージーカルテットらだった。
ハードバップという言葉は、1950年代の終わり流布した。
ファンキーという言葉、表現は、1960年代になってから評論家の植草甚一が広めた。
1950年代後半は、ブルーノートやプレスティッジなどの有名なジャズレーベルのアルバムも、日本盤はまだ出てなかった。
当時のレコードの値段は、1枚で2800~3200円ぐらい。
岩浪洋三の月給が、1958年当時で1万2千円だった。
だから皆がジャズ喫茶で聴いていて、ジャズ喫茶に行っていない人は最新のジャズを全然知らなかった。
1960年頃までは、米ドルが自由に手に入らず、放送局はドルの割当てが入るので、それでレコードを輸入していた。
当時は、レコードの輸入盤を売っている店も少なかった。
新宿のマルミ・レコード、銀座のヤマハ、村岡貞のリズム社(戦前からあった)、日比谷のアメリカ物品屋などで輸入盤を売っていた。
1961年にジャズ・メッセンジャーズが初来日公演したが、当時は皆がまだモード・ジャズを知らなかった。
ピアニストの八木正生は、メッセンジャーズにいたウェイン・シューターからモードを教わった。
メッセンジャーズを招聘したプロモーターは、アート・フレンド・アソシエーションで、社長は神彰。
神彰は後に、北の家族の居酒屋チェーンで成功している。
同社は翌年にホレス・シルバーも招いている。
当時、NHKのテレビで昼の12時15分~1時の間に、生の音楽番組があり、ジャズかポピュラーをやっていた。
石原康行のイブニング・コンサートは、月~金曜日に毎日 夕方6時20分~7時に放送された。
○ジャズ・ミュージシャンの来日公演
1951年10月 オスカー・ペティフォード、JJジョンソンら。
米軍のみを相手に演奏。在日米軍向けの慰安バンドだった。
1952年4月 ジーン・クルーパのトリオ。チャーリー・ヴェンチュラがメンバー・
1953年1月 ジューン・クリスティ&ジョージ・オールド。
1953年11月 JATPコンサート。
エラ・フィッツジェラルド、ベニー・カーター、ウィリー・スミス、ベン・ウェブスター、オスカー・ピーターソン、レイ・ブラウン、J・C・ハード、ジーン・クルーパ。
1953年12月 ルイ・アームストロングのオールスターズが初来日。
バーニー・ビガート、トラミー・ヤングなど。
1957年1月 ベニー・グッドマン。ハンク・ジョーンズら。
1959年1月 ジャック・ティーガーデン。
1960年8月 ミルス・ブラザーズ。
1960年11月 ヘレン・メリル。
1961年1月 アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズが初来日。
リー・モーガン、ウェイン・ショーター、ジミー・メリット、ボビー・ティモンズ、ビル・ヘンダーソン。
これはツアーで、1月2日から15日まで行われた。
産経ホールの場合、入場料は6段階で、上から1800円、1500円、1200円、1000円、700円、400円だった。
正月だったため、酒が客に配られた。
ジャズ・メッセンジャーズのメンバーを水谷八重子の家に招き、歓迎パーティも行われた。
モーガンは女に一番もてて、やたらと女を口説いていた。
ショーターは無口な紳士で、はにかみ屋だった。
ティモンズとメリットも静かだった。
モーガンとショーターは、すでに日系人と結婚していた。
1961年2月 秋吉敏子とマリアーノのカルテット。
1961年5月 MJQが初来日。
1961年5月 ナットキングコール。
1962年 ホレス・シルバーのクインテット&クリス・コナー。
1963年になると、多くのミュージシャンが来日公演するようになった。
セロニアス・モンクのカルテット。
キャノンボール・アダレイのセスクテット。ジョーザヴィヌルがメンバー。
ソニー・ロリンズ。
ジャズ・メッセンジャーズの再来日。ジョニー・ハートマンも参加。
カウント・ベイシーのビッグバンド。
アニタ・オデイ。
ジョージ・シアリング。
ライオネル・ハンプトン。
ジョージ・ルイス。
1964年7月には「世界ジャズ祭」が行われ、多くのミュージシャンが来日公演した。
これに参加してマイルス・デイビスが初来日した。録音も残っていて発売されている。
他にもウィントン・ケリー、JJジョンソン、ジーン・クルーパ、レッド・ニコルス、エドモンド・ホール、カーメン・マクレーらがこのジャズ祭で来た。
JJジョンソンのバンドのメンバーは、ソニー・スティット、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブだった。
1964年は他にも、エラ・フィッツジェラルド、デイブ・ブルーベック、ジェリー・マリガン、デューク・エリントン、ローランド・カークらが来日した。
ジョージ・ルイスは、64年、65年にも来日。
1965年1月 四大ドラマーの公演として、フィリー・ジョーとチャーリー・パーシップが来た。
ところがこの2人は、神戸国際ホテルで麻薬所持で逮捕された。
この公演は日本人の富樫雅彦やジョージ川口も参加した。
日本は1963年に法改正して、麻薬への刑罰が重くなっていた。
1966年7月 ジョン・コルトレーンが来日してツアー。
ジミー・ギャリソン、ラシッド・アリ、アリス・コルトレーン、ファロア・サンダース。
1966年11月にエルヴィン・ジョーンズが「ドラム合戦」のメンバーで来日したが、トラブルでしばらく滞在することになり、翌年になってから帰国した。
その間に日本のミュージシャンと共演した。
「ドラム合戦」の他のメンバーは、アート・ブレイキーとトニー・ウィリアムスだった。
1966年3月にはMJQが再来日している。
1968年 オーネット・コールマン。
同年 スタン・ゲッツ。メンバーにチック・コリア。
同年5月 ハンプトン・ホーズが来日公演。
彼は米軍時代に日本に滞在していて、1954年秋に帰国して以来で日本に来た。
1969月10月 ディジー・ガレスピーが初来日。
1970年2月にマル・ウォルドロンが初来日。レコーディングをした。
彼は72年にも日野兄弟とレコーディングした。
1970月3月にも「ドラム合戦」の公演が行われた。
メンバーはジャック・デジョネット、メル・ルイス、ロイ・ヘインズ、ジョージ大塚。
「大阪万博と重なり、客が3分の1しか入らなかった」と、初日を観た植草甚一は証言している。
1970年9月、71年7月、73年11月にテディ・ウィルソンが来日。
北村英治グループと共演した。
1970年 ウディ・ハーマン。
1971年1月 チャールズ・ミンガスが初来日。
エディ・プレストン、ボビー・ジョンズらと。
1972年にギル・エヴァンスが来日公演。演奏者は日本人を使った。
ギルは76年にはオーケストラを率いて来日した。
1972年10月 エロール・ガーナー。
1973月と74年に、CTIオールスターズが来日。ロン・カーターがメンバー。
1973年 ベニー・カーター。
同年 リー・コニッツ。
1973年5月 セシル・テイラーが初来日。彼は74年9月にも来た。
1975年 デクスター・ゴードンが初来日。
1976月1月 ピアノ・プレイ・ハウスとして、ジョン・ルイス、ハンク・ジョーンズ、マリアン・マクパーランドが来日。
1976月 ジョニー・グリフィンが初来日。ドラマーはアート・テイラーだった。
同年 ジャッキー・マクリーンが1964年以来で来日。
1977年1月 マックス・ローチが3度目の来日。
同年4月 カル・ジェイダー・グループの一員として、アート・ペッパーが初来日。
来日公演の映像は、ジャズ・メッセンジャーズの他にも、モンク、キャノンボール・アダレイ、ナットキングコール、ハリー・ジェームズ、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ジュリー・ロンドン、ヘレン・メリルがある。
これは全てTBS。
日本テレビも放送したが、テープは残っていない。
(2024年7月4日に作成)