(以下は、内田樹著『街場の戦争論』から抜粋)
安倍政権は、「経済成長に特化した国づくり」を目指す現代日本人の欲望をすくい上げて、高い支持率を誇っています。
でも、「成長に特化した会社経営」はあっても、「成長に特化した国家統治」はあり得ない。
この真理に、人々は気付いていない。
改憲派の政治家は、「我々は民意を受けている。文句があれば、次の選挙で落とせばいい」と言います。
これは、典型的なビジネスマンの用語法です。
政治家が口にしてよい言葉ではありません。
株式会社は、有限責任のシステムで、劇的な失敗をしても被害は「株主の出資額」を超えません。
倒産しても、経営者は「株を買ったあなた方の自己責任だ」で済む。
でも国家は違います。
無限責任の組織で、失敗(失政)したら被害は未来の人々にも影響する。
そもそも株式会社は、できる限りコストを外部化するのが本性です。
原発の話だと分かりやすいので、それで説明しましょう。
福島原発の事故後、電力会社や原発メーカーは利益を上げるため、「原発を早く再稼働させろ」と要求しました。
もし再び事故が起きたら、彼らはどうふるまうか。
「自分たちが強く要請したのだから、責任の一端は我々にある。除染や補償の費用を、我々も分担しよう」と言うでしょうか。
あるいは、「被災地にふみとどまって、地域経済を守ります」と言うでしょうか。
絶対に言いません。
日本国民を危険にさらすリスクを冒すことで、彼らは収益を上げたのですが、事故のコストは日本人に押し付けて、自分たちは責任を取らずに逃げる。
それが、株式会社の常識的なふるまいです。
株式会社は、金儲けにしか関心がないものとして、制度設計されてきた。
17世紀に株式会社というビジネスモデルが現れた時、多くの学者が「これは危険なものだ」と指摘しました。
でも、お金儲けが命よりも好きな人達は、その言葉に耳を貸さなかった。
そして、今や支配的なビジネスモデルとなり、学校も医療も宗教も株式会社に準拠して経営されるようになってきた。
しかし、株式会社をモデルにして国家を運営してはなりません。
株式会社は、マイナス成長の局面になれば、出資する人がいなくなる。
成長しないと生きていけないのです。
だから経営者の中には、「成長か死か」と語る者もいる。
「成長か死か」の論理を、国家に適用されては困る。
「成長が止まったので、国民の皆さんは死んで下さい」と宣言する人間に統治されては堪らない。
国家の目的は、成長ではなく、『国土を守り、国民を食わせること』です。
株式会社は100年後に残っていなくてもいいが、国家は100年後も存続している事を前提にしないと話が始まらない。
ですから、「成長か死か」や「失敗したら次の選挙で落とせばいい」という事を、政治家が口走ってはいけない。
いまの日本は、有権者の過半は株式会社の従業員です。
そして、彼らの勤める会社は、たぶん100年後には存在しない。
業態も10年後には変わっているかもしれない。
そういう不安定な組織を基準にして、国家制度を考えてもらっては困るのです。
今のグローバル企業は、『国土を守り、国民を食わせること』に何の義務感も感じない。
そして、雇用を確保したり、地元の育成や国庫への納税を義務と感じる企業は、コスト競争でグローバル企業に太刀打ちできない。
だから、「1円でも安いものを買う」スタイルを消費者がとるなら、良質な企業はマーケットから退場することになる。
それで構わないと思っている人達が、今の日本では政策を決定している。
何の社会的責任も果たす気がない企業が勝ち残ることを、「フェアネス」だと信じている人達が、エスタブリッシュメントを形成している。
国民から収奪しようとしている企業の利益のために、「戦争をしてもいい、権利を制約されてもいい」と考える人達が、国民の過半数に近い。
こんな生き方を採択する国民の数が、これほど多い事実に、僕はうなだれてしまうのです。
(2016年5月25日に作成)