イラク人質拘束事件(2004年4月)、体験者の証言(以下は『人質 郡山総一郎×吉岡逸夫』2004年9月刊行の抜粋である)
僕(郡山総一郎)は、イラク拘束事件の当事者になり、「そんなにカネがほしいのか」と日本でバッシングされた。
だが、人々は戦場カメラマンがすごく儲かると勘違いしているが、儲かるどころか毎回赤字である。
儲からないのに戦争取材に行くのは、自分の目で見たいという好奇心からだ。
2004年4月7日にイラクのファルージャ近辺で、郡山総一郎、高遠菜穂子、今井紀明の3人が「サラヤ・アル・ムジャヒディン」と名乗る武装グループに襲われ拘束された。
その後、同グループが3人を撮った映像がテレビ局アルジャジーラに送られて放送され、人質解放の条件として自衛隊のイラクからの撤退が伝えられた。
日本政府(※当時は小泉純一郎・政権である)は、この要求を拒否した。
拘束から9日後の4月15日に、3人は解放された。
解放には、アル・クベイシ氏をはじめ、「イラク・イスラム聖職者協会」が重要な役割を果たしたと言われている。
🔵郡山総一郎の回想
「僕はカメラマン(フォトジャーナリスト)で、この拘束事件の前はタイでHIV孤児の取材をしてました。
次はパレスチナを取材しようと考えて、ヨルダンの首都アンマンまで来ました。
そしたらアンマンのホテルで、イラク入国が目的の高遠菜穂子さんと今井紀明君に出会ったんです。
僕らは初対面でした。
菜穂子から「今晩(イラクの)バグダッドへ行く」と聞いて、(イラク取材でもいいなと思い)「僕も便乗させてよ」と言ったら、「そのほうが安くあがるし、いいですよ」と言われました。
僕はイラクに行くのはこの時が2度目で、1度目は2003年に行き、バグダッド陥落の2日後に入り、10日滞在しました。
この時はテーマも決めずにイラク入りしたので、バグダッドでは何を取材していいのか分からず、毎日タクシーで色んな場所を回りました。
それで現地の人がアイスクリーム屋でアイスを買って食べるのを撮影したりし、それを『週刊朝日』に買ってもらいました。
(※戦場の取材は、綿密な計画を立てて行うものだと思っていたが、この本を読んでそうではないと知り、私はひどく驚いた。)
話を戻すと、僕ら3人はタクシーだと安いので、タクシーでバグダッド(※イラクの首都)に行くことにしました。
途中、高速道路を米軍が封鎖してましたが、タクシー運転手は「心配ない。迂回路を知っているから」と言って迂回し、(イラクの街)ファルージャ近くのガソリンスタンドに立ち寄りました。
そうしたら日本人が乗客だと知った武装した連中が、10人くらい走って来ました。
すぐに運転手が出ていって、彼らをなだめ、連中はいったん引き上げたんです。
このガソリンスタンドに集まってきたイラク人たちは、「ヤバニ、ムーゼン」(日本人は良くない)と叫んでました。
僕はイラク人の日本人への感情が、1年前とすごく変わっていると感じました。
(※当時、米国のイラク侵略を日本の小泉首相が賞賛して、小泉政権は国民の反対を無視してイラクに自衛隊を派遣した。
イラク人たちは自衛隊が来たのを見て、日本が米国の侵略に加担していると捉えたのである。)
ガソリンを入れて出発したところで、さきほどの武装した連中に囲まれ、僕らは車から降ろされました。
銃を突きつけられ、彼らの車に乗せられました。
鉄が僕らに向けられたまま車が走り出し、20~25分走ってから停まると、そこに彼らの仲間が大勢いて、僕らが車を降りると四方を囲まれました。
彼らは、態度も口調も怒っていて、撃たれるかもと思いました。
「スパイ」という言葉を出していて、僕を米軍のスパイと疑っているのかもと思いました。
そのうち、また車に乗せられて走り出したんです。
今井紀明君はビビリまくっていました。
彼らと車中で話したら、彼らは「アメリカをやっつけるんだ」と言っているようでした。
連れていかれたのは倉庫のような真っ暗な部屋で、ジェネラル(総督)と名乗る英語を話せる男性がいました。
「君たちはスパイじゃないのか?」とか質問されました。
2003年(1年前)の4月20日ごろに、イラクで大きなデモがあり、米軍と衝突してものすごい数の死傷者が出ました。
この事件は、日本では報道されませんでした。
菜穂子はこの事件の時に、死傷者が運ばれた病院にボランティアに行っており、その話をしたんです。
そうしたら武装した連中の態度が変化しました。
「君たちは友達だ」と言い始めて、しばらくして出てきた料理を一緒に食べました。
イラクでは1つの大皿料理を皆で分け合って食べるのは、信頼関係の証なんです。
そうやって食べることになり、「僕たちは大丈夫だ、殺されることはない」と確信しました。
食事が終わると、「ビデオ撮影をさせてくれ」と言われ、マスクで顔を覆った連中が何人かやって来ました。
それで「日本の大統領は誰だ?」と尋ねるので、「大統領ではなく首相で、小泉だ」と答えました。
すると「ノー・コイズミ」と言えと。
そうしてビデオ撮影が始まると、彼らは豹変して、僕らは髪の毛をつかまれたり銃を突きつけられたりしたんです。
びっくりしましたが、これが目的だったんだなと思いました。
僕は「もっと恐がれ」と指示されました。
紀明は本当にビビって恐がってました。
菜穂子は泣くように指示されましたが、恐かったらしくて本当に泣いていました。
10~15分で撮影が終わると、彼らは一斉に謝罪モードになり、「ソーリー」の連発でした。
撮影の手順は要領が悪くて、本当は良い奴らなんだけど、上の命令で無理にしている感じでしたね。
その後は民家に移動させられました。
普通の民家で、子供や女性が窓から覗いてるんです。
そこに泊まったのですが、ドン!という爆撃音もしていて、「ファルージャに近いのかな、米軍が突入してきたら恐いな」と思いました。
米軍は救出作戦の名の下で、皆殺しをするイメージでしたから。
夜が明けて2日目になると、別の民家に移動されられました。
見張りは23歳の男性で、トイレの用で屋外に出ると銃撃戦が見えました。
だからファルージャのど真ん中だった可能性もあります。
3日目は朝から車に乗せられて、1時間半くらい走りました。
僕たちの荷物が車に載ってない事が分かると、菜穂子がキレて怒鳴り散らしました。
同乗している彼らは、「何も聞いていない」という感じで困惑してました。
やがて民家に着くと、おじいさんと青年が住んでました。
連れてきた連中は「3日後に迎えに来る」と言って、去っていきました。
ここでは銃を突きつけられることもなく、おじいさんと青年は遠くから見ているだけでした。
ポツンとした一軒家で、他に民家のない所でした。
電気は1日に4時間くらいしか使えませんでした。
バナナみたいな葉っぱを編んだ屋根で、東南アジアの家みたいでした。
僕たちは鶏肉を食べているのに、彼らは野菜だけなんです。
可哀想だから「みんなで食べようよ」と言って、5人で一緒に食べるようになりました。
ここには4泊して、5日目の朝にようやく迎えが来たんです。
僕はカメラマンなので、取り上げられたカメラが心配でした。
カメラ3台とレンズで総額80万円くらいもして、肉体労働のアルバイトで買ったものでした。
迎えに来たメンバーに英語を話せる者がいて、「遅くなってごめん。これからバグダッドに向かうから」と言いました。
僕が荷物のことを聞くと、「大丈夫、あるから」と。
それで「荷物の置いてある所に行くから」と言われ、車で移動することになりました。
民家に着いて、「2時間後に荷物が来るから」と言われました。
その民家で待機していたら、家の主人がテレビを持ってきて、「お前らが映るぞ」と。
「え? 何が映るの?」と思っていたら、日本にいる僕たちの家族が映りました。
でもアラビア語に吹き替えられてて、内容が分からなかった。
この時点では、日本中で僕たちの映像が流れたとは知らなかったんです。
僕らの荷物が届くと、金目のものは全くなく、カメラもパソコンも無い。
それで怒鳴ったら、彼らは全然事情を知らなかった。
僕たちを拘束した連中は、色んなグループが混ざっていて、「荷物を管理していたのは別のグループだ」と。
僕らが騒いだら、「もう一度探しに行ってくるよ」と言いました。
翌日に荷物の第二便が来ましたが、カメラは無かった。
それで「もう一度行って来い!」と行かせたら、カメラが1台だけ戻ってきました。
菜穂子のパソコンも戻ってこなくて、彼女がキレたら、相手はすまなそうな顔で「ごめんなさい」と反省してました。
僕はカメラが戻ってきたら、彼らを取材したくなり、「僕は残って君たちを取材したい。それを日本に持ち帰って公表したい」と伝えました。
すると「ありがたいし君たちは友人だが、今は外国人は大変なんだ」と。
「日本人を敵視しているグループもいるから、その申し入れは受けられない」と断られました。
その後、僕たちは車に乗せられて20分くらい移動しました。
着いた建物には、ビデオカメラを回している人間と、日本語を話せるキデル・ディアと名乗る男性がいました。
ディアは「君たちは解放されたよ」と言いましたが、全然ピンときませんでした。
そこにイラク聖職者協会のクベイシ氏が現れ、ディアは「君たちを解放するために動いてくれた人だ」と説明しました。
なお、回っていたビデオカメラは、日本テレビがディアに渡したものでした。
ディアは、日本テレビからカネをもらって利用されたのでしょう。
僕らの解放の時に映像を撮っていたのはアルジャジーラと日本テレビだけで、日テレはそれをスクープしました。
少ししたら日本大使館の上村司・臨時大使が迎えに来て、僕らは車に乗せられて移動しました。
途中でサダム・タワーが見え、ここはバグダッドだと分かったんです。
大使館に着くと、僕たち3人は「ここに残りたい」と言いました。
上村大使は、「君たちの気持ちは分かるが、日本の状況を考えると君たちが帰国しないと落ち着かないだろう」と言いました。
その後、大木正光・特命全権大使がやって来て、僕たちのビデオ映像が日本のメディアに流れたことや、人質解放の条件に自衛隊の撤退が出たことを聞きました。
菜穂子が「どうして自衛隊を撤退させないんですか!?」と反応すると、大木大使は「出したものを簡単には引っ込められないんだ」と言いました。
これに菜穂子がキレて、「日本政府がそんなだから私たちがこうなったんでしょ!日本はイラクを裏切ったんです!そもそも自衛隊が人道支援なんておかしい!武器を持って人道支援なんておかしい!」と、泣きながら言いました。
その後に宿舎に移ると、警察の人が来て、僕らの尋問を始めました。
警察庁・外事課の人で、事務的な突き放した訊き方をするので腹が立った。
ビデオ撮影の状況について、「こうだったんじゃないの?」と決めつけて質問し、ストーリーを捏造しようとする感じでした。
僕たちが自作自演していたとの線で立証しようとしている訊き方でした。
「迷惑をかけたんだから」とか、僕らを悪者扱いする言葉が多かった。
それで菜穂子は尋問の後、「日本に帰って謝らなくちゃ」と言い出しました。あんなに「バグダッドに残りたい」と言っていたのに。
「拘束期間中に、武装グループがもてなしてくれた」と僕が話したら、「それはストックホルム症候群だ」と警官は言うんです。
「それくらい知ってますよ」と言い返しました。
僕の弟は警察官で、警察の闇の部分を聞いてましたから、彼らを信用しませんでした。
尋問が終わると、「明日はドバイに移動する」と言われました。
僕は「(ヨルダンの首都)アンマンに行って、自分で帰ります」と抵抗しました。
すると「チャーター機を用意したから」と言うのです。
「邦人保護は隣国へ出国させるだけでしょう?だったらアンマンでいいじゃないですか」と僕は言いました。
「ドバイまで君たちの家族が来る。もうチャーター機がこっちに向かっている」と言われて、渋々承諾しました。
チャーター機といっても、小さなプロペラ機でした。
それに乗りドバイの空港に着くと、なぜか僕たちは救急車に乗せられて病院に向かいました。
病院にはマスコミ関係者がたくさん来てました。
病院では、また警視庁の人から尋問されました。
「犯人たちの特徴を覚えている限り話せ。我々は今回の件を誘拐事件として立件する」と言うので、僕はこう言い返しました。
「どうませ捕まえに行かないだろ? 米軍が流す情報を待つだけだろ?」
警察官が「犯行グループが捕まったら刑罰を求めるか?」と聞くので、僕ら3人とも呆れて「求めるわけないでしょう」と答えました。
警察官は「ここで我々が聞いたことは外部に出さない」と言いましたが、僕らが帰国して数日後にはNHKで流れてました。
嘘つき!と思いましたよ。
そもそも僕たち3人は、それまでは無関係で、たまたま一緒にタクシーに乗って拘束された。
それなのに日本では3人で1セットの扱いでした。
逢沢・外務副大臣は、公式の場で「3人と20~30分ずつ対談した」と話しましたが、実質は2分くらいでした。
顔を見て「おめでとう」と言って、ホテルに戻っていきましたからね。
政治家や役人にとっては、僕たちが彼らと一緒に日本へ帰ることが重要だったんです。
そうすれば「救出してきました」というポーズが取れますから。
本来ならば、僕たちは日本に戻るのではなくどこへ行こうが勝手なんです。
でも彼らはそうさせなかった。
後になって、チャーター機の費用、日本までの渡航費、家族がドバイまで来た旅費を、日本政府から請求されました。
請求額は、3人で200万円近い額でした。
僕たちは「アンマンに行けば自分たちで帰国できる」、「チャーター機なんてもったいない」と言ったんですけどね。
結局は、僕たちをまとめて帰らせる方策だったと思います。
外務省が帰国を強制しなければ、僕はカメラが一台手元にあったし、お金も腹巻きに3千ドルあったから、イラクに取材に戻っていたでしょう。
日本では自作自演説が出ていたので、僕は記者会見で「銃を突きつけられて無理にやらされたのだから、自作自演ではなく命令だ」と言いました。
しかし産経新聞の見出しは、「演出を認める」でした。
「マスコミってここまで酷いんだ」と思いましたね。
某週刊誌にいたっては、菜穂子が「12歳でタバコ、15歳で大麻」、紀明は「共産党一家」、僕は「反戦自衛官」と書いてました。
勝手なイメージを作り上げて、読者がそれを信じてバッシングがひどくなる。
「マスコミは本当に恐い」と思いました。
あの事件がここまで大きくなったのは、犯行グループが自衛隊の撤退を要求したからでしょう。
あの条件さえなければ、マスコミもそんなに騒がなかったはずです。
(2025年10月25~26日に作成)