「安倍政権を見極める」シリーズでは、今までは私の心に響いた記事の紹介をしてきました。
今回は趣きを変えて、安倍首相が題目として掲げている「頑張る人が報われる社会」について、私なりの考察をしようと思います。
「頑張る人が報われる社会」というと、パッとした印象では素晴らしいものに思えます。
公平で平等な感じすら漂います。
しかし、本当に素晴らしいものかと言えば、そうではありません。
多くの人が、安倍晋三さんの言うこのフレーズに、インチキ臭さや息苦しさを感じています。
それはなぜなのでしょうか。
「頑張る人が報われる社会」には、2つの問題点・論点があります。
それを押さえない限り、このスローガン(施政方針)の本質は見えません。
① 頑張らない人は、どうなるのか
② 頑張っているかどうかは、誰が判断するのか
①について考えると、安倍政権は「頑張らない人は報われなくていい。頑張らない人は駄目な人間なのだから、貧しい暮らしをしても仕方ない。」と考えています。
それは、生活保護費を削減する、雇用の流動化を促進する(競争の激化と、非正規雇用の拡大化)、社会保障を抑制・削減する、といった政策を見れば明らかです。
この現実があるために、多くの人が息苦しさを感じるわけです。
『頑張らない人=ダメ人間』との図式が裏テーマとしてあり、そこに分類されると貧困生活を強いられるため、国民は強度のプレッシャーにさらされてしまうのです。
②については、じっくりと観察すれば分かりますが、頑張っているかどうかを判断・認定するのは、『日本政府および財界』となっています。
つまり、頑張り具合を判断する審査員は、一部の人々です。
これがあるから、国民は不公平さを感じ、騙されている印象を持って共感できないのです。
私は、「頑張る人が報われる社会」という考え方には、本質的な欠陥があると思います。
そもそもの疑問として、『頑張っていない人は、この世に存在するのか』があります。
多くの人は、「世の中には、頑張っている人と頑張っていない人がいる」と考えていると思います。
メディアや有識者が、この世はそういうものだと訴え続けており、それに反論する人がほとんど居ないからです。
しかし私は、『この世界には、頑張っていない人は存在しない』と考えます。
これが、私が数十年にわたって多くの人々を観察してきた結論です。
ぱっと見ると頑張っていないように見えても、その人をよく知ると、何かには真剣に打ち込んでいるものです。
何に対しても熱意の無い人は、存在していません。
たまには、何にも情熱を持っていないように感じられる人もいますが、そういう人は「何に対しても夢中にならないこと」を頑張っているのです。
だらだらと目的をもたずに過ごすのは、1日くらいならば楽しいものですが、数日も続くと完全に厭きてきます。
その状態を長い期間にわたって続けられるなんて、努力をしなければ出来ませんよ。
今の日本では、頑張っているかどうかの基準が極めて狭く、そのために社会がおかしな事に なっています。
たとえば、次の例を考えてみましょう。
① 身体に障害を抱えており、一生懸命に働いているのだが、普通の人の半分しか仕事量をこなせない
② 50歳で突然にリストラに遭い、新しい職場を何とか見つけて働き出したが、なかなか慣れずに他の人の半分しか仕事量をこなせない。
このような場合、今の日本社会だと「仕事をきちんとこなしていないので、お前は頑張っていない」と判定されます。
しかし、本当に頑張っていないのでしょうか?
むしろ、普通の人よりも頑張っているのではないか?
『路上生活者』についても、言及しましょう。
ほとんどの人が「あいつは頑張っていない。ダメ人間の見本だ。」と考えていると思います。
でも私は、彼らの生活ぶりを見ていて、どうしてもそのようには思えないのです。
真冬の寒い外で、テントやダンボールでしのぎつつ暮らすなんて、頑張らないと出来ないと思います。
「自分に出来るだろうか」と問いかけたとき、「俺には出来ない」と思います。
それをしている彼らには、むしろ尊敬の念をおぼえますよ。
私は、彼らを『昔の人類の生活の過酷さを、現代人に見せて教えてくれる人々』と認識しています。
シンプルな生活をして模範を示す仏僧に近いニュアンスで、彼らを見ています。
細かく色々な事例を考えていくと、「頑張る人が報われる社会」というスローガンが非常に薄っぺらいものだと気付きます。
皆が頑張っているのに、そのうち特定の頑張りだけを評価して、それ以外を否定するなんて発想が幼稚です。
そもそも、他人に対して一方的に評価を下して、誰かに「お前は頑張っていない」と宣告するなんて、傲慢ですよ。
私は安倍さんに、
「じゃあ、お前は頑張っているのか。
国民の過半数は、原発再稼働に反対しているし、集団的自衛権にも反対している。
それなのに強行しようとするなんて、首相としての仕事をきちんとしておらず、頑張っていないんじゃないか?」
と言いたいくらいです。
安倍さんは、必ず「俺は頑張っている、一生懸命に仕事をしている。」と反論するでしょう。
その意見は正しい。
誰もが、自分なりに一生懸命に生きており、自分なりの仕事を真剣にしているのです。
結局のところ、頑張っているかどうかは、判断する人の価値観によるんですよ。
例えば、サッカー選手で考えてみましょう。
多くの人は数億円の年棒を稼ぐプロサッカー選手に対しては、「あの人は、とても頑張っている」と評するでしょう。
しかし、サッカーに好意を持たない人や完全に無関心な人は、「たかが球蹴りだろ。あんなものに打ち込むなんて、バカじゃないか。人生を無駄に過ごしている。そんなものに数億円の年棒を払うなんて、気が狂っているな。」と評するはずです。
また、けん玉に人生をかけて打ち込んでいる人についても、考えてみましょう。
けん玉に興味の無い大半の人は、「もっとマシな事をやればいいのに。無駄な事をしているなー。」と感じるでしょう。
でも、けん玉が好きな人にとっては、英雄的な行為に見えます。
このように、努力を認められるかどうかは(頑張っているかどうかの判断基準は)、その人の感性しだいなのです。
共通のルールなど、存在しません。
そして、大きな視点に立つと、全員が何かについて頑張っている事に気付きます。
話のまとめに入りますが、安倍政権がしている事の本質は、頑張る人を支援する事ではありません。
そうではなく、自分たちで評価基準を作り、それに国民を当てはめてあれこれと評価を下すことで、自分たちに都合の良い社会を作ろうとしているのです。
安倍さんや財界が言う「頑張っている人」とは、「言いなりになって、逆らわずに黙々と働く人」を指しています。
権力に忠実で、どんな要求でも我慢し続けるタイプを、「あいつは頑張っている、出来るタイプだ」と評価しようとしているに過ぎません。
多様な生き方や多様な価値観を受け入れられる事こそが、大人の条件です。
頑張っているかどうかと、他人をいちいち監視して判定するのは、幼稚な社会であり、日本が目指す方向ではありません。
政府は、どんな生き方をする人でも最低限の生活が保障されるような、生活保障の仕組みを作ればいいのです。
それこそが、豊かな社会です。
色んな人がいるんですよ。
頑張っていないように見える人もいるでしょうが、そういう人も自分の世界観を持っていて、自分なりに頑張っているのです。
それに対して他人がとやかく言うものじゃありません。
(2015年2月18~19日に作成)