ジャニー喜多川の性犯罪と山下達郎

(『週刊文春2023年7月27日号』から抜粋)

ジャニー喜多川の性加害は、1950年代から行われていた。

俳優の服部吉次(78歳)が証言した。

ジャニー喜多川は19歳頃に、服部家に出入りするようになったが、土日は泊まりこみ、隣りに寝ている吉次少年(当時は小学2年生)に性加害した。

服部氏は言う。

「マッサージから始まり、おちんちんを触られて、彼が口を使いだした。
私の肛門にもチャレンジしてきました。」

子供だった彼は、姉に相談したが、「そんな気持ち悪い話しないで!」と怒られてしまい、両親には伝えなかった。

性被害は2年半近く、100回程度に及んだという。

松崎基泰(79歳)は、ジャニーズ少年野球団に入っていた。
(※この野球団はジャニー喜多川が運営していた)

そこで小学2年生から1年半にわたり、30回以上の性被害にあった。

ジャニー喜多川は松崎少年を自宅に送る途中で車を停め、松崎少年のズボンを下ろして口腔性交に及んだ。

松崎氏は「恐怖しかなかった。嫌だけど抵抗のしようがなかった。」と語る。

○山下達郎とジャニー喜多川(ジャニーズ事務所)の深い繋がり

2023年7月9日に山下達郎は、ラジオで次の発言をして、大きな波紋を呼んだ。

「(私について、ジャニーズ事務所に)忖度、あるいは長いものに巻かれていると解釈されるなら、それでも構いません。

そういう方々には、私の音楽は不要でしょう。」

山下達郎は、1975年にシュガー・ベイブというバンドでデビューしたが、わずか1年でバンドは解散した。

だが山下の才能にほれ込んだRCAレコードの新人ディレクターがいた。
後にスマイルカンパニーの社長となる、小杉理宇造(りゅうぞう) だ。

小杉はジャニーズ事務所と仕事をして、ジャニー喜多川と知り合った。
そしてジャニーから、「山下達郎は良い仕事をしてる」と言われた。

この事を小杉は山下に伝えて、2人で「俺たち売れちゃうかもよ」と大喜びしたという。

そして1981年に山下達郎は、ジャニーズ事務所が売り出して人気が絶頂にあった近藤真彦に、楽曲を提供した。

これがジャニーズ事務所との初仕事だった。

山下は翌82年にも近藤に楽曲を提供すると、小杉とレコード会社を設立した。

84年に山下は、自らの事務所を「スマイルカンパニー」に改名し、小杉が社長に就任した。

後に、ジャニーズの新人「kinki kids」に山下が提供した『硝子の少年』は、ミリオンセラーとなった。

小杉理宇造は2003年に、ジャニーズ・エンタテイメントの社長となり、名実ともにジャニーズの幹部となった。

音楽評論家は、内情を次のように解説する。

「スマイルカンパニーとジャニーズ事務所は、人事の交流もあった。

スマイルカンパニーのスタジオを、ジャニーズに貸していたこともある。

小杉さんはメリー喜多川に重用され、トラブルの処理を任されていた。

小杉さんは、1989年にマッチ(近藤真彦)と破局して自殺未遂した、中森明菜のケアをした人でもある。

山下さんも、家族ぐるみでメリー氏と付き合うようになった。
小杉さんと一緒に、メリー氏の別荘に遊びに行っていた。」

1990年代からは、山下達郎の妻である竹内まりやも、ジャニーズ事務所との関係を深めている。

彼女は、木村拓哉や中居正広の主演作に楽曲を提供した。

山下夫婦は、2003年にジャニー喜多川の性加害が東京高裁で確定してからも、ジャニーズ事務所と仕事を続けた。

この頃にジャニーズの仕事を断わったのが、井上陽水である。

テレビ局の関係者が言う。

「陽水さんに、ジャニーズ主演ドラマの主題歌をつくる話が来た。

スタッフは絶対に売れると言ったが、陽水さんは断った。

不審がるスタッフに、陽水さんは性加害の報道を挙げて、仕事を受けないほうがいいと言った。」

これまで山下達郎がジャニーズのドラマや映画に提供した主題歌は、30近くになる。

CDの売り上げは20億円を下らない。

補足になるが、漫画家のヤマザキマリと、放送作家の鈴木おさむも、スマイルカンパニーに所属している。

ヤマザキは、山下のアルバムのジャケットにイラストを描いたりしている。

(2024年6月16日に作成)


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