(『しんぶん赤旗日曜版2021年11月21日号』のHPから抜粋)
広島と長崎に落ちた原爆で健康被害にあった人々が、被爆者専用の健康手帳(被爆者手帳)をもらえずにいる問題がある。
被爆者手帳をもらうと、医療費が無料になるなどの措置を受けられる。
84人の被害者が訴訟を起こし、親判所の判決で全員が被爆者と認定された。
これを受けて菅義偉・首相は談話を出し、「認定できるよう対応する」と述べた。
原爆後の「黒い雨」で健康被害を受けながら、被爆者手帳をもらえなかった人は、広島だけでも1.3万人いると言われている。
高野正明さん(83歳)の話。
「広島に原爆が投下された1945年8月6日、私は広島市の学校の教室にいました。
閃光と爆音があり、学校で解散命令が出て、友達と帰る途中、焼け焦げた新聞紙や燃えさしの塊が落ちてきて、黒い雨が降り出しました。
直後から、下痢や発熱、歯茎からの出血、貧血、めまい、脱毛の症状が出ました。
その後、私の住む上水内地区は、幼い子が次々と亡くなっていきました。
1987年に、元・気象庁気象研究所・室長の増田善信さんが来て、調査しました。
そして国の出した、黒い雨の降雨図よりも、4倍の広さに黒い雨が降ったと明らかになりました。
しかし国は、私たちを被爆者と認めなかったのです。」
鶴武さん(84歳)の話。
「長崎に落ちた原爆の爆心地から、8.3kmに自宅がありました。
長崎に原爆が投下された時、私は8歳で、自宅裏でセミ取りをしてました。
ピカっとしてしばらくすると、燃えカスと一緒に黒い雨が降ってきました。
シャツは真っ黒になりました。
畑の野菜も黒くなりましたが、水で洗って食べました。
私の住む地区は水道はなく、ため池の水を飲んでましたが、そこも黒い雨で汚染されました。
あの時は、まだ放射能のことは皆が知らなかったです。
姉はリンパ腺が大きく腫れて、数年後に27歳で亡くなりました。
未弟(まってい)は、がんで42歳で亡くなりました。
三男の兄は、入退院をくり返す人生となり、80歳くらいで亡くなりました。
私は30代で胃潰瘍、40代で脳梗塞になりましたが、被爆者健康手帳をもらえてません。
私の住む、間の瀬(現・長崎市)は、被爆者手帳をもらっていない人がほとんどです。」
(2024年5月13日に作成)