ニール
自己との友情はあると思っていました。私は自分が大好きですから!
私には、大きなエゴがあります。
神
大きなエゴは、自分が好きな印ではない。逆だよ。
人が「自慢」したり「見せびらかしたり」したら、自分の何がそんなに嫌いで、どう人に好意を持ってもらいたがっているのだろう、という疑問が湧くね。
ニール
うわぁ、傷つくな。
神
つらい観察は、大抵が真実なんだよ。
真の自己愛は、エゴを肥大させるのではなく、消滅させる。
自分を知れば知るほど、エゴは小さくなる。
真の自分を知れば、エゴは完全に消えて無くなる。
ニール
エゴとは、自己の意識ではないのですか?
神
エゴとは、「自分が考えている自分」だ。
『真の自分』とは何の関係も無い。
ニール
あなたは以前に、「エゴを持つのは構わない」と言いました。
エゴを持つのは良いのですか? 良くないのですか?
神
これを説明するには、宇宙(相対性の領域)の説明が必要だ。
あなた方が『相対性の領域・宇宙』に入ったのは、「真の自分」を経験するためだ。
『絶対の領域・死後の世界』では、「自分ではない面」が無いため、真の自分を経験できない。
『絶対の領域』には、段階が無い。
段階があるのは、相対性の中だけだ。
『相対性の領域』は、「すばらしい自己を体験的に知るため」に創り出された。
「全てと一体である」というすばらしさは(自分がすべてと一体になるという素晴らしい体験は)、『全てが一体である絶対の領域』では経験できない。
「全てと一体ではない・ばらばらだ」という感覚や体験は、幻想だ。
その幻想のために、『相対性の領域・宇宙』が創り出されたのだ。
『相対性の領域・宇宙』では、見かけは真実ではない。
エゴは、この「幻想」を創り出すための、大きな道具なのだ。
ばらばらな自己を想像する事ができるための、「仕掛け」なのだ。
「全てと一体である」という体験をするための道具としてエゴを持つ事は、良い事だ。
だが大きすぎるエゴは、ばらばらな自己(幻想)しか見えなくなる。
そうすると、「全てと一体である」という体験をするチャンスは失われ、幻想の世界で迷子になり、迷ったままで沢山の生涯を重ねなければならなくなる。
『救済』とは、その迷いから連れ戻す事だ。
エゴは、道具として使うなら良いことだ。
あなた方は、ばらばらだという幻想に飽きたら、私の元へ(全ては一体であるという認識へ)戻りたくなる。
(『神との友情・上巻』から抜粋)