(以下は、ハーバービジネス・オンライン『草の根保守の蠢動』から抜粋)
安倍晋三・内閣の閣僚の多数が参加している、右翼団体の「日本会議」。
日本会議は、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の2団体が合併して設立された。
両団体の設立には、椛島有三が率いる「日本青年協議会」が事務局として参画した。
日本会議とその周辺団体は、靖国神社に強くこだわる。
なぜなのだろうか。
日本が1945年に敗戦すると、GHQは「神道指令」と呼ばれる覚書を、45年12月15日に日本政府と締結した。
これにより、政府機関であった神祇院が廃止され、各地の神社が国家との繋がりを失った。
さらに45年12月28日には、「宗教法人令」が公布された。
この法令では、戦前の「宗教法」が定めていた文部大臣による宗教団体の許認可と監督権限を、廃止した。
届け出れば誰でも自由に宗教団体として活動できることになり、各地の神社やキリスト教などの団体と並列の存在になった。
翌46年の1月1日には、天皇の「人間宣言」が出て、神権政治は完全に否定された。
同年11月に公布された新憲法では、明確に政教分離の原則が掲げられた。
この一連のプロセスにより、『国家神道の制度』は解体し、靖国神社も国との繋がりを完全に失った。
この後、靖国神社や戦没者の遺族は、再び国と靖国神社の結びつきを構築しようとした。
そして、「靖国神社国家護持法」の制定を求める運動を始めた。
だが、この法案は国会提出にこぎつけなかった。
原因は、宗教界からの反発だった。
この法案に、『戦前の国家神道体制と宗教弾圧』を嗅ぎとった宗教界は、教派を問わず抗議運動をした。
この状況の中、自民党は、靖国神社の創立100周年にあたる1969年に、ついに「靖国神社国家護持法案」を国会提出した。
この法案では、靖国神社の宗教性を薄めて、宗教法人から特殊法人に変える条件があった。
すると今度は、靖国神社と神社本庁が、法案に反対を表明した。
彼らは、「宗教としての国家護持」にこだわったのだ。
この姿勢は物議をかもし、「彼らの狙いは政教一致の再現だ」と気付いた左翼勢力も反対運動に加わった。
かくして、この法案は廃案を重ねて、1973年を最後に国会提出されなくなった。
この失敗に懲りた神社本庁・靖国神社・日本遺族会は、1976年に「英霊にこたえる会」を結成し、方針を「首相や閣僚の公式参拝」に切り替えた。
「英霊にこたえる会」は、2015年現在も日本会議の有力メンバーである。
1980年代になると、靖国神社には「A級戦犯の合祀」という新たな要素が加わった。
しかし、日本会議の来歴を考えると、A級戦犯合祀よりも、宗教性を保ったまま靖国で慰霊行事をするほうが重要なのではないか。
こう考えると、衛藤晟一や有村治子などの日本会議に属する議員が、靖国参拝に見せる情熱も理解できる。
靖国参拝では、「首相が公式参拝するのが問題視されたのは、A級戦犯合祀が理由だ。中韓の反発が原因だ。」と主張する保守派がいる。
だが、「靖国神社国家護持法案」に関する紆余曲折の過程で、政教一致を目指していると露見したことから、初めて首相の公式参拝が問題視されたのだ。
(2016年3月22日に作成)