(以下は、ハーバービジネス・オンライン『草の根保守の蠢動』から抜粋)
日本会議が開催するイベントは、参加者の平均年齢は60代後半~70前後だ。
だが、イベントのスタッフは若い。
スーツ姿で黙々と作業をする彼らの中には、大学生にしか見えない男女もいる。
日本会議が裏方を担った2015年11月10日の「今こそ憲法改正を! 武道館一万人大会」では、スタッフの総数は100人前後だった。
そのうちの1人に、「君達は椛島さんとこの、日本青年協議会の人たちなの?」と問うと、「はい、そうです」と答えてくれた。
顔をのぞき込むと、泣きそうな顔をしている。
どうやら他言せぬように言い含められているらしい。
日本青年協議会と日本会議は、同じビルの同じフロアに本部がある。
日本青年協議会こそが、日本会議のコアである。
日本青年協議会は、どのようにして学生スタッフを集めているのだろうか。
同会は、「反憲学連」と「全日本学生文化会議」という学生組織を持っている。
「反憲学連」は、武装して左翼学生運動を襲撃する武闘派だが、1990年代以降は活動が確認されていない。
「全日本学生文化会議」は、読書会や勉強会を行う文教路線だが、活動は活発ではない。
となると、どうやって学生たちをオルグする(勧誘して構成員にする)のだろうか?
早瀬善彦(33歳)は、日本青年協議会のオルグの実態を告白する手記を発表している。
彼に会い、話を聞いた。
早瀬氏
「日本青年協議会とか全然、知らんかったんですよ。
高校2年生ぐらいの時に、渡辺昇一とか谷沢永一の対談本みたいのを読み、感化というか染まっちゃったんです。
『サピオ』とか『正論』とかを読んで、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言』とかにハマッていきました。」
彼は大学受験に失敗し、浪人の道を選んだ。
彼が浪人生活をスタートさせた2001年4月は、小泉政権が誕生した時期だった。
早瀬氏
「生まれたばかりの小泉内閣に関して、保守論壇が一番こだわったのは靖国参拝でした。
小泉さんが靖国に行くって言い出したんで。
『小泉首相は8月15日に靖国に行くべきだ』との議論が白熱する中、『正論』に広告があったんです。
小泉首相と一緒に靖国神社に参拝しよう、と。
私はすぐに申し込んだのです。」
調べたところ、広告が掲載されていたのは『正論』2001年9月号の203ページだった。
イベント事務局の住所は、日本青年協議会および日本会議の本部の所在地である。
しかし、両団体の名前は出ていない。
早瀬氏
「でもね、小泉さんは結局、8月13日に参拝しちゃった。
だから15日に行く意味は無くなったが、すでに親から金を出してもらっているし、同世代の友達も欲しかったし、行くことにしました。
でも行ってみたら、学生は2~3人しかおらんのです。
大人ばかりで、団体名をしつこく聞いたら『日本青年協議会』と名乗りました。」
この名前を聞いても、当時の早瀬少年は何も感じなかった。
その後、皆で靖国参拝した。
早瀬氏
「参拝が終わったあと、直会(打ち上げ)がありました。
彼らがいつも使うセミナー・ハウスで。
帰る時に、『関西にいるんだったら、僕達の仲間は関西でもサークル活動をしてるから、大学に受かったら参加すればいいよ』と言われた。
そのサークルが、『学生文化会議』だったんです。」
彼はその後、2002年4月に同志社大学に入学し、さっそく全日本学生文化会議の門を叩いた。
(上記のとおり、この団体は日本青年協議会の下部組織です)
早瀬氏
「最初に誘われたのは5月ぐらいで、『京都に来る天皇陛下をお迎えに行こう』という活動でした。
(天皇の車が通る沿道には、日の丸の小旗を持った市民が集まるが)その時に言われたんです。
『あの小旗の配布は、僕達がやってるんだよ』と。」
彼の証言は、これまで集めてきた元関係者たちの証言と一致する。
ほとんどの場合、小旗を配布しているのは日本会議/日本青年協議会である。
この後、早瀬氏はさまざまな合宿や勉強会に誘われ始めた。
輪読会で使用されたテキストは、小柳陽太郎の「教育から消えた『物を見る目、歴史を見る目』」だった。
早瀬氏
「情念ばかりなんですよ、言うことが。論理性が一切ない。
で、連中はすぐに岡潔の話をする。
でもあの人は、まずちゃんとした数学者としての思考があるから、情念だって言えるわけで。
ちゃんとした本が読みたかったんですよ、トクビルとか。
左翼を批判するのなら、ちゃんとマルクスも読みたかった。
だから、『ここは変だな』と思い始めました。」
この輪読会の前後に、早瀬氏はとある幹部から「四先生の教え」を聞かされた。
「四先生」とは、谷口雅春、三島由紀夫、小田村寅二郎、葦津珍彦の4名だった。
彼が奇異に思ったのは、「これは、中に入った人にしか教えないんだけどね」との前置きがあった事だ。
「誰にも口外してはいけない」とも言われたという。
夏休みに入ると、大規模な合宿にも早瀬氏は誘われた。
講師は名越二荒之助や多久善郎だった。
多久は、日本青年協議会の理事長である。
早瀬氏
「話の内容は、『東南アジアの人々は日本に感謝している』とか、そんなんばっか。
話の後は、反省会をするんです。
それで、「内観」とかやらされる。
瞑想みたいなことをして、自分自身を反芻しろと。
その後、不思議な儀式が始まりました。
神職の方が来て、神道の儀式をするんです。
ヒトガタを作ってね、それに息吹きをさせられたり。」
この頃から、早瀬氏は「ああ、これは宗教なんだな」と気付くようになった。
彼はサークルから抜け出せないまま、秋に鹿児島での合宿にも参加した。
早瀬氏
「この合宿は、むちゃくちゃ参加者が多かった。
長崎大学の人とか。」
日本会議/日本青年協議会の源は、1968年の長崎大学の正常化運動(右翼学生の運動)に遡る。
長崎大学は、いわば彼らの故郷だ。
早瀬氏
「今から思うと、参加者は皆、学生運動の2世・3世なんですよ。
親に言われてしぶしぶ来ている者もいた。
結局、彼らの人材の供給源は、2世・3世しかいない。
僕みたいなパターンは異端なんでしょう。」
椛島有三(日本会議の事務総長で、日本青年協議会の会長)の娘である椛島明実も、全日本学生文化会議に所属していた事が確認されている。
早瀬氏
「合宿に来ていた長崎大学の学生で1人、ソリの合わない奴がいたんです。
そいつは『A級戦犯は無罪だと街頭演説したが、街の人からなんで無罪なの?と質問されて説明できなかった。ぜんぜん勉強が足りなかった。』という話を、自慢げにしたんです。
街宣するなら勉強してからやれと指摘したら、『知識よりも大事なことがある!』と言い出したんです。」
早瀬氏は2003年1月にも、合宿に参加した。
今度の開催地は東京で、目黒区青葉台にある日本会議/日本青年協議会の本部にも案内された。
早瀬氏
「ここが日本会議で日本青年協議会だよって、説明を受けた。
『日本青年協議会が、全部の事務をやってるんですね?』と聞いたら、『秘密だけどね』と言ってました。
同じフロアで、仕切りも何もないです。」
この東京合宿で、早瀬氏はようやく同志と出会えた。
早瀬氏
「この時に初めて、早稲田のメンバーと会いました。
『早稲田国史研』というサークルの人達です。
全然カラーが違っていて、シュミットとかバークとか読んでいて、話が合う。
彼らとしゃべっていたら、『ここは、生長の家でしょ?』と言ってきて。
『宗教団体なんですか?』と聞いたら、『そうだよ』と。
この合宿は明治神宮の近くで、毎朝5時に起こされて儀式をやるんですよ。
で、早稲田の連中が『出なくていい』と言い、みんなでボイコットしたんです。
『こいつら気持ち悪いよな』って意気投合して、京都に帰ってからも彼らと連絡を取り続けました。」
その後、早稲田のメンバーは、サークル部室に残されている古い資料を調べた。
早瀬氏
「そうしたら、『反憲学連』とか『高橋史朗の手記』とか『ニューソート研究会』の資料が出てきて。
その資料を見た結果、『やっぱりカルトじゃん』となり、早稲田国史研は『ダミー・サークルでしかない』という理由で潰しちゃいました。」
早瀬氏は、大学2年になる頃には、さすがに全日本学生文化会議との距離を取り始めた。
人がいないため、同志社大学にあったサークルは自然消滅したという。
(※全日本学生文化会議は、その名で大学にサークルをつくることは少ない。
変名を使って、各地の大学でサークルをつくっているらしい。)
早瀬氏
「結局、OBしか居ないんです。彼らの供給源って。
昔に右翼学生運動していた連中の2世です。
九州と東京には2世は多いが、関西には居ないんです。」
これは合理的な説明だ。
これまで調べたところでも、関西の大学で彼らの運動が盛んだった話は聞かない。
早瀬氏
「話の節々が、『学生運動を忘れられない奴らが、それを続けている』ってノリなんです。
昔の『生長の家』の思想を核にしながら、「あの先輩は、左翼学生が多い時代に何々をした」という武勇伝ばかり。
「中核派と戦って」とか「あの大学の自治会を奪った」とか。
話が非常にみみっちい。日本をどうするかという話じゃない。」
嫌気がさしていた早瀬氏だが、最後に京都での合宿に参加した。
早瀬氏
「この合宿では、『常に天皇陛下がどう考えておられるかを考えながら、生活しろ』という話ばかりで、辟易しました。」
早瀬氏が見た内部文書には、次の裏カリキュラムが記載されていたという。
「1年目には、四先生の教えを徹底させる。
2年目には、天皇信仰を徹底させる。
3年目は総仕上げとして、谷口雅春の教えを植え付ける。」
このカリキュラム通りに、2年生になろうとする早瀬氏に「天皇信仰の徹底」をやり始めたのだ。
我慢の限界にきていた早瀬氏は、造反を決意した。
早瀬氏
「京大の農学部を出て、日本青年協議会に入った人がいたんです。
その人が、天皇天皇とあまりにうるさいから、『天皇陛下がサリンを撒けと言ったら、皆さんはサリンを撒くんですか?』と尋ねたんです。
そうしたら、頭を抱えて悩み出したんですよ。
「うー」とか唸って。
2時間ぐらい唸りながら考えている。
僕は笑いながら見てました、アホだなあと。」
この爆弾発言は問題になり、彼はめでたく全日本学生文化会議から追放された。
早瀬氏
「本当に、カルトなんですよ。
谷口雅春(生長の家の創始者)の名前は事あるごとに出るが、「内緒だよ」とか「他の人には言ってはいけない」と口止めされる。
彼らは正体を隠している。
それに彼らは、本体の『生長の家』とは違う。(生長の家から脱退した者達である)
だからなおさら正体が掴めない。」
早瀬氏のようにすっぱり抜けられない人は、ずるずると日本会議/日本青年協議会のスタッフとして活動していくのだろう。
(2016年5月16&18日に作成)