(『日本共産党の研究』立花隆著から抜粋)
日本共産党(※以下は日共と略する)の大きな特徴は、細胞(最近は支部と呼ぶようになった)の上に築かれたピラミッド状の組織と、「民主主義的な中央集権制(民主集中制)」である。
「民主集中制」は、民主主義と中央集権制という水と油のものを、後者を優位にして組み立てたものである。
この制度により、司令部たる党中央が、全国の党組織(支部)を操れる。
下部の組織は、上部の組織の決定に従わなければならない。
民主集中制では、党中央で多数派を形成してしまえば、党を思うままに動かしていける。
党中央の反対する意見を持っても、それを主張はできない。
党内でいかなる分派を作ることも禁止されており、反対意見をアピールすると規律違反で党から追い出されてしまう。
実際に、少なからぬ人が党を追われている。
実は、日共の党規約は、ロシアのボルシェヴィキの党規約にのっとって作られたものだ。
ロシア社会民主労働党は、1903年の党大会でウラジーミル・レーニンの指導するボルシェヴィキと、レフ・トロツキーらのメンシェヴィキとに分裂した。
この分裂は、党組織の在り方をめぐって起き、党員資格を緩めて大衆政党になろうとするメンシェヴィキと、党員資格を厳しくして少数精鋭の前衛党になろうとするボルシェヴィキが争った。
ボルシェヴィキは、民主集中制で党を上から下へ建設しようとし、メンシェヴィキは「それでは党の下部は隷属を強いられる」と批判した。
この争いはボルシェヴィキが勝ち、結局のところ世界中の共産党が独裁制におちいった。
共産党の党中央による独裁は、民主集中制が生んだ悪である。
日本における徳田球一(日共のトップだった人)への批判は、もっぱら彼の家父長的な性格が悪の根源とされた。
だが本当は、日共の民主集中制に問題があったのだ。
民主集中制は、その本質が独裁制なので、暴力革命を目指す場合は有効である。
暴力革命とは、つまり内乱であり、戦争に等しいので軍隊的な組織が向く。
レーニンはこう述べている。
「プロレタリアートはまずブルジョアの支配下で行われる選挙で過半数を獲得しなければならない、と教えるのは、ペテン師か白痴だ。我々はまずブルジョアジーを打倒して権力を手中に収め、それから労働者の共感を得るやり方で権力を使用する。」
日共は暴力革命の選択肢を捨てて、選挙で勝って政権をとるのを目指しているから、レーニンがペテン師か白痴とした事をやろうとしているわけだ。
日共は、暴力革命とプロレタリア独裁を捨てたと言うが、それならばどうして民主集中制という組織原則を捨てないのか。
民主集中制こそ、レーニン的なものであり、コミンテルンが各国の共産党に押し付けたものである。
レーニンは、地下組織をつくって革命を起こそうとした。
こうした職業革命家の秘密結社では、大衆の多くから支持は得られない。
レーニンは始めから、多数派になろうとは考えていなかった。
レーニンには、革命派が資本主義の下で多数を獲得することは出来ないとの信念があった。
彼は、労働組合や経済闘争は本質的にはブルジョア・イデオロギーだと言う。
レーニンは、「革命は、高い意識を持った革命家(前衛)が、労働者を指導しなければ進行しない」と考えていた。
彼は、革命家を利口者とし、労働者をバカ者として、「10人の利口者の組織のほうが、100人のバカ者の組織よりも絶対に良い」と言った。
レーニンは、明白なエリート主義で、そこから民主集中制が生まれた。
日共は、大衆をしきりに口にするが、組織の在り方は民主集中制でエリート主義である。
もし日共が、前衛エリート主義をやめて、大衆の多数を獲得する路線で行くなら、民主集中制を捨てて、組織の体質を根本的に変えねばならない。
日共は、昔から指導部にインテリ(高学歴の者)が多い。
1970年代後半の日共の中央委員122名を見ても、東大と京大の卒業者が17名もいる。
日共は、タテマエは労働者の党で、党規約の第16条には「党組織は労働者の比重を不断に高めなくてはならない。指導機関もまた同じである」とある。
だが依然として、インテリが労働者を指導している。
コミンテルンの組織部長だったピアトニツキーが書いた『組織論』は、民主集中制というボルシェヴィキの組織原理がなかなか各国の共産党に理解されないので、書いたものである。
これを読むと、民主集中制は結局のところ、党中央が決めた方向に、党全体とその周辺組織(労働組合など)が動く仕掛けになっている。
民主集中制では、下部組織が自主性をもって動こうとすると、潰されてしまう。
(2021年10月13日に作成)