セロニアス・モンクの音楽観と生涯

(以下は『セロニアス・モンク 生涯と作品』T・フィッタリング著からの抜粋
2006年6月7日にノートにとったこと)

🔵スティーブ・レイシーの話

セロニアス・モンクの代表曲『ラウンド・ミッドナイト』は18歳の時に作曲された。

レイシーの2枚目のリーダーアルバム『リフレクションズ』(プレスティッジ・レーベル)は、全曲がモンク作曲である。

レイシーは1959年に、ジャズクラブ「ファイブ・スポット」にデニス・チャールズとビュエル・ナイドリンガーとトリオで出演した。

その後、1960年に4ヵ月間、モンクのカルテットに加わって演奏した。

以下はレイシーがモンクのバンドにいた時、モンクから言われたことである。

「でたらめな演奏をするな、メロディをプレイするんだ。
足でリズムをとり、頭のなかでメロディを歌ってみるんだ。
コードチェンジを絶対に忘れるな。さもないとメロディのリズムからずれてしまうぞ。」

「私の演奏から何かアイディアを得ようとするな。
主役は君で、わたしは伴奏なんだ。」

「ドラマーのプレイが上手く聞こえるようにしろ」

「スイングしている時でも、もっともっとスイングするんだ」

「判断する能力は大切で、何を演奏しないか、空間をどう使うか、音楽の流れる方向に任せて、どこを終えるかも重要だ。」

「ひとつの楽音は、山のように大きくもなれば、針のように小さくもなる。
その大きさは、演奏するミュージシャンの想像力にかかっている。」

レイシーは、ソニー・ロリンズと共にウィリアムバーグ橋でモンクの曲を練習していた。

モンクの音楽はスイングするものばかりだ。
本質的にダンスから生まれた音楽、ダンスにつながる音楽といっていい。

🔵モンクの生涯で転機となった出来事

1947年
結婚と、ブルーノート・レーベルとの契約

49年12月
息子の誕生と、プレスティッジ・レーベルへの移籍

1953~54年
母親の死と娘の誕生

55年
リヴァーサイド・レーベルへの移籍

🔵セロニアス・モンクの生涯

父親セルシアスは氷引きを仕事にしていた。
母バーブラは家政婦をしていた。

セロニアスは1917年に米国に生まれた。
彼が6歳の時に、一家はニューヨークへ引っ越す。

父は病気で寝たきりとなり、母は市役所につとめる。
父は静養のため米国の南部に行ったが、帰ってこなかった。

モンクは肺が弱く、吹奏楽器はむずかしくて、ピアノのレッスンを受けた。

14歳の時にパーティーで演奏を始めた。教会でも演奏した。

ちなみに弟のトーマスは3歳下で、プロボクサーから警官に転職した。

1932年に高名なピアニストのアート・テイタムがニューヨークに来て、モンクはその演奏を聴き大きな影響を受けた。

若きモンクは、アポロ劇場のアマチュア・コンテストに出て優勝を何度もした。
ついには参加を断られるようになった。

ジャズクラブの「ミントンズ」は、ハウス・リズムセクションと共に自由にジャム・セッションができるため、ミュージシャンがたくさん集まった。

月曜日はセレブリティ・ナイトと称して、人気と実力のあるミュージシャンに無料で食事を提供することで、彼らをジャム・セッションに誘いこんだ。

ミントンズの経営者のテディ・ヒルは、ハウス・バンドのピアニストはソニー・ホワイトを雇うつもりだったが都合がつかず、モンクを雇った。

すでにモンクの弾く独自のハーモニーは、仲間内で有名になっていた。

ミントンズのジャム・セッションは、斬新な演奏がくりひろげられていたため、すでに有名なミュージシャンたちも関心を持ち参加した。

ロイ・エルドリッジやレスター・ヤングでさえ、初めて来て演奏に加わった時は敗北した。

このジャム・セッションは、ミュージシャンの実力を測るコンテストの機能もあった。

コールマン・ホーキンスやアール・ハインズも常連になった。

なお、有名なチャーリー・クリスチャンたちのミントンズでのライヴ盤は、ピアノはモンクでなくケニー・カーシーらしい。

この頃から、モンクは仲間のミュージシャンを自宅に招くようになり、自分のアイディアをピアノを弾いて披露するようになった。

最も通ってきたのがバド・パウエルだった。
モンクもバドの家によく行った。

やがてミントンズは、ジャム・セッションは月曜日のみになり、残りの日はレギュラーバンドの出演となった。このためモンクの出演は減った。

1942~44年に、大掛かりなレコーディングのストライキが行われた。

このストは、ラジオ局の放送が普及し、生演奏がレコード再生に置き換わってきて、ミュージシャンの仕事が減ったため、レコードがラジオで流れた時に印税を支払うよう要求したものである。

1945年1月21日に、フィラデルフィアでモンクは演奏したが、モンクは逮捕されそうになった。それを助けようとしたバド・パウエルが警棒を頭にくらった。

それ以来バドは頭痛に苦しむようになった。

モンクは、「52丁目のテーマ」と「ザ・テーマ」をバドのために作曲した。

モンクの自宅で行われるセミナーには、1945年にはマイルス・デイビスとバド・ジョンソンも参加した。

もっと後になるとソニー・ロリンズも参加した。

1946年にモンクは、ディジー・ガレスピーのビッグバンドに参加したが、しょっちゅう遅刻するためクビになった。

モンクの自宅は、部屋の真ん中にリースで借りたスタンウェイのグランドピアノがでんと置かれていたが、ピアノの上にはガレスピーの写真があった。

その写真には、「モンクへ。俺の最初のインスピレーション。ずっとそのままで。おまえの息子、ディジー・ガレスピーより」と書かれていた。

あとは部屋の天井にはビリー・ホリディの写真が貼られていた。

モンクの家は、母バーブラと妻ネリーの他にも、姉のマリオンとその夫、さらに従兄弟が住んでいた。
弟のトーマスも近くに住んでいた。

モンクは、ダウンビート誌の読者人気投票で1948年は23票、49年は0票だった。

この頃の黒人達は、ルイ・ジョーダン、B・Bキング、ファッツ・ドミノ、レイ・チャールズを好んでいて、ビバップは人気がなかった。

モンクは1948年8月にマリファナ所持で捕まり、1年間のキャバレー・カード失効となった。

モンクは1949年末にプレスティッジ・レーベルに移籍したが、ブルーノート・レーベルが小切手払いなのに対し、プレスティッジは現金払いで、そのためヤク中毒のミュージシャンに好まれた。

1950年代前半のモンク家のハウス・セミナーの常連には、ピアニスト&作曲家のエルモ・ホープとハービー・ニコルスがいた。

53年にはアンリ・ルノーも参加した。

モンクが1955年に契約したリヴァーサイド・レーベルは、できるだけジャムセッション風のブローイング・セッションを避けた。芸術性を重視したからである。

モンクのマネージャーになったハリー・コロンビーは、その兄ジュールズがシグナル・レーベルのプロデューサーだった。

シグナルでジジ・グライスがリーダーの録音にモンクが参加した時、ハリーはモンクに自己紹介してマネージャーになった。

ジョン・コルトレーンは、1957年にモンクのハウス・セミナーに参加した。

コルトレーンは、同じくセミナーに参加していたウィルバー・ウェア、シャドウ・ウイルソンと共にモンクのバンドに入った。

1957年にハンプトン・ホーズはニューヨークに住んでいたが、ヤク中毒で駄目になっていた。

モンクとニカ夫人は、セントラルパークのベンチで横になっているホーズをよく助けていた。

1976年7月4日に、ニューヨークのピアノ・バーでバリー・ハリスが出演中に、モンクが現れて二~三曲を弾き、そのまま外へと消えた。
それがジャズ界との決別となった。(最後の演奏となった)

🔵モンク自身の音楽に関するコメント

〇フリー・ジャズについて

「フリー・ジャズは自由だというが、音楽の枠組みを取っ払って、でたらめに音を積み重ねるというやり方は、ただの支離滅裂で、なんの論理性もない。

ビートもない、足でタイムをキープもできない。そんなものは音楽ではない。

例えばオーネット コールマンなど、現在の現象はとんでもない事だ。

いまどきのアイデアとは、すべてをめちゃくちゃに壊して、ショックや意外性を発見するというものだ。

ジャズにとって一番大事なのは、何よりもまず誰にでもわかるストーリーをちゃんと伝えることだ。」

〇ギタリストについて

「チャーリー・クリスチャンを聴いてしまうと、他の誰を聴いてもダメだ」

〇同じ曲をいつも演奏している理由

「その曲のための聴衆を作る目的だ」

🔵モンクの音楽とビバップの特徴

モンクは巨体だが、手は小さかった。

彼は短2度(半音)で音をよくぶつけた。
それも同じ強さでなく異なる強さでよく弾いた。

ディジー・ガレスピーの話

「もしモンクと演奏したいのなら、曲の構造とハーモニーを完全にマスターしておくことだ。さもないとびっくり仰天してひどい目にあうよ。」

ケニー・クラークの話

「私はスイング・ジャズの堅いリズムを和らげて、ビートを解放してあげた」

クラークの革新的なリズムのアイディア(ビバップのリズム)の前身は、カンザスシティのスイング・ジャズにあった。

ビバップでは、リズム・キープ役がドラムからベースに変わった
ベースがリズムとハーモニーの進行ペースを設定するようになった。

モンクのソロは、テーマ部の素材(テーマ部のフレーズ)を自分のバッキングにはっきりと利用している。
それにより演奏全体をテーマ部に沿ったものした。

又、ホーン(ソロイスト)に新しい世界を創造させるため、数コーラスにわたってピアノがバッキングをしないなど、バッキングを簡素化することもあった。

モンクの左手の最低音部では、しばしば9度が2度で代用されている。(※あえて9度を1オクターブ下げて2度にし、音をぶつけている)

モンクのCBS時代(晩年)に吹きこまれた新曲は、わずか10曲と少なかった。

彼の曲の構造は、ほとんど例外なく12小節のブルースか、32小節の歌曲形式だった。

彼はAABA形式(32小節の曲)のB部分を、曲の内側と呼んで重視していた。

🔵ジャズの理論の話

ジャズは大抵は4/4拍子で、1小節あたりに4つのビートがある。
1つのビートが四分音符ひとつ分に相当する。

ビートを細かく見ると、4/4拍子では最初のビートがもっとも強く、3番目のビートが次に強く、2番目と4番目のビートが最も弱い。

通常は、最初のビートを「ダウンビート」と言う。

「オフビート」とは、予定のアクセントが覆されることで、ダウンビートが休符になる、前の小節からビートをくり越す、などの場合を言う。

2番目と4番目のビートは「バックビート」とも呼ばれ、ジャズではこのビートが一貫して強調される場合もある。

ジャズでは、ひとつの曲を決まったハーモニー・パターン(これをチェンジ又はコードチェンジと呼ぶ)と関連づけている。

このパターンは「フォーム(形式)」とも呼ばれる。
全体のフォームを「コーラス」と呼ぶ。

アンサンブルのセクションがモティーフを何度かくり返すことがあるが、これを「リフ」と言う。

デスカントとは、ひとつの楽曲のなかの高音域、あるいは上部の領域を指す。

(以上は2026年5月30日~31日に作成)


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