(『東京新聞2023年3月18日』から抜粋)
国産初のジェット機を開発するプロジェクトは、三菱航空機の社長・川井昭陽が任されていた。
しかし川井は、2015年3月31日に社長の任を解かれた。
親会社である三菱重工業からの辞令だった。
川井は、「人事権を持つ三菱重工業の役員たちは、航空機造りを分かっていなかった」と証言する。
川井の後任は、航空機は門外漢の森本浩通だった。
三菱重工業は長らく、アメリカのボーイング社などと共同で航空機を造ってきた。
だか川井は、「あれは、三菱重工業は飛行機造りではなく、構造物造りをしている」と言う。
実体はボーイングの下請けで、ボーイングから届いた図面通りに造るだけなのだ。
川井の退任後、2017年1月に電気配線の設計を1からやり直すミスが発覚し、プロジェクトはさらに遅れた。
そこで三菱重工業の宮永俊一・社長は、自身の直轄事業にし、外国人の技術者を大量に雇って、開発のトップもアレクサンダー・ベラミーという外国人にした。
これに日本人の技術者が反発し、さらに開発は迷走した。
川井は、「仕組みが複雑になった現在の航空機造りは、チームでやらないと成功しない」と話す。
2023年2月に三菱重工業は、ジェット航空機の開発をあきらめ、撤退した。
(2024年5月15日に作成)