蒼い時(山口百恵著)の抜粋

(※以下は『蒼い時』山口百恵著から、私が面白いと感じた部分の抜粋である)

(この本は1980年9月に出版され、書いた時に彼女は21才だった。芸能界を引退するに際して出した自伝である。)

山口百恵が生まれた時、父はすでに別に家庭があり、百恵は認知されたが母の手だけで育てられた。

生活費は母が内職で稼いだ。
父はたまに会いに事た。

百恵が芸能界にデビューすると、父はカネを求めてタカリ始めた。

最終的に何百万円かを父に払って、縁を切った。

百恵は20才の秋に、三浦友和を愛していると、ステージ上で明らかにした。

山口百恵は、14才で歌手デビューした。

生理痛がひどく、特に冬場になると声も出ないほどだった。

生理になると、腹痛と微熱でボーッとしてくるし、誰かと話す時は冷や汗をかきながらとなった。

生理前と生理中では、声質や声の出具合まで変化する。
生理中は高音部がきつくなってしまう。

(※次は山口百恵の結婚観の部分)

結婚に向かって私と三浦友和は完璧に理解し合うため、互いの生理について語った。

私は、私の生理のしくみを詳細に話した。
彼はうるさがらずに耳を傾けていた。

命がけで産もうとする女の勇気と、この女に子を産ませてもよいと一生を約束する男の勇気。
できてしまったから産むのではなく、望んで産む。
新たにこの世に生を受ける命に対して、それは最低限の礼儀だろう。

もし子供が産めない体だったら、結婚を諦めようと思った。

私は心身ともに健康で、愛する人に丸ごとぶつかっていける幸福な女である。

私は出産し、やがて年老いてゆくのだろう。

『問題小説』という月刊雑誌に、「山口百恵がスタジオ内で森進一にフェラチオをした話」がのった。

これを百恵サイドが告訴し、百恵も証人として出廷した。

百恵いわく、森進一はしばしば公の場で山口百恵に言及し、15才の誕生日には百恵の自宅にハンドバックをプレゼントとして送った。

だが百恵にその気はなく、何も起きなかった。

1980年に問題小説の編集者に対し、懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決が東京地裁で出た。

山口百恵は、三浦友和とは15才の時に初めて会い、映画で何度も共演して仲良くなった。

他の人からも何度か交際を申し込まれたが、一人として心は動かなかった。

2人は婚約を公表。
百恵は結婚したら引退するとも発表した。

私(山口百恵)は、予感が的中したことが少なくない。

夢が現実となった例も少なくない。

頭の中で台本を作っておいて、その登場人物に現実世界で台本とおりの言葉をかける。すると台本どおりに答えが返ってくる。

私はこの予知能力について、楽しい思いと、うす気味悪い思いを、何度か交互に味わっている。

私の予知能力は、自分の人生において決定権を持つほどになった。

私は、「自立する」、「キャリアウーマン」という言葉を聞くと身震いがする。

だが私は、歌っていた内容や勝気な発言で、自立する女の代表のように言われることが多かった。

女にとっての自立とは、何が大切かをよく知っている女性だと、私は考える。
それが仕事でも家庭でも恋人でもいいと思う。

世間で活躍するばかりが自立とは思えない。

多くの女性が堕落や逃げと決めつける家庭にも、自立の道はある。

家庭は、女がさりげなく自分の世界を確立できる唯一の場所ではないだろうか。

家庭を守る事業主婦をバカにしてはならない気もする。

家庭の地盤を固めていくのは、やはり女性なのだ。

家庭を守ることが変化のないつまらないものだという考え方は、私にはない。

三浦さんの奥さんという言われ方に、誇りすら感じる。

婚約発表の記者会見で、私はあえて「女房」という言葉を使った。
その語感が、これからの私の道にふさわしく思えたのである。

私はこれから女房になろうと思う。いま21歳の私の最も私らしい姿だと思う。

夫が愛人と駆け落ちし、帰ってきたとして、私は夫を許せるだろうか。

想像してみると、私はおそらく許さないだろう。

裏切りを知った瞬間から嫌悪感が満ちあふれ、体に触れられることすら拒否するだろう。

私は、スター誕生というテレビ番組に応募し、スカウトマンのたちの前で歌った。

私は合格すると信じていたが、思ったとおり十何社かのプラカードが上った。

なぜあの時、合格できると思えたのか、今もって不思議でならない。

とにかく発表を聞く前に、私は歌手になれるとはっきり確信していた。

私の声は、美しく澄んだものではなく、低音の太い声だと思う。

デビュー寸前で1オクターブしか出なかった音域は、7年半を経た今、地声で2オクターブ、ファルセットを入れれば3オクターブに広がっている。

詩やメロディは変わらなくても、歌う人が時を重ねていくに従って、歌そのものまでが変わると気づいた。

今は、同じ歌を1日に何度歌おうとも、一年歌い続けようとも、その度ごとに驚くほど新鮮な気持ちで歌える。

婚約発表の記者会見で、私はあえて「女房」という言葉を使った。
その語感が、これからの私の道にふさわしく思えたのである。

自分の中の変化を見るにつけても、人の心は変わっていくものだと思わずにいられない。

私の中で歌が1つの頂上をきわめた今、歌手をやめるのに未練はない。

いつだったが羽田空港の上空に、浮かんで動かない光を見た。

夜空に浮かぶそれは、明るすぎるほど輝いて、動かなかった。

数年前、千葉の九十九里で、遠くの稜線を銀色のお盆のようなものがキラキラと横切って消えた。
UFOだったと信じている。

こんな事があった。

夜に眠ろうとした私の部屋の窓で、ピカッと何かが光った。

外から写真を撮られてフラッシュをたいたのかと思い、文句を言うつもりで窓を開けたが、人の気配はなかった。

窓を閉めて横になったら、また外が白く光った。
思い切り窓を開け、周りを見渡したが誰もいない。

窓を閉めベッドに入ったが、窓に向かって白い光がスーッと、すごい勢いで近づいてきた。

その眩しさも近づくスピードも、信じられないほどだった。

恐怖を感じて、まぶたを閉じて布団を頭までかぶった。

あの光はUFOに関係するものだったと信じている。

ある時、ぼんやりと自分の部屋のベッドに腰かけていた。

瞬間、段を1つ踏み外したような衝撃を受けた。

その次には、自分の足元に、自分が座っていたのだ。

私は自分を眼下に見下ろし、下の部室で母と妹が話しているのが見えた。

哀しい思いに胸を衝かれたとたん、さっきと同じ衝撃を覚え、私は自分のベッドに腰かけていた。

あれは、肉体と魂が離れた感じだった。
一瞬の死を経験したのかもしれない。

あの体験は、その後の人生に想像をこえるほどの影響を与えた。

あの日を境に、人生観は大きく変化した。虚無的になったとも言えるだろう。

私が死んでも、私がいなくても、人は笑うし誰かを愛する。

母や妹も、始めは辛くても、やがては食べて眠って生き続けるだろう。

あの日に私は「人間なんてしょせん」と悟り、だからこそ生きている間を大切にしなければと痛切に思うようになった。

生きることは、死と背中合わせなのかもしれない。
死ぬ前に思いきり生きてみたい。

これから先の人生、私は今の生活レベルを維持できるか判らない。

いつレベルが下がっても、それに応じた暮らしができるよう、今から心がけておきたいと思っている。

私は特別扱いが大嫌いである。

私が特別扱いを受ける前に、彼と出逢ったのは幸運だと思う。
あの時に彼と出逢わなかったら、私はかなり晩婚になっていた気がする。

(2024年9月7日に作成)


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