(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年9月25日に作成)
🔵目次
🔵ダイアル・レコードでの1回目の録音
1946年3月に、バード(チャーリー・パーカー)のダイアル・レコードでのレコーディングの話がまとまった。
ダイアル・レコード社長のロス・ラッセルは、バードにしらふでやるよう言い渡し、 トランペットはオレが雇われた。
この頃のバードは、ヘロインを打ちまくっていた。
西海岸の人々はビバップを気に入らず、バードの演奏を変だと思っていた。
だからバードは人気が出ず収入もなくなり、ボロボロの恰好で、自信をひどく傷つけられていた。
だがレコーディングではバードはちゃんと持ち直した。
すばらしい演奏だった。
レコーディングの前の晩に、ジャズクラブ『フィナーレ』でリハーサルをしたんだが、大半の時間は揉めていた。
バードは細かな指示をするのがとんとダメな性格で、いつも良いと思うメンバー(共演者)を選ぶだけでおしまいだった。
自作の新曲でも譜面はなくて、せいぜいメロディのスケッチがあるだけだった。
だから奴が自作曲のメロディを吹くのを聞いて、オレ達はそれを耳で憶えなきゃならなかった。
バードはヨーロッパ的な(譜面を使う)共同作業の方法は取らず、インスピレーションだけで自由に吹き、偉大な音楽はそうやってできると信じていた。
彼の考え方は「譜面なんか捨てちまえ」だった。
頭の中にあることを上手く演奏すれば、全て上手く行くと彼は考えていた。
オレはそんなバードのやり方が好きで、そこから多くを学んだ。
バードのやり方は、上手くいってる時は凄いものが出来た。
だが何が起きているのか分かってない奴がいたり、与えられた自由が手に負えず自分がやりたい事だけを演奏する奴がいると、もうダメだった。
バードは時々、そんな奴もバンドに入れてしまうことがあった。
このレコーディングは、ラジオ・レコーダーズというハリウッドのスタジオで行われた。
「ムース・ザ・ムーチェ」というバードの新曲もやったが、それはバードがヘロインを買っている売人の名前に因んだ曲名だった。
このレコーディングのバードのギャラは、半分くらいをそいつがヘロイン代として持っていったはずだ。
オレの演奏は、満足できる出来じゃなかった。
神経質になっていたんだと思う。
ロス・ラッセルまでオレの演奏に欠陥があると言いやがった。
アイツに何が分かるっていうんだ。バードから吸血鬼みたいに吸うことしか頭にないヒル野郎のあいつに。
ミュージシャンでもない白人野郎のくせに、バードの好みが分かると思ってやがる。クソッタレめ。
このレコーディングでオレは、ディズみたいに聞こえないように、ミュートを付けて吹いた。
それでもディズに似ていた。だから自分に腹が立ったんだ。
オレはまだ19歳だったが、自分のスタイルを作ろうとの思いで一杯だった。
🔵ヘロインをやめようとするバード
1946年4月初めに、オレたちが出演していた『フィナーレ』が警察によって閉鎖された。
バードは、フィナーレの店主をするハワード・マギーの家のガレージに住むようになって、そこにヘロインの売人やポン引きやハスラーをしょっちゅう呼んでいた。
だから警察はヤクの売買を理由にフィナーレを閉鎖したんだ。
警察に目を付けられたバードは、当時のロスアンジェルスはヘロインを入手するのが難しかったし、ヘロインと手を切ろうとしてコールド・ターキー(独力で麻薬を断つこと)をした。
だがバードがやったのは、ハワードのガレージでヘロインの代わりに大量の酒を飲むことだった。覚醒剤のカプセルとベンゼドリンの錠剤も使い、身体をめちゃくちゃに痛めつけていた。
5月にフィナーレは再開したが、バードはトランペットにオレではなくハワードを選んだ。
オレはショックを受け、この時のことは強く心に残っている。
この時の他のメンバーは、ピアノはドド・マーマローサ、ベースはレッド・カレンダー、ドラムスはロイ・ポーターだったと思う。
オレはバードのバンドから外されたから、チャールズ・ミンガスやラッキー・トンプソンと演奏した。
だが仕事を見つけるのは難しくて、ロスでの生活にすっかり飽きてしまった。
ラッキーがツアーに出ていなくなると、ミンガスが最高の友達になり、いつも一緒にリハーサルしたり音楽について話し合っていた。
バードは酒をがぶ飲みし続けて身体がボロボロになり、オレはバードのひどい演奏を初めて聴いた。
バードの身体はヘロインには慣れていたが、大量の酒にはついていけなかった。
彼は大量のウイスキーを飲んでは吐くの毎日で、身体が極度に衰弱した。
🔵ダイアル・レコードでの2回目の録音、バードの長期入院
身体をひどく傷めつけた結果、1946年7月のバードのダイアル・レコードの2回目のレコーディングでは、 あのバードがろくに吹けなかった。
このレコーディングでは、バードは精力を使い果たし、今にも死にそうだった。
レコーディングを終えた後、彼はひどく酔っ払ったままホテルに帰り、タバコをつけたまま寝込んでベッドに火を付けてしまった。
で、火事に驚いて裸のまま通りまで逃げたところを、警察に捕まった。
警察はバードを頭のおかしい奴だと思い、カマリロというカリフォルニア州立の精神病院に入れてしまった。
バードはそこに7ヵ月も収容されることになった。
だが入院のおかげで命は助かった。
カマリロ病院はバードにショック療法を行い、それは舌を噛み切りそうになるほど強烈という話だった。
🔵マイルスはBのバンドに入る、ミンガスとの大喧嘩
1946年8月下旬に、B(ビリー・エクスタイン)のバンドがロスアンジェルスにやって来た。
Bのバンドにはファッツ・ナバロがいたが、彼が少し前に辞めていたので、Bはオレを雇おうとした。
オレは了承した。
この時のBのバンドには、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、リントン・ガーナー、トミー・ポッター、アート・ブレイキーなどがいた。
Bはスター歌手だったが、本物のミュージシャンを雇ったので、彼のバンドはきっちりまとまっていた。
だがレコード会社は、Bの歌はレコーディングしても、Bのバンドはレコーディングしなかった。
秋までオレは、Bのバンドでロスアンジェルスを巡業した。
Bのバンドがロス巡業を終えて、ニューヨークに戻る段になったら、「カマリロに入院中のバードをお前は見捨てるのか」とミンガスがものすごい剣幕でオレに怒った。
バードを放っておいてニューヨークに帰るなんて、「アホか、お前は」という調子だった。
オレが黙っていると、彼は「バードはお前のパパなんだぞ」と言い始めた。
それでオレも黙ってられず、「ミンガス聞け、バードはいつ出られるか分からない。バードがもうダメなのが分からないのか?」と言った。
ところが奴は、「マイルス、くり返すがバードはお前の音楽の父だ。恩知らずの奴め。今日のお前はバードが作ったんだぞ」と切り返してくるじゃないか。
「勝手にしろミンガス。オレのおやじは1人だけだし、誰もオレを作れやしないさ。
バードはオレを助けてくれたが、作ったんじゃない。
ロスには飽き飽きだからニューヨークに帰るぜ。お前もバードの心配はよせ。」
とオレは言った。
後で振り返ると、あの口論はオレ達の友情に深い傷をつけた。
その後もよく一緒に演奏したが、もう親しみは感じられなかった。
結局、バードは1947年2月にカマリロ病院を退院し、ロスアンジェルスでダイアル・レコード に2枚分のレコーディングをしてから、ニューヨークに帰ってきた。
あの2枚分のレコーディングは、ロス・ラッセルがバードにやらせた最悪のものだ。
ロス・ラッセルは、バードを徹底的に利用した本当にケチな野郎だ。