(以下は1999年2月、6月にノートにとって勉強したもの)
〇『マイルス・デイビス自伝』から抜粋
チャーリー・パーカーはカマリロ病院から退院すると、レギュラー・グループを結成して、1947年4月からスリーデューセスに出演した。
メンバーは、マイルス・デイビス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ。
週800ドルのギャラで、パーカーが280ドル、マイルスとマックスは135ドル、ポッターとジョーダンは125ドルの取り分だった。
レニー・トリスターノのトリオと一緒に出演した。
47年11月にパーカー・バンドは、デトロイトのエルシノというクラブに出演した。
パーカーが店のマネージャーとけんかし、契約がキャンセルされてニューヨークに戻る。
ダルアル・レーベルへの吹き込みの後、再びエルシノへ出演した。
たまにベティ・カーターも参加した。
47年12月末に、パーカーはJATPの南西部ツアーへ参加した。
パーカーはツアー中にメキシコに抜け出し、ドリス・シドナーと結婚した。
パーカー・バンドは1948年になると、再びスリーデューセスに出演した。
オニックス・クラブにも出演した。
シカゴのアージル・ショウバーにも出演。
インディアナポリスにもツアーした。
ロイヤル・ルーストの火曜日のコンサートに、マイルス、タッド・ダメロン、ファッツ・ナバロ、デクスター・ゴードンが出演。
マイルスはデクスターと親しくなり、スタン・リービーを加えて三人でつるんで色んなジャム・セッションに加わった。
48年9月にチャーリー・パーカーのバンドは、スリーデューセスの出演をやめて、ロイヤル・ルーストに出始めた。
同年8月下旬~9月に、マイルスは九重奏団を率いてロイヤル・ルーストに2週間出演した。
カウント・ベイシー・オーケストラの前座としてだった。
ベイシーやパーカーは、九重奏団の音楽を気に入ったとコメント。
48年9月末には、マイルスはリー・コニッツ、アル・マッキボン、ジョン・ルイス、ハグッド、マックスローチと 、ロイヤル・ルーストに出演した。
(※これは九重奏団のメンバーたちである)
このころになると、パーカーは有名になり、バンドをほったらかして一人でソロの仕事を取り始める。
またステージ上でアホな行動を取り始める。
マイルスは、デューク・エリントンのバンドに誘われるが丁重に断わる。
マイルスは、ギル・エバンスのアパートに入りびたる。
ここはミュージシャンの溜まり場で、他にもマックス、ディジー・ガレスピー、パーカー、ジェリー・マリガン、ルイスらがよく来た。
48年12月末にマイルスは、ギャラの未払いなどの問題でパーカーのバンドを退団。
しばらくしてマックスも退団した。
1949年1月?に、マイルスは自己のグループを作りオニックスクラブへ出演した。
メンバーはソニー・ロリンズ、ウォルター・ビショップ、パーシー・ヒース、ロイ・ヘインズ。
同年1月、ロイヤル・ルーストのタッド・ダメロンのバンドにマイルスは参加。
オスカー・ペティフォードのバンドにも参加し、スリーデューセスに出演。
メンバーはファッツ・ナバロ、バド・パウエル、ラッキー・トンプソン、カイ・ウィンディング。
1949年5月に、パーカーのバンドとダメロンのバンドは、フランスのパリ・フェスに出演した。
マイルスは、ダメロンのバンドのメンバーとして参加した。
この時パーカーやマイルスは初めてヨーロッパに行った。
マイルスは、49年夏に18人編成のバンドでリハーサルをした。
チャノ・ポゾは、ガレスピーのバンドで活躍したコンガ奏者だが、大変なコカイン常用者だった。
コカインの売人が彼にカネの支払いを要求したが、彼が逆にひっぱたいたので撃ち殺されてしまった。
1950年にマイルスは、オーデュボン・ボールルーム出演。
メンバーは、ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン、アート・ブレイキーなど。
○ジャズ・アルバム『BN1571』の解説から
カーティス・フラーは、1954年からデトロイト大学、ウェイン大学で学んだ。
57年春にニューヨーク進出。
JJ・ジョンソンの紹介でアルフレッド・ライオンに会い、ブルーノートに録音し始めた。
○『ジュニア・マンス・トリオ』の解説文から抜粋
ジュニア・マンスは、シカゴのルーズベルト大学で音楽を学んだ。
兵役中(1951~53年)の間に、アダレイ兄弟(ナットとキャノンボール)と知り合い、除隊後はダイナ・ワシントンの伴奏者となった。
1956年2月~57年11月はアダレイのバンドに参加。
58年3月~59年9月は、ディジー・ガレスピーのバンドに参加。
○ジミー・スミスの『ザ・キャット』の解説文から抜粋
エロール・ガーナーとジミー・スミスは譜面が読めなかった。
ジミー・スミスは1948年に生地のハミルトン音楽学校でベースを学んだ。
1949~50年は、オルスタイン学校でピアノを習った。
記憶力がすごいため譜面を読む必要がなかった?
1953年にワイルド・ビル・デイビスの演奏を聞き、ピアノからオルガンに転向した。
55年9月に自己のトリオを結成。
○ジョー・オーバニー(ピアニスト)について(どこからの抜粋か不明)
ジョー・オーバニーの演奏は、1946年のレスター・ヤングのアラジン・セッションと、1957年のリヴァーサイド・レーベルの録音くらいでしか聞けなかった。
だが1970年代に入ってカムバックし、録音が次々と行なわれた。
チャーリー・パーカーに「バド・パウエルに次ぐ優れたピアニスト」と称され、パーカーの1946年春のダイアル・セッションに参加する予定だったが、直前にパーカーと口論してチャンスを逃した。
クイーンディスク・レーベルの出したチャーリーパーカーに、パーカーとオーバニーの共演(ライブ)が収められている。
○ブルーノート・レーベルの話(『アザーサイド1500シリーズ』の解説文から抜粋)
ブルーノート・レーベルは、創設者のアルフレッド・ライオンの引退後は、若いジョージ・バトラーが入社してクロスオーバー路線になった。
1978年にマイケル・カスクーナが、膨大な資料(録音テープなど)を発見した。
ライオンの書いた、セッションごとのノートも見つかった。
1952年のマイルス・デイビスのセッションでは、アイ・ウェイテッド・フォー・ユーのたくさんの別テイクなど、未発表音源がたくさん発見された。
他にも未発表の音源がたくさんあり、ライオンはセッションの間ずっとテープを回していたらしい。
ブルーノートの初期の録音は、WORスタジオでダグ・ホーキンス技師によってほとんどが行われた。
たまにエイペックス・スタジオでハリー・スミス技師が担当した。
ライオンは新しい機材の受け入れに消極的で、1951年11月5日のシドニー・ベシェのセッションで初めてアセテート盤からテープへ録音媒体を切り替えた。
その時にも、アセテート盤も動かせるよう安全策をとった。
ブルーノートは、1950年半ばにLPを販売し始めた(最初は10インチ)。
これは、SP時代に作ったトラディショナル・ジャズのレコードのLP化であった。
1951年の夏に、モダンジャズのLPを初めて発売した。
1955年11月に、初の12インチLPとして「BN1501」を発売した。
なおBN1500番台のラストとなる「BN1600」は、1958年9月に録音され、12月に発売された。
ギル・メレが、ルディ・ヴァンゲルター(録音技師)をアルフレッド・ライオンに紹介した。
1953年10月25日のメレのセッション(BN5033として発売)が、ブルーノートでヴァンゲルダーが録音を担当した最初のものである。
その後は、1954年と56年にNYのオーディオ・ヴィデオ・スタジオで吹込んだもの以外は、全てヴァンゲルダーが手がける事になった。
ずっとヴァンゲルダーの自宅の居間で録音されてきたが、そこでは1959年7月1日の録音が最後となった。
同年7月20日からは、イングルウッド・クリフに新築されたヴァンゲルダーのスタジオで行なわれた。
ブルーノートは、ステレオ録音は1957年4月27日のサブーのセッションから始めた。
だがこのセッションは、モノラルでしか発売されなかった。
ライオンとフランシス・ウルフは、1956年1月にスモールズ・パラダイスで、初めてジミー・スミスの演奏を聞いた。
(※スミスの演奏に惚れたライオンは、スミスのアルバムを沢山作った。)
マイケル・カスクーナは、ラジオのアナウンサー、ジャーナリスト、レコード・プロデューサーとしてミュージシャンと交友を持つようになり、ブルーノートに未発表セッションがあるとの話を聞いた。
そこで1971年ごろからノートを作り始め、当時のブルーノートの責任者であるジョージ・バトラーに「テープ保管庫を調べさせてほしい」と何度も頼んだが、断わられた。
カスクーナは75年に販売責任者のチャーリー・ローリーと出会い、ローリーはカスクーナのノートを見て直ちに許可をくれて、カスクーナは保管庫に入った。
テープには何の記入もなく、カスクーナは一から調べ上げた。
未発表のセッションを突きとめると、リーダー又はサイドメンが2週間ぐらいで新曲を著作権登録しなかったかどうか調べたりした。
カスクーナは、ブルーノートのリイッシュー・シリーズとして、大半を未発表曲で埋めたダブル・アルバムの制作を始めるが、1978年に途絶えた。
その後に未発表セッションの膨大なファイルが発見され、それにもとづきキング・レコードとEMIアメリカが世界初登場シリーズを発売した。
1982年にマイケル・カスクーナは、チャーリー・ローリーと共にブルーノートや他の ジャズレーベルの重要作を箱入り(ボックス・セット)で発売するため、モザイク・レコードを創立した。
1983年に、ブルーノートの日本での発売権を東芝EMIが再び所持して、行方均が担当して未発表シリーズを出した。
バド・パウエルは、1953年8月14日のブルーノートのセッションで、ジョージ・デュヴィヴィエ、アート・テイラーとトリオで録音した。
これがきっかけで、3人でトリオとして3年間活動することになった。
○『カーメン・マクレエ&ジョーウィリアムス イン・コンサート』の解説文から抜粋
MIDEMは、毎年1月に南フランスのカンヌで開催されるイベントだ。
世界中のレコード産業、オーディオ、音楽出版業者の代表が集まり、仕事の契約や情報交換などを行なう。
約1週間の期間だが、その間は毎晩ショウが行われ演奏会がある。
1962年に第1回が行われ、それ以来続いている。
(2024年8月13日に作成)