南京大虐殺
実際にあったのは間違いない 死者数については様々な説がある

(『アジア三国志』ビル・エモット著から抜粋)

『南京大虐殺の博物館』は、日中の緊張の歴史を物語っている。

日本は中国に侵攻し、蛮行を犯した。

だから謝らなければならないし、ODAという形で巨額の補償を行ってきた。

日本政府は、日中の国交回復後に、首相や天皇などが17回以上も公に謝罪してきた。

対中国のODAは、有償無償を含めて3.6兆円に上っている。

中国の側も、は国交正常化の直後に公式の補償請求を取り下げた。

南京大虐殺は、1937年12月13日に日本軍が南京を陥落させた時から起きた。

南京大虐殺については、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられ、多数の証言・証拠が提出された。

しかし証拠には疑問もあり、裁判で判事の1人だったインド人のラダビノード・パールは、「裁判は不法である」とする反対意見を述べた。

パール判事の意見書によれば、この事件の起訴事実は次のものであった。

「南京市内に入った日本軍の兵士は、表に居る市民を無差別に射殺した。

日本軍は市を制圧すると、強姦・殺人・拷問・略奪を始めて、それが6週間も続いた。

最初の数日間で2万人以上が殺害され、6週間のうちに市内と周辺部で26~30万人が殺された。

この数字が正確であるのは、15.5万人以上の遺体を埋葬したとする慈善団体の紅卍会と崇善堂の記録が示している。

この6週間に、日本兵によって中国人女性2万人が強姦された。」

パール判事は、「この数字をそのまま認めるには無理がある」と述べた。

しかし、次のようにも述べています。

「南京における日本兵の行為は残虐であり、惨烈な蛮行が3週間におよび、6週間の残虐行為が続けられた事は否めない。」

パール判事の言葉を引用したのは、東京裁判を否定する一部の日本人にとって、彼が英雄だからである。

靖国神社の遊就館前には、「パール博士の顕彰碑」がある。

しかしながら、パール判事は南京の残虐行為を疑っていたわけではなかった。

南京大虐殺には、南京に居た外国人の証言も豊富にある。

こうした人々は、証人として信用できる。

パールは、『日本の政治指導者と、虐殺に関わった現地指導者たちの、どちらが犯罪責任を負うべきか』について、疑問を呈したのである。

虐殺された人数については、異論が多い。

慈善団体(紅卍会と崇善堂)は、埋葬した遺体の数を報告したが、この2団体に15.5万人もの遺体を埋葬する能力があったとは思えない。

中国の歴史家たちも、中国政府は30万人としているが、オフレコではその数字に首をかしげている。

死者が5万人にせよ30万人にせよ、南京でおぞましい事件があった事は間違いない。

盧溝橋にある『抗日戦争の記念館』では、日本を加害者として死んだ中国人の死傷者数を3500万人としている。

当時の中国の人口は4.5億人だったので、およそ8%にあたる。

一方、民衆殺戮の統計を専門にするR.J.ランメル教授は、日本のせいで死んだ中国人を600万人としている。

3500万人という数字は、1995年に江沢民が述べて、中国の公式の推定数になった。

東京裁判では、死者は190万人、負傷者は130万人で、合計320万人の死傷者数であった。

それが1985年には、合計2170万人まで膨れ上がった。

ランメル教授は、1928~49年に国民党軍のために死んだ中国人を、1000万人と推定している。

これには、餓死した人も含まれている。

こうした分も、日本が殺した数に入っている可能性がある。

(2014年5月27日に作成)


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