(以下は『マイルス・デイビス 自叙伝』から抜粋
2026年10月20日に作成)
🔵目次
マイルスたちはノネット(九重奏団)をつくってロイヤル・ルーストに出演する
🔵マイルスたちはノネット(九重奏団)をつくってロイヤル・ルーストに出演する
1948年の8~9月に、オレ(マイルス・デイビス)はノネット(九重奏団)を作って、ニューヨークのジャズクラブ『ロイヤル・ルースト』に出演した。
編曲を担当した1人がギル・エバンスだった。
ギルはクロード・ソーンヒル楽団で仕事をしていたが、1948年の夏に辞めて、バード(チャーリー・パーカー)のために作曲や編曲をしたいと希望していた。
バードはよくギルの住むアパートを訪れていたが、ギルの作品を聴くことはしなかった。それにギルと仕事をするつもりもなかった。
逆にオレがギルと親しくなり、一緒に音楽作りを始めた。
オレは当時、自分のやりたい音楽が形をとり始めていて、それはバードのバンドでやっているものよりもゆったりとリラックスしたものだった。
ギルとジェリー・マリガンは、オレが加わる前にすでにノネットでやることまで決めていた。
そこにオレが加わって、音楽的な解釈とかどんな音楽をやるかを決めたんだ。
オレはホールを借りて、リハーサルも主導した。
ギルと音楽作りをするおかげで、オレは作曲への興味が増した。
曲を書いてはギルの家へ行ってピアノで彼に聴かせたものだ。
ノネットのアルト・サックスについて、オレはソニー・スティットを起用したかった。
サウンドがバードに似ていたからだ。
だがジェリー・マリガンは、もっと軽いサウンドのリー・コニッツを使いたがった。
ジェリーは、リー・コニッツの音がバンドの音を新鮮にする大切な要素と考えていた。
で、オレはジェリーの意見に従ってリーを雇った。
トロンボーンはJJジョンソンに加わってほしかったが、JJはイリノイ・ジャケーとツアー中だったから、オレよりも若いマイケル・ツワーリンを雇った。
黒人ミュージシャンたちは、「自分たちが仕事を探して困っているのに、マイルスは白人ミュージシャンを雇っている」と言って、オレを非難した。
(※ジェリー・マリガンやリー・コニッツは白人である)
で、オレは言ってやった。
「リーみたいにすばらしい演奏ができるなら、緑色の肌で赤い息を吐いてようが、オレは使うぜ」
これで、たいていの奴は引き下がったが、まだ文句を言う奴もいた。
プロデューサーのモンティ・ケイは、このノネットを2週間『ロイヤル・ルースト』に出演させた。
カウント・ベイシー楽団の前座として、1948年の8月下旬から9月にかけてだった。
編曲はジェリー・マリガン、ギル・エバンス、ジョン・ルイスが担当したが、実験的なサウンドだったから、ほとんどの客は不思議に感じたようだ。
でも一緒だったカウント・ベイシーは、「スローで不思議だけど、とてもすばらしいよ」と言ってくれた。
聴きに来たミュージシャンたちも、バードを含めて皆が気に入ってくれた。
中でもキャピトル・レコードで働くピート・ルゴロは興奮し、「録音してレコードとして発売しよう」と言ってきた。
その後、(1948年の)9月末にオレは、リー・コニッツ、ジョン・ルイス、アル・マッキボン、ケニー・ハグッド、マックス・ローチと共に、『ロイヤル・ルースト』に出演した。
この時の演奏は、ラジオ放送されて音が残っている。
このメンバーでやったのは1度だけだが、すばらしいグループだった。特にマックスのプレイが凄かった。
🔵ノネットでアルバム『クールの誕生』をつくる
キャピトル・レコードで作られた『クールの誕生』というアルバムは、オレたちがつくったノネット(九重奏団)を3回レコーディングして作られたものだ。
クロード・ソーンヒル楽団みたいなサウンドを目指したんだが、オレはソプラノ、アルト、バリトン、バスという四声の小編成でやるべきと言ったんだ。
オレはこのグループを合唱団のように考えていた。4声部の合唱団だ。
でも結局、もっと管楽器が加わった。
オレのトランペットがソプラノのパートを受け持ち、リー・コニッツがアルト、フレンチ・ホルンなどがバリトン、バス・チューバがバスを受け持った。
バリトン・サックスには、バリトン声部などを自由に受け持たせた。
多くの連中はバリトン・サックスをバス声部に配置するが、バリトン・サックスはチューバみたいな根底部を支える楽器ではない。
だからジェリー・マリガンの吹くバリトン・サックスは、リーと重複したり、オレと重複したり、バス・チューバを吹くビル・バーバーと重なったりした。
1949年1月に、1回目の録音をした。
マイケル・ツワーリンは大学生活に戻ったから、トロンボーンはカイ・ウインディングに代わった。
この日は「ジェル」、「ムーブ」、「ゴッドチャイルド」、「バドウ」の4曲をレコーディングしたが、スムースに進行した。
その後、49年4月と50年3月にも録音した。
メンバーは代わっていき、全3回の録音に全て参加したのは、オレ、ジェリー・マリガン、リー・コニッツ、ビル・バーバーの4人だけだった。
発売された『クールの誕生』は、バードとディズの音楽(ビバップ)に対する反動として支持されたらしい。
ビバップはやたらと速く、分かりの良い奴じゃないと理解できなかった。
ビバップはスイートじゃないし、口ずさめるメロディもなかった。
それに対しクールの誕生は、口ずさめたし、ビバップとはかなり違っていた。
でも『クールの誕生』は、黒人音楽に根差しているんだ。
オレたちはクロード・ソーンヒル楽団みたいなサウンドを目指したが、あれは元々はデューク・エリントンとフレッチャー・ヘンダーソン(2人共に黒人)が作り出したものだ。
デューク・エリントンと、(エリントン楽団のアレンジャーの)ビリー・ストレイホーンは、オレたちが『クールの誕生』でやったコードの高声部での重複をよく使っていた。
デュークのバンドは、メンバーの皆が独自のサウンドを持っていた。
彼らの個性的なサウンドが、1つのコードの中に注ぎ込まれていた。
それがオレ達が『クールの誕生』でやった事だ。
ビバップは完全に真っ黒な音楽だから、白人連中には理解できなかった。
だが『クールの誕生』は口ずさめて白人にも理解しやすく、バンドに白人も入っていた。
だから白人の批評家たちのお気に召したんだ。
それがあんなに成功した(批評家に高く評価された)理由だろう。
🔵ギル・エバンスについて
『クールの誕生』をつくっていた当時、オレはギル・エバンスのアパート(住み家)にしょっちゅう行って、彼と話していた。
ギルは他の奴には絶対できない見方ができる、一緒にいて嬉しくなる奴だった。
彼と一緒にレコードを聴いていると、「マイルス、ここのチェロを聴いてごらん。他にどんな弾き方ができると思うかい?」などと言うんで、オレは常に考えさせられた。
彼は普通の人が聴き取れないことを引き出してくるんだ。
ギルは思索家で、そこがオレは好きだった。
当時のギルは、オレの入ったバード(チャーリー・パーカー)のバンドをよく聴きに来たが、めちゃくちゃおしゃれなスーツに身を固めた黒人ミュージシャンが集まるニューヨークの52丁目なのに、あいつは野球帽だった。
たいした白人野郎だった。
ギルの自宅はミュージシャンの溜まり場になっていて、多くのミュージシャンが訪れて音楽について議論していた。
ギルは面倒見が良く、音楽やアレンジについて教えてくれるから、オレ達は彼といるのが大好きだった。