ベ平連の脱走米兵支援

(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)

ベトナム戦争は、日本にも深刻な影響を与えた。

「デモで会いましょう」を合言葉に、1965年に登場した「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)は、それまでにない自由参加型のデモを催し、多数のノンポリ市民を引きつけた。

だが実は、ベ平連には地下組織「反戦の脱走米兵を援助する日本技術委員会(JATEC)があった。

JATECのメンバーだった山口文憲は語る。

「日本で米軍から脱走した兵をサポートし、根室から漁船で北方領土の国後島を経てソ連に逃がした。

だがこのルートは、アメリカのスパイが潜入してきてバレて、使えなくなった。」

ベ平連が脱走米兵を支援する運動を始めたのは、1966年だった。

アメリカの反戦活動家を招いて集会をした時に、「日本で反戦の工作をやってほしい」と要請されたのがきっかけだった。

ベ平連はこの年の秋から、在日米軍基地の周辺で英文の反戦ビラを撒いた。

そして脱出してきた米兵を、ソ連経由で中立国スウェーデンに送ることを計画した。

脱出した米兵は、国後島からソ連船に乗ったが、ベ平連の元事務局長である吉川勇一は言う。

「ソ連船に乗った脱走米兵は、KGBの管轄下に置かれた。

私は在日ソ連大使館と折衝したが、参事官や書記官らは恐らくKGB職員だったろう。」

ソ連は最初の頃は脱走米兵を大歓迎したが、徐々に態度を変えた。

吉川勇一は腹立たし気に振り返る。

「ある時、以後は将校または原子力潜水艦の乗組員以外は受け入れられない、とソ連側は通告してきた。

政治宣伝の役に立つか、極秘情報をもらえる者以外には、手を貸さないという事だ。

国際連帯も人道主義もあったものではない。」

ベ平連が助けた米兵は30数人と言われているが、勇一は実数および脱出ルートの詳細は「迷惑がかかる人がいるので、まだ公表できない」と言う。

(2020年5月31日に作成)


『日本史の勉強 1960年代』 目次に戻る

『日本史の勉強』 トップページに戻る

サイトのトップページへ行く