マイルスの語るチャーリー・パーカー⑥

(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年9月28日に作成)

🔵目次

ダイアル・レコードでの1回目の録音

ヘロインをやめようとするバード

ダイアル・レコードでの2回目の録音、バードの長期入院

マイルスはBのバンドに入る、ミンガスとの大喧嘩

🔵ディズのビバップ・ビッグバンド、初日だけバードも参加

オレはBのバンドに加わって演奏旅行し、1947年の2月終わりくらいにニューヨークに帰ってきた。

ニューヨークでは、52丁目のジャズクラブたちが(警察の介入で一時閉鎖されていたが、)再開していた。

当時の52丁目はジャズクラブがひしめいていて、ものすごい熱気だった。

オレが帰ってきた時、ディズ(ディジー・ガレスピー)はビバップを演奏するビッグバンドを作り、評判を集めていた。

このビッグバンドは、ギル・フラーが音楽監督をしていた。

ディズのマネージャーのビリー・ショウは、4月にそのビッグバンドをマッキンレー劇場に出演させたが、オレもトランペットで雇われた。

あの公演の初日が忘れられない。最高の演奏だったからだ。

あのバントはディズ、オレ、フレディ・ウェブスター、ケニー・ドーハム、ファッツ・ナバロという史上最高のトランペット・セクションだったし、 ニューヨークに帰ってきたバード(チャーリー・パーカー)まで加わっていた。

バードは1947年2月にカリフォルニア州のカマリロ病院を退院し、ダイアル・レコードに2枚分のレコーディングをしてから帰ってきた。

あの2枚分のレコーディングは、ロス・ラッセル(ダイアル・レコードの社長)がバードにやらせた最悪のものだ
ロス・ラッセルはバードを徹底的に利用した本当にケチな野郎だ。

ニューヨークに戻ってきたバードは、前よりも酒とクスリの量が減っていたし、健康になっていた。

マッキンレー劇場での初日は、オレ達の演奏がとにかく凄かった。

全員が凄いプレイをし、音楽が会場を満たして、みんなの身体から空気にまであふれていた。

オレの人生で最もエキサイティングでスピリチュアルな体験で、

このレコーディングは、ラジオ・レコーダーズというハリウッドのスタジオで行われた。

「ムース・ザ・ムーチェ」というバードの新曲もやったが、それはバードがヘロインを買っている売人の名前に因んだ曲名だった。

このレコーディングのバードのギャラは、半分くらいをそいつがヘロイン代として持っていったはずだ。

オレの演奏は、満足できる出来じゃなかった。
神経質になっていたんだと思う。

ロス・ラッセルまでオレの演奏に欠陥があると言いやがった。

アイツに何が分かるっていうんだ。バードから吸血鬼みたいに吸うことしか頭にないヒル野郎のあいつに。

ミュージシャンでもない白人野郎のくせに、バードの好みが分かると思ってやがる。クソッタレめ。

このレコーディングでオレは、ディズみたいに聞こえないように、ミュートを付けて吹いた。
それでもディズに似ていた。だから自分に腹が立ったんだ。

オレはまだ19歳だったが、自分のスタイルを作ろうとの思いで一杯だった。

🔵ヘロインをやめようとするバード

1946年4月初めに、オレたちが出演していた『フィナーレ』が警察によって閉鎖された。

バードは、フィナーレの店主をするハワード・マギーの家のガレージに住むようになって、そこにヘロインの売人やポン引きやハスラーをしょっちゅう呼んでいた。

だから警察はヤクの売買を理由にフィナーレを閉鎖したんだ。

警察に目を付けられたバードは、当時のロスアンジェルスはヘロインを入手するのが難しかったし、ヘロインと手を切ろうとしてコールド・ターキー(独力で麻薬を断つこと)をした。

だがバードがやったのは、ハワードのガレージでヘロインの代わりに大量の酒を飲むことだった。覚醒剤のカプセルとベンゼドリンの錠剤も使い、身体をめちゃくちゃに痛めつけていた。

5月にフィナーレは再開したが、バードはトランペットにオレではなくハワードを選んだ。

オレはショックを受け、この時のことは強く心に残っている。

この時の他のメンバーは、ピアノはドド・マーマローサ、ベースはレッド・カレンダー、ドラムスはロイ・ポーターだったと思う。

オレはバードのバンドから外されたから、チャールズ・ミンガスやラッキー・トンプソンと演奏した。

だが仕事を見つけるのは難しくて、ロスでの生活にすっかり飽きてしまった。

ラッキーがツアーに出ていなくなると、ミンガスが最高の友達になり、いつも一緒にリハーサルしたり音楽について話し合っていた。

バードは酒をがぶ飲みし続けて身体がボロボロになり、オレはバードのひどい演奏を初めて聴いた。

バードの身体はヘロインには慣れていたが、大量の酒にはついていけなかった。

彼は大量のウイスキーを飲んでは吐くの毎日で、身体が極度に衰弱した。

🔵ダイアル・レコードでの2回目の録音、バードの長期入院

身体をひどく傷めつけた結果、1946年7月のバードのダイアル・レコードの2回目のレコーディングでは、 あのバードがろくに吹けなかった。

このレコーディングでは、バードは精力を使い果たし、今にも死にそうだった。

レコーディングを終えた後、彼はひどく酔っ払ったままホテルに帰り、タバコをつけたまま寝込んでベッドに火を付けてしまった。

で、火事に驚いて裸のまま通りまで逃げたところを、警察に捕まった。

警察はバードを頭のおかしい奴だと思い、カマリロというカリフォルニア州立の精神病院に入れてしまった。

バードはそこに7ヵ月も収容されることになった。
だが入院のおかげで命は助かった。

カマリロ病院はバードにショック療法を行い、それは舌を噛み切りそうになるほど強烈という話だった。

🔵マイルスはBのバンドに入る、ミンガスとの大喧嘩

1946年8月下旬に、B(ビリー・エクスタイン)のバンドがロスアンジェルスにやって来た。

Bのバンドにはファッツ・ナバロがいたが、彼が少し前に辞めていたので、Bはオレを雇おうとした。
オレは了承した。

この時のBのバンドには、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、リントン・ガーナー、トミー・ポッター、アート・ブレイキーなどがいた。

Bはスター歌手だったが、本物のミュージシャンを雇ったので、彼のバンドはきっちりまとまっていた。

だがレコード会社は、Bの歌はレコーディングしても、Bのバンドはレコーディングしなかった。

秋までオレは、Bのバンドでロスアンジェルスを巡業した。

Bのバンドがロス巡業を終えて、ニューヨークに戻る段になったら、「カマリロに入院中のバードをお前は見捨てるのか」とミンガスがものすごい剣幕でオレに怒った。

バードを放っておいてニューヨークに帰るなんて、「アホか、お前は」という調子だった。

オレが黙っていると、彼は「バードはお前のパパなんだぞ」と言い始めた。

それでオレも黙ってられず、「ミンガス聞け、バードはいつ出られるか分からない。バードがもうダメなのが分からないのか?」と言った。

ところが奴は、「マイルス、くり返すがバードはお前の音楽の父だ。恩知らずの奴め。今日のお前はバードが作ったんだぞ」と切り返してくるじゃないか。

「勝手にしろミンガス。オレのおやじは1人だけだし、誰もオレを作れやしないさ。
バードはオレを助けてくれたが、作ったんじゃない。
ロスには飽き飽きだからニューヨークに帰るぜ。お前もバードの心配はよせ。」
とオレは言った。

後で振り返ると、あの口論はオレ達の友情に深い傷をつけた。

その後もよく一緒に演奏したが、もう親しみは感じられなかった。

結局、バードは1947年2月にカマリロ病院を退院し、ロスアンジェルスでダイアル・レコード に2枚分のレコーディングをしてから、ニューヨークに帰ってきた。

あの2枚分のレコーディングは、ロス・ラッセルがバードにやらせた最悪のものだ。

ロス・ラッセルは、バードを徹底的に利用した本当にケチな野郎だ。


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