高市早苗の経歴、小泉進次郎のステマ問題(以下は『文藝春秋 2025年12月号』から抜粋
2026年7月6日に作成)
🔵高市早苗の両親の経歴
高市早苗は、父・大休と母・和子のもとで1961年3月に奈良県で生まれた。
幼少期は、父方の祖父も一緒に暮らしていた。
高市は「両親から教育勅語を暗唱させられて育った」と述べている。
高市早苗の両親は、愛媛県・松山市で育った。
大休は7人兄弟の次男。
その珍らしい名は、父・正享が寺に養子に出すつもりで付けたという。
大休の弟で松山市内に住む高市俊介(84歳)に取材したところ、こう話した。
「うちは皆、政治家が嫌いだ。兄の大休もそうだった。
母は大休が9歳の頃に亡くなり、父がワシら7人の子供を育てた。
父は湊町で呉服屋をしていた。
御木徳近というPL教団の創始者と父はつながりがあった。」
御木徳近の生まれは松山市である。
大休たちの祖父である高木轍(わだち)は、庄屋だった。
明治維新で庄屋制が廃止された後も、地元の北黒田村をわだちは仕切っていた。
俊介は言う。
「高市家の本家は、家系図を見ると昔は城主だった。
本家が言うには、その家系図を1500万円で走ってくれという人もいたらしい。
わだちは、誰かの儲け話に乗せられて、土地を全部売って九州へ行ったが、上手くいかなかった。」
本誌が取材したところ、わだちの代に高市家が没落したのは確かのようだ。
俊介は言う。
「ワシらはのんびり育てられた。父は何にも言わなかった。
そこそこの財産はあったし。」
(早苗の父である)高市大休は高卒後、機械メーカーの東久(後にトヨタ系となった)に入社した。営業畑に進んだ。
早苗の母・和子は、松山市で育ち、高卒後は愛媛県庁に勤めた。会計課で働いた。
和子は5人きょうだいの次女で、姉の子は愛媛県の宗金寺の副住職となっている。
和子は愛媛県庁から奈良県警に転職した。
大休と和子は深い仲になると、奈良県・奈良市に暮らし始めたが、大休は大阪で働いた。
一家は早苗が小3の時に、奈良市から橿原市に転居した。
橿原市は当時、急速に人口を増やしてベッドタウン化が進んでいた。
🔵高市早苗の学生時代
高市早苗は、中学はバスケ部に入った。
この中学は、早苗が2年生の夏休みまでプレハブの仮校舎だった。
仮校舎だったのは、校内暴力がすさまじくて、早苗が入学する数年前に生徒の放火で校舎が全焼していたからだ。
早苗は、高校は成績優秀者が行く、県立・畝傍高校に入った。
早苗は自著『母の教え』に、こう書いている。
「私は中学に上がったとたん、勉強をしなくなった。
高校と大学も遊び続け、母の期待を裏切った。」
別の著書では、「高1の時に音楽サークルの先輩だった大学生と交際した。大学では年下の男と交際した」と書いている。
新聞のインタビューでも、こう話している。
「高校時代は、組織になじめず、ぐれていた」 朝日新聞 1991年3月2日付
「同級生の彼と2人きりでいたくて、授業をさぼり、宿題を怠けて、成績はガタ落ちした。
職員室で教師に勉強しろ!と、顔をビンタされた。」 読売新聞 1991年7月21日付
早苗は高校時代からアルバイトを始め、大学時代はイベント・コンパニオンもした。
大学ではバント活動をし、髪にピンク色のメッシュを入れていた。
早苗は著書『30歳のバースデイ』に、こう書いている。
「大学時代、下宿先に彼氏を連れ込んだ翌日、両親が部屋に来た。
両親は宴のあとを見た。酒の空きビン、山のような煙草の吸いがら、その他もろもろ。
後日に母は、私に殴る蹴るの暴行をして、朝まで説教をした。」
だが同級生だった八木宏昌によると、早苗は高校時代は生徒会の副会長だったという。
両親が自宅を新築し、一家で奈良市に引っ越したのは、早苗が大学3年の頃だった。
🔵高市早苗のその他のエピソード
高市俊介は言う。
「早苗はアメリカから帰ってきた後、ワシの家に遊びに来て、ここで小説を書かせてやと言った。
当時の早苗はあっちこっちに講演に回っており、1回の講演で20万円になると言っていた。」
早苗は2004年に山本拓と結婚したが、山本は前妻との間に3人の子供がいた。
後に2人は離婚したが、よりを戻し再婚した。
(以下は『週刊文春 2025年10月16日号』から抜粋
2026年3月29日、4月13日に作成)
🔵高市早苗の経歴(主に政治歴)
高市早苗は1961年に奈良県で生まれた。
父は機械メーカーの営業職、母は警察官だった。
神戸大学の経営学部に進学したが、ロックの音楽にハマリ、当時は革ジャンを着てバイクに乗っていた。
大卒後は、就職の内定を蹴って松下政経塾に5期生として入塾。
同塾では軍縮の勉強をしたという。
松下政経塾から派遣されて、米国の民主党の下院議員パトリシア・ シュローダーの事務所で働いた。
1989年に帰国すると、テレビ朝日の深夜番組でキャスターをした。
1992年の参院選に、奈良県から自民党候補で出馬しようとしたが、公認を得られず無所属で出馬した。
このときの事を自民党県連の関係者はこう話す。
「この参院選は、奈良県連では服部三男雄氏と高市早苗氏が公認候補者で、公認されたほうがもう1人を応援するとの約束があった。
しかし公認を取れなかった高市氏は、約束を守らず無所属で出馬した。県連の会長は激怒していた。」
この参院選では高市は落選した。
翌1993年の衆院選に、高市早苗は無所属で出馬し、初当選した。
元国会議員の話
「当時の高市さんは、同じく無所属議員だった鳩山邦夫さんに頼っていた」
1994年に彼女は、後に夫になる山本拓らが所属する政策集団「リベラルズ」に参加。
間もなく自由党の結党に加わり、その後は新進党に参加した。
この時期に彼女が仕えたのは、小沢一郎だったのである。
1996年10月、新進党の小沢党首の下で衆院選にのぞみ、当選した。
するとその翌月に新進党を離れて、与党の自民党に入党した。
この行いで裏切り者と見られた。
自民党に入った高市早苗は、森喜朗の率いる清和会に所属した。
2003年の衆院選では落選した。
2005年の郵政選挙で、郵政民営化に反対していた奈良2区の滝実への刺客として、彼女は奈良2区から出馬した。
自民党の関係者は言う。
「(刺客として)高市氏は奈良1区から2区へ鞍替えして出馬した。
高市氏は選挙中、『滝さんとは家族ぐるみの付き合いで本当に戦いたくない』と同情を買う演説をした。
滝陣営は『高市家とは何の付き合いもない。嘘をつくな』と怒り心頭でした。」
当選した彼女は、2006年に安倍内閣で内閣府特命担当大臣として45歳で初入閣した。
元議員は言う。
「当時の高市さんは保守派ではなく、夫婦別姓にも賛成で、『女性が苗字を変えなくてもいいんじゃない』と言ってました。」
なぜ高市早苗は保守色を強めたのだろうか。
政治部デスクはこう分析する。
「保守色の強い森喜朗や安倍晋三に取り入るためでしょう。
2012年の自民党総裁選では、派閥の会長である町村信孝でなく安倍を支持するのを理由に、清和会を脱退した。
これが安倍政権で要職を歴任することにつながった。」
2021年の自民党総裁選では、麻生太郎(麻生派)は岸田文雄を支援した。
高市を支援する安倍晋三に対し、「高市なんか支援するなら付き合えねえぞ」と言ったほど、麻生は高市とは遠かった。
だが2024年の総裁選では、麻生は石破を落選させるために高市を推した。
高市が石破に破れた後、麻生は「あそこまでやっても高市はマジョリティ(多数派)を取れないんだね」とこき下ろした。
それなのに2025年の総裁選では、麻生は再び高市を支援して、今度は高市が選ばれた。
当選した高市に対し、麻生は義弟である鈴木俊一の幹事長起用を求めたが、高市は「人事はお任せしますから、支援していだだきたい」と応じたという。
🔵小泉進次郎のステマ問題
2025年の自民党総裁選は、小泉進次郎のほうが有利と報じられていた。
だが本誌が報じた「ステマ問題」もあって、小泉は敗北した。
ステマ(ステルス・マーケティング)問題とは、小泉の選対で広報班長をする牧島かれんが、やらせのコメント(小泉を持ち上げるやらせのコメント)をニコニコ動画に書くよう要請した事件である。
世論を捏造したのだが、これがバレて、牧島は報道を受けて班長を辞任した。
小泉陣営にいた関係者は、こう話す。
「ステマ問題が発覚した時 、牧島は謝罪したが、選対本部長の加藤勝信は表に出て こず説明もしなかった。
そのため陣営内の雰囲気は悪くなる一方でした。」
小泉の選対メンバーだった大岡敏孝もこう話す。
「小泉本人が責任を取るか、加藤さんが取るかの、どっちかだったと思う。
でも若手の女性である牧島さんに責任を押しつけた。僕はガッカリした。」
麻生太郎は、当初は小泉支援に前向きだった。
だかステマ問題などで高市有利の流れになると、「やっぱり高市だよな」と周囲に語るようになった。
自民党で唯一、派閥を維持する麻生が、総裁選の趨勢を決めた形となった。
(※麻生派がまだ解散していないのを知り驚いた)