(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年9月20日に作成)
🔵マイルスはニューヨークに出て、ジュリアード音楽院に入学する
オレの住むセントルイスに巡業に来たB(ボーカリストのビリー・エクスタイン)のバントは、トランぺッターの1人が病気だったから、オレが代役に入って演奏した。
この時に共演したディズ(ディジー・ガレスピー)とバード(チャーリー・パーカー)は、「もしビッグアップル(ニューヨーク)に来たら連絡しろよ」と言ってくれた。
それで18歳のオレは1944年の9月に、荷物をまとめてニューヨーク行きの汽車に乗った。
オレは自信家だから、大都会のニューヨークにも怯えたりはしなかった。
オレがニューヨークに来た時は、ちょうど第二次世界大戦が終わりに近づいていた。
ニューヨークはどこも、軍服を着た兵隊だらけだった。
ニューヨーク住民のペースはとにかく速くて、そのペースに慣れるのがさしあたっての問題だった。
オレはジュリアード音楽院に入学する手続きをしており、下宿屋に部屋を借りた。
おやじが授業料を払ってくれて、部屋代の他にも大金をおやじから渡されていた。
(※マイルスの父親は医者で、当時の黒人では珍しく金持ちだった)
ジュリアードの授業が始まると、白人偏重の授業ばかりなので、すぐに嫌いになった。
オレの目的はジャズ・ミュージシャンになることで、ジュリアートに行くのは親に対する口実だった。
🔵バード(チャーリー・パーカー)を探す日々
ニューヨークに来た最初の週は、バードとディズを探し回った。
だが2人共見つからなかった。
有名なジャズ・クラブの『ミントンズ・プレイハウス』にも行った。
そこはジャズ・ミュージシャンが本気で腕試しをする所で、100~125人くらいの客が入れるすてきな店だった。
ミントンズは若いミュージシャンの夢だった。
たくさんのミュージシャンがあそこで多くを学び育った。
オレはジュリアードの授業が終わると、毎晩ミントンズや52丁目のジャズクラブに行った。
でも初めの2週間はバードにもディズにも会えなかった。
とうとうディズの電話番号がわかり、電話したらオレのことを憶えていてくれて、自宅へ呼んでくれた。
ディズと会えて大喜びだったが、ディズもバードとはずっと会ってなくて、バードの居場所を知らなかった。
で、オレはバードを探し続けた。
『オニックス・クラブ』に行ってホーク(コールマン・ホーキンス)を聴いたら、彼は今でもなぜだか分からないが、休憩時間になるとオレの所へ寄ってきた。
オレは彼に自己紹介して、「ニューヨークに来てジュリアード音楽院に通っているが、本当はバードを探している」と話した。
「バードと演奏したくて、バードもニューヨークに来たら訪ねるように言ってくれた」とも伝えた。
するとホークは、ちょっと笑って「バードと付き合うには君は若すぎるよ」と忠告してきた。
オレは頭にカチンときて、腹立ちまぎれに大先輩のコールマン・ホーキンスに向かって、「バードがどこにいるか知ってるのか、知らないのか、どっちなんだ、えっ!」と言ってしまった。
彼は驚いてポカンとしたが、顔を振りながら「ミントンズかスモール・パラダイスだな。バードはそこでジャムるのが好きだから。」と言った。
そして立ち去りながら「バードは忘れて、ジュリアードを卒業したほうがいいと思うがね」と付け加えた。
バードの友達がグリニッチ・ビレッジにいると聞いて、出かけていった。
すると長髪で髯もじゃのビート詩人とか、今まで会ったことのないタイプの人達がいた。
ちょっとした勉強になった。
コールマン・ホーキンスは、オレが音楽に真剣だと分かってくれて、バードを探す手伝いをしてくれた。
ある日、ハーレムにある『ヒートウェイブ』というクラブにバードが出演するという新聞広告を見つけた。
ホークに「バードは来るだろうか?」と尋ねたら、彼は独特のからかうような洒落た笑みを浮かべて、「バード本人にも分かっちゃいないだろう」と言った。
オレはその夜、ヤバい場所にあるヤバいクラブのヒートウェイブにトランペットを持って出かけた。
もしバードに会えたら演奏させてもらえるだろうと思って、楽器を持っていったんだ。
だがヒートウェイブにバードはいなかった。
オレは店の席に座ると、演奏を無視してバードが入ってこないかとドアを睨み続けた。
ほとんど一晩中だ。
でもバードは現れない。
それで風に当たろうかと外に出て、通りの角でぼんやりしていたら、後ろから声がした。
「ヘイ、マイルス。オレを探していたのかね。」
振り向くとバードがいた。
何日も着たままらしい、だぶだぶの服を着て、赤く腫れた目で、顔もむくんでいた。
だが酔いつぶれても失われない、バードだけのヒップさがあり、実にクールだった。
おまけに、自分のことを分かってる奴だけが持っている、あの自信に溢れていた。
バードがオレとどこで会ったか憶えていてくれたと分かった時、オレは世界一幸せな男だと感じた。
探すのが大変だったと話すと、彼は微笑んで「あっちこっち動き回るからね」と言った。
バードと一緒にヒートウェイブに入ったが、彼は王様みたいに扱われていた。
当たり前だ、バードだからな。
オレは演奏しないで、彼の演奏にひたすら聞き耳を立てた。
バードは店の外では落ちぶれて見えたのに、アルト・サックスを吹き始めるとすっかり変わり、この世の美と力のすべてが湧き出てくるんだ。
彼は酒やクスリに酔っ払ってひっくり返りそうになっていても、誰よりもすごい演奏をしてしまう。
バードに比べられるものは世界中どこを探してもなかった。
その晩の再会から数年間は、彼とディズが手本で先生だった。
🔵バードとディズから学ぶ日々
1944年12月に妻のアイリーンがオレの所へ来るまで、数ヵ月の間だがバードはオレのアパートに転がり込んだ。
だが酒とクスリのバードの私生活に、当時のオレが付いていけるわけがない。
オレは昼はジュリアードだし、その時バードは眠っているのがほとんどだった。
夜はミントンズなどの店に行って、コード進行なんかを教わって、次の日にジュリアードでピアノを弾いて復習する日々が続いた。
ほとんど毎晩、ディズかバードと一緒に行動し、演奏にも加わって学んだ。
ディズとバードの演奏は、今まで聴いたことのないものだったし、凄すぎて恐ろしくなったほどだ。
ディズはピアノでコードを教えてくれた。
偉大なピアニストのセロニアス・モンクは、バードが紹介してくれた。
モンクの曲のコード進行には心底まいった。
モンクの間の使い方は、オレのソロのスタイルに大きな影響を与えた。
月曜の夜はミントンズにバードとディズが決まってジャムりに来たから、店は超満員で、ミュージシャンたちは2人の演奏を聴いて勉強したものだ。
バードかディズがステージに誘ってくれた時、オレは自分のスタイルで精一杯の演奏をした。
オレが吹き終わった時、みんな笑っていて、それでオレも晴れてニューヨークのジャズシーンへの仲間入りを認められたんだ。
ニューヨークに来て驚いたのは、先輩のトランペッターではディズとロイ・エルドリッジとジョー・ガイくらいしか、聴いて勉強にならなかったことだ。
ニューヨークの連中はすごいと期待していたが、オレの方が音楽が分かっているので驚いた。
もう1つ分かったのは、 ほとんどの黒人ミュージシャンが音楽理論を知らなかった。
年配ミュージシャンの多くは、理論を知るとフィーリングが無くなると信じていた。