(以下は、ハーバービジネス・オンライン『草の根保守の蠢動』から抜粋)
日本会議/日本青年協議会とその周辺の人々の運動は、1970年の安保闘争の時代にスタートした。
あの頃から50年近くの歳月が流れているが、彼らは未だに同志の紐帯を維持している。
彼らの敵であった左翼学生運動が元の姿を留めていないのと、好対照である。
なぜ、こんな事が可能なのか?
彼らの一体感はどこから生まれるのか?
一般的な答えは、「生長の家の創始者である、谷口雅春への帰依」だろう。
だが、谷口は1985年に亡くなっている。
それに谷口は、1978年には半ば隠遁生活に入った。
そして教団の実権は谷口の娘婿である谷口清超に移った。
確かに谷口雅春は大量の著作を残したが、テキストがあれば皆の足並みが揃うものではない。
それは、マルクスの著作の解釈で内ゲバを繰り返してきた、マルキストの歴史が雄弁に語っている。
谷口雅春の存在だけでは、全てを解説できない。
つまり、カリスマを持った人物が、運動の中心にいるはずだ。
日本青年協議会の会長をつとめる椛島有三が、そのカリスマを持った人物なのだろうか?
しかし彼は、能吏としての実直さが特徴で、「村役場の役人」と評されている。
日本政策研究センターの代表である伊藤哲夫も、政策立案や批評活動に特化した「論の人」にすぎない。
谷口雅春先生を学ぶ会の代表をつとめる中島省治も、運動に参加したのは2002年頃だから、候補者から外れる。
彼ら以外に、誰か居る。
でなければ、彼らの綿密な連携と、長年にわたって維持してきたモチベーションの説明がつかない。
その人物を突き止めるには、運動のスタート時点に戻るしかない。
手元に「九州学協 嵐の69年 その戦いの記録」と題されたパンフレットがある。
彼らの運動のごく初期のパンフレットだが、執行部の委員長は椛島有三で、副委員長は衛藤晟一である。
これは九州学協が結成されて2周年の記念パンフレットで、その前身の長崎大学の正常化運動からは時間が経っている。
長崎県立図書館にこもり、長崎大学の学園紛争の記事を拾い出してみた。
すると、気になる記事を見つけた。「新局面を迎えた長大紛争」という西日本新聞の1967年5月の記事だ。
ここで、「スト打破」側の代表として意見を述べているのは、『学生協議会・初代議長 教育学部四年 安東巌』だ。
椛島の以前に、学生協議会の代表をつとめた人物がいたのだ。
安東巌は、その後に『生長の家』で出世していく。
生長の家の青年会の機関紙「理想世界」の1976年11月号を読むと、安東は青年会の副会長になっている。
当時の彼の部下には、伊藤哲夫がいた。
安東を知る人々に、「安東こそが、椛島や伊藤を従える中心人物に見えて仕方がない」との疑問をぶつけてみた。
すると、「安東はね、そんな生易しいもんじゃない」とか「安東はね、怖いんだよ。オレは話さないよ」との答えが返ってきた。
椛島有三らは、長崎大学の学園正常化(左翼学生の駆逐)に成功して、その運動を母体にして「全国学協」が結成された。
そして全国学協の社会人組織として、「日本青年協議会」が設立された。
設立日は1970年11月3日だが、そのわずか20日後に『三島事件』が起きている。
この事件は、椛島ら民族派学生に衝撃を与えた。
「あんなにバカにしていた連中が、誰にもできないような事をしよった!」という衝撃だ。
この事件が起きるまで、右翼学生たちは、三島由紀夫と「楯の会」をバカにしていた。
楯の会は、きれいな軍服で着飾り、自衛隊に体験入隊したり、平凡パンチに出てみたりと、ミーハーな事ばかりしていた。
学生運動の現場で左翼学生と闘争をくり返している、民族派の学生たちならば、バカにしたのも自然だろう。
民族派学生の2大セクトである日学同と全国学協から落ちこぼれた連中が、楯の会に流れる、そんな雰囲気が当時はあった。
三島事件の裁判において、日学同・全国学協が必死になって裁判支援をしたのは、せめてもの罪滅ぼしだったのだろう。
しかし、単なる威力業務妨害事件・監禁傷害事件として、司法の場で片付けられてしまった。
こうした中で、全国学協と日本青年協議会は、対立するようになった。
対立は激化し、ついに全国学協は自身の社会人組織である日本青年協議会を除名するに至った。
この後、日本青年協議会が自前の学生運動組織として立ち上げたのが、『反憲法学生委員会の全国連合(反憲学連)』だ。
反憲学連は1974年3月に結成され、左翼学生と苛烈なゲバルトを展開していく。
彼らは論理武装の充実も目指し、盛んに合宿などを開いて組織員の教育にあたった。
昭和53年(1978年)のテキストでは、編集にあたったスタッフの名前が出ている。
そのスタッフは、9名中で7人までもが、今でも現役で日本会議の運動に従事している。
「谷口雅春先生を学ぶ会」の副代表をつとめる前原幸博、日本会議岐阜の専務理事をつとめる馬淵雅宣が、入っている。
彼らの運動は、現在では次の3つの組織で展開されている。
「日本会議/日本青年協議会」、「日本政策研究センター」、「谷口雅春先生を学ぶ会」。
この3つの頭目である椛島有三・伊藤哲夫・中島省治は、会社でいえば事業部長のような存在だろう。
安東巌こそが、「彼らの情熱を支え続ける存在、運動全体を見渡す立場にいる人物」だ。
村上正邦の半生を、魚住昭が聞き書きした『我、国に裏切られようとも』。
この中で村上は、こう振り返っている。
「谷口雅春先生の薫陶をうけた活動家は、たくさん居ました。
椛島さん、伊藤さん、高橋史朗さん、衛藤晟一さん、小山孝雄さん。
こうした活動家たちは、生長の家の路線変更に伴い、排除されたり自ら離脱した。
活動家たちの中でただ1人、雅宣さん(雅春の孫で、路線変更の主導者)が切れなかったのが、若手のリーダー格と目されていた安藤巌さんです。
安東さんは、病に苦しむ多くの人を信仰の力で救い、信徒の信望も篤かった。
それに彼は、雅宣さんから色々な課題を与えられても、それを見事にこなした。」
各方面を探すうちに、安東巌が書いた書籍『わが思いひたぶるに』を見つけた。
発行元は、「生長の家・青年会中央部」である。
奥付には、彼の経歴が書かれていた。
「昭和14年に佐賀県鳥栖市に生まれる。
9年間、病に臥すも、『生命の実相』に触れ、病床より決然と起ち上がる。
25歳で高校に復学し、27歳で長崎大学に入学する。
当時は学生紛争の最中にあった長崎大学の正常化を決意し、自治会の争奪を成し遂げ、連続3期も自治会を掌握する。
昭和45年に生長の家の本部青年局に奉職し、同50年に青年会の副会長、現在は政治局の政治部長。」
この書籍が出版されたのは、昭和55年(1980年)だ。
生長の家の政治活動が頂点を極めていた時期であり、その時に安東は「政治局の政治部長」だったのだ。
安東巌は、その子分たち(椛島有三ら)とは、一世代ちがう。
椛島らは皆、戦後生まれだ。
なぜ安東は、世代が1つ下の椛島たちと行動を共にするようになったのか?
安東は高校2年の時、肺動脈の狭窄症を発した。
そして病床につき、7年をすごした。
そんな彼の様子を詳細に語ったのが、谷口雅春だ。
谷口の講演カセットには、安東に言及するのが記録されている。
それによると、こうだ。
安東は病気により手足が硬直して動かなくなったが、家が貧しいので母は何もしてくれなかった。
彼は、母を恨むようになった。
安東は昭和37年に、朝日新聞に投書して、「長い病床生活を送っている皆さんと、励ましあうような会を作れないものでしょうか」と呼びかけた。
病床にありながら、「病友会」なる組織の設立を呼びかけるのは、後に「稀代のオルガナイザー」「天才的な組織人」と評されるのを彷彿とさせる。
この投書は大きな反響を呼び、励ましの手紙が安東の許にたくさん届いた。
その中に、風変わりなハガキがあった。
「病友会の結成よりも、光明会の結成こそ、貴殿の使命である」
同じ差出人から、『月刊 生長の家』も送られてきた。
安東は、生長の家の教義に魅了され、根本経典である『生命の実相』を読むようになった。
生命の実相は、「人間は神の子で、本来は病なし」と説く。
この教えを悟った途端に、病状は軽くなり上半身は動くようになった。
さらに生長の家の地方講師から指導をうけ、「親への感謝がなければ病気は癒えない」ときつく言われ、母を恨んでいたのを懺悔して感謝したところ、立ち歩けるまで回復した。
新興宗教にありがちなエピソードである。
だが、当事者の安東にとっては癒しだし、「病気治し」で信徒を獲得してきた生長の家にとっても重要な意味をもつ。
この快癒後、安東は不思議な力を得た。
「谷口雅春が、安東の体験を語った」という事実に注目したい。
現存する谷口の肉声データをほぼ聴いたが、多数の聴衆の前で谷口がフルネームで呼んだ「日本会議とその周辺団体に属する人物」は、安東だけだ。
谷口を信奉する日本会議とその周辺にとって、安東がリーダー格になるのは当然のことだろう。
安東は元気になると、昭和41年に長崎大学に進学した。
そこで、6歳年下の椛島と出会った。
その後、彼らが始めた「学園正常化の運動」は、衛藤晟一、百地章、高橋史朗といった面々を巻き込みつつ、「全国学協」に発展していく。
(2016年5月22日に作成)