(以下は、ハーバービジネス・オンライン『草の根保守の蠢動』から抜粋)
安倍晋三のブレーンをつとめる、伊藤哲夫。
伊藤は、『日本政策研究センター』の代表をしている。
彼は、一部からは「安倍政権の生みの親」と言われている。
2013年1月の文藝春秋は、「安倍政権の命運を握る『新・四人組』」と題する記事をのせた。
ここでは、「今や安倍の有力なブレーンとなっている日本政策研究センターの伊藤哲夫代表を、若き日の安倍に紹介したのも衛藤晟一だった」とある。
2006年9月9日の東京新聞朝刊に掲載された「安倍氏ブレーンどんな人?」では、こう書いている。
「6月30日に都内のホテルの一室に、下村博文・議員と4人の学識者が集まった。
4人の学識者は、伊藤哲夫、西岡力、島田洋一、八木秀次。
ここに中西輝政を加えて、『安倍のブレーン五人組』と称される。」
『日本政策研究センター』は、毎月に「明日への選択」という機関誌を発行している。
この機関誌は、安倍政権の諸政策を代弁する内容だ。
2015年7月号では、「安保法制・9条改正に対する論破のポイント」との特集記事があり、安保法制や憲法改正に関する想定問答がびっしりと書き込まれている。
伊藤哲夫は、安倍晋三をプロモートしてきた。
端的な例が、2004年8月15日に開局した「チャンネル桜」の開局記念番組に、安倍を出演させたことだろう。
出来たばかりのCSチャンネルの開局記念番組に、自民党の幹事長をつとめる安倍が出演したのだ。
異例の事態といっていい。
この番組で安倍は、伊藤からの質問に答える形で、将来の政権構想まで披瀝している。
安倍晋三は当時、当選回数がたった3回で、大臣の経験もない「若造」だったのに、幹事長に就任していた。
この前代未聞の大抜擢を行ったのは、小泉純一郎・総理だった。
小泉はこの時、自民党で長年にわたり尊重されてきた「総幹の分離原則」を無視して、同じ派閥の安倍を幹事長にした。
(総幹の分離原則とは、一派閥に権力が集中するのを防ぐために、総裁と幹事長を同じ派閥から出さないという人事上の原則です)
ある意味、安倍は「小選挙区制の申し子」といえる。
中選挙区制ならば、党内の権力バランスを無視して自派閥の若造を抜擢するのは困難だ。
公認権などの人事権を執行部が独占する、小選挙区制に特有の仕組みがあればこそ、小泉流の「サプライズ人事」ができた。
この大抜擢のわずか2年後に、安倍晋三は首相(自民党総裁)まで上りつめた。
自派閥には、中川秀直や町村信孝など、安倍よりもはるかに当選回数も閣僚経験も豊富な人材がひしめいていた。
安倍の党内権力基盤は、驚くほど脆弱だった。
それゆえに、日本会議などの一部の勢力が、安倍の周りで影響力を行使できるのだ。
安倍は、他の総理よりもつけ込み易く、右翼団体の常套手段である「上部工作」が効きやすかった。
前述したチャンネル桜の開局記念番組における、安倍と伊藤の対談は、タイトルは「改憲への精神が日本の活力源」だった。
この対談で安倍が挙げた「改憲すべき理由」は、「占領下にGHQによって作られたから」という一点に収斂される。
この意見に対し、伊藤は「今の憲法には、国民の自覚や誇りが欠落している」と同意した。
安倍も伊藤も、「新しい憲法を書き上げていく精神こそが、日本を作っていく活力になる」とか「憲法を書く行為が、日本国民の誇りをつくる」と、精神論に終始している。
具体的な話は、一切ない。
注目すべきは、対談の締めくくりである。
伊藤は、「改憲をするには、ある種の革命が求められているんじゃないか。そういう保守革命を担うリーダーは、安倍幹事長でなくてはならないと、私どもは思っています。」と最大限のエールを送った。
安倍は何の臆面もなく、「私もそういうリーダーたりえたい」と応じている。
そして、2人で「保守革命へ邁進する」と誓い合うところで、対談は終了した。
この対談から11年が経ち、いま安倍晋三は再び総理の座にいる。
2014年の夏には、集団的自衛権を合憲とする閣議決定を行い、憲法を骨抜きにした。
改憲と保守革命に突き進む安倍の後ろには、伊藤が言う「私ども」が控えている。
一般のメディアでは、伊藤哲夫が代表を務める『日本政策研究センター』の名前は、ほぼ登場しない。
だが、安倍政権に隠然たる影響力を行使している。
日本政策研究センターの主張内容を見ていこう。
同センターの機関誌「明日への選択」の2004年5月号では、伊藤本人が「この二十年、われらは何を主張してきたか」という小論を発表している。
この小論では、設立当初の目標は「国家の精神的基礎に焦点をあてた研究を行い、そこから政策の提言をする」だったという。
そしてこの目標の下、「皇位継承で伝統の神道的儀式をそのまま維持できるかは、国家の基礎に関わる問題である」として、色々な運動に取り組むようになった。
転機は、『細川内閣の誕生』だった。
伊藤哲夫は、こう分析している。
「この頃から、中韓の反日論が明確な形をとり始め、これにクリントン大統領のアメリカが連携した。
世界の左翼勢力が、共通の歴史認識だの、子供の人権尊重や女性差別の撤廃だのをスローガンにして、国際的な運動を始めた。
その路線が国内に伝播し、細川首相による『戦争の反省』『過去の清算』の大合唱につながり、一連の国内政策が開始された。」
これに対抗するため、伊藤らは「歴史認識」「夫婦別姓への反対」「従軍慰安婦の否定」「反ジェンダーフリー」の4点に集中するようになった。
そして近年では、「次から次へと生起する左翼勢力の仕掛けに、受動的に振り回されるのではなく、むしろこちらから攻勢的に戦いを仕掛けるべき時にきている」との認識になった。
この認識の下、『保守革命』というテーゼに集約することにした。
この小論が発表されたのは、伊藤哲夫と安倍晋三の対談のわずか5ヵ月前だ。
対談で語られた「保守革命」とは、つまるところ「歴史認識」「夫婦別姓への反対」「従軍慰安婦の否定」「反ジェンダーフリー」の4つなのだ。
これを理解すると、安倍政権が「反動」の色彩を強めているのも頷ける。
さらに、アメリカ・カリフォルニア州のグレンデール市に設置された従軍慰安婦像の撤去を求める訴訟の原告団について、菅義偉・官房長官が「日本政府は、原告団と緊密に連携をとっている」との異例の言及を行ったのも理解できる。
伊藤哲夫らが注力する4つの闘争は、安倍内閣のメインテーマなのだ。
だからこそ、たかだか海外の訴訟原告団にすぎないものに対して、「緊密に連携をとっている」と表明する。
そうして、「女性が輝く」という曖昧な言葉でお茶をにごし、「男女の共同参画」「女性差別の撤廃」から目を背け続けている。
『日本政策研究センター』は、「保守革命」の路線を流布するために、多数の書籍を出版している。
さらに、セミナーも頻繁に開催している。
2015年8月2日に、第4回の首都圏セミナーが開催された。
参加者は100名ほどで、参加者の提供してくれたレジュメ(要旨の印刷)を見ると、憲法改正の内容と手順が克明に記載されていた。
レジュメで示された「憲法改正のポイント」は、以下の3つだ。
① 緊急事態条項の追加
非常事態に際して、三権分立や基本的人権などを無効化し、総理大臣に独裁権限を与える
② 家族保護条項の追加
憲法13条の「すべての国民は、個人として尊重される」と、24条の「個人の尊厳」を削除する
そして、新たに「家族保護の条項」を加える
③ 自衛隊の国軍化
9条2項を変えて、明確に戦力の保持を認める
注目すべきは、順番だ。
セミナー参加者は、「最もウェイトを置いて語られたのは、緊急事態条項の箇所でした」と語ってくれた。
この考え方は、自民党の憲法改正推進本部と一致している。
改憲は、「緊急事態条項→家族保護条項→自衛隊の国軍化」の順番で来る可能性が極めて高い。
セミナー参加者は、「さらにその先がある。会場で驚くべき発言があった」と言う。
質疑応答のコーナーで、1人の男性がこう質問した。
「改憲の優先順位は分かったし、緊急事態条項の追加などは合意も得やすいと思う。
しかし我々は、何十年も明治憲法の復元に運動してきた。
この話を、周りの人間にどう説明すればいいのか。」
日本政策研究センターの回答は、こうだ。
「もちろん、最終的な目標は明治憲法の復元にある。
しかし、いきなり合意を得ることは難しい。
だから合意を得やすい条項から、憲法改正を積み重ねていくのだ。」
彼らは、『明治憲法の復元』を目指している。
伊藤哲夫の著書に、「憲法はかくして作られた」がある。
出版は2007年の11月。
この小冊子と、書名も副題も目次も全く同じものが、1980年の11月に発行されている。
編者は、「生長の家・本部政治局」だ。
これが物語るのは、「伊藤哲夫は、生長の家・本部政治局が出版したものを、そのままの形で27年後に自己名義で再出版している」という事だ。
上記のセミナーで質問者が、「我々は何十年も運動してきた」と発言したのを、考えていただきたい。
質問者が発した「我々」とは、「生長の家」の政治運動のことではないか?
そうだとすると、伊藤哲夫(日本政策研究センター)と椛島有三(日本会議および日本青年協議会)は関係がある事になる。
伊藤哲夫のプロフィールは、日本政策研究センターのウェブサイトにある。
それによると、大卒後に国会議員の政策スタッフを経験し、39歳で日本政策研究センターを設立したことになっている。
だが、これはおかしい。
日本政策研究センターが設立されたのは1984年だが、国会議員の政策担当秘書の制度ができたのは1993年だからだ。
伊藤が同センターを設立した年は、生長の家が突如として政治活動を停止した1983年10月の直後だ。
これを考えると、伊藤は生長の家が政治運動から撤退したのを契機に、同センターを設立したとも見える。
1984年以前の生長の家の資料に、伊藤の痕跡を探してみた。
すると、生長の家の機関誌の1つである「理想世界」の1976年11月号に、伊藤が出ていた。
当時の伊藤の肩書きは、「中央教育宣伝部長」である。
彼は、関係者どころか、教団の幹部だったのだ。
今や伊藤は、安倍晋三・首相の筆頭ブレーンと云われている。
すなわち、「安倍首相の筆頭ブレーンは、元『生長の家の幹部』」だ。
日本会議も日本青年協議会も、「生長の家」の学生運動からスタートしている。
という事は、安倍政権を支える人々は、『生長の家の政治運動』と切っても切れない関係にある。
これは、由々しき事態という他ない。
安倍政権は、特殊な思想を持った少数の「サークル」の影響下にあるわけで、国難といってもいい状況だ。
(2016年3月25日に作成)