タイトルイラク人質拘束事件、体験者へのインタビュー
自衛隊の裏話など

(以下は『人質 郡山総一郎×吉岡逸夫』2004年9月刊行の本からの抜粋)

郡山総一郎は1971年生まれ。自衛隊の除隊後にカメラマンになった。
2004年4月にイラクで、高遠さん、今井さんと共に武装組織に拘束されたが、9日後に解放された。

吉岡(インタビュアー)

郡山さんも被害者となったイラクでの拘束事件は、犯人が自衛隊の撤退を要求したことで、日本で政治問題となった。

あのときは被害者の家族が、「自衛隊を引き上げてくれ」と日本政府(小泉政権)に求めた。

郡山

家族ならば、感情としてそう訴えるのが当たり前じゃないですか。

それを日本政府やマスコミが政治発言と受け取ったのです。

吉岡

郡山さんはフリーランスのジャーナリストだけど、朝日新聞の通行証を持っていたから、あの時は朝日ファミリーのように思われましたね。

あとは日経(日本経済新聞)のホームページに、(拘束された)3人の住所が載った。

郡山

住所が載ったのは僕たちが解放された日のことで、それが広がって2ちゃんねるにも貼られました。

僕は日経に抗議しましたが、日経からの返答文書は「喜ばしいことだと思って掲載した」という訳の分からないものでした。

マスメディアは本当にろくなことを書きません。
情報の部分部分を勝手に切り取って、都合良くくっつけます。

それに僕たちは、「自分の意志で現地へ行ったのに、政府に助けを求めるのはおかしい」と批判されました。

吉岡

でも僕らジャーナリストは、助けてほしいなんて思わないよね。

(※吉岡氏は東京新聞社で働くジャーナリストである)

郡山

全くないです。

吉岡

政府が救出してくれるなんて期待していない。
現地へ行く人は皆が自己責任と覚悟を持っている。

郡山

ボランティアで行く人もそうですよ。行く時点で覚悟ができてる。

現地に行かない人とのズレ、温度差を感じるのは、そこなんです。

もともと僕は自衛隊に6年間いました。
でも在籍中は戦争が良いか悪いかや、PKOがどうとか全く考えてなかった。

「日本を巻き込んだ戦争が起こるわけない」と思っていました。

自衛隊の訓練にも真剣味がないんですよ。
「今どき山の中で演習するのは間違ってる」と思っていました。

これからは市街戦がメインなのに、時代錯誤な訓練だから、緊張感がないし、皆がダラダラとやり過ごしてました。

自衛隊では、精神的に入隊して1~2年目が辛かったです。

なぜかというと、バリバリのタテ社会で、上官に絶対服従だからです。
絶対的なトップダウン方式で、後輩イジメにつながってました。

イジメの一例を挙げると、上官から「千円」と書かれた紙切れを渡されて、「ジュースを買ってこい」と言われます。

仕方なく自腹で買ってくると、「お釣りは?」と聞かれます。つまり千円のカツアゲです。
こういう事が横行してました。

自衛隊では、新人が全員、屋上に集められて、殴られたり蹴られたりもあります。

あとは汗で床が水びたしになるくらい、延々と腕立て伏せをさせられたり。

陸上自衛隊は、旧陸軍の慣習が残っていて、地方に行くほど強く残っています。

自衛隊にいるとストレスがとにかく溜まるので、心のバランスを崩す者がたくさんいました。

僕が自衛隊に入隊した頃は、バブル景気の時代で、誰も公務員になりたがらず、自衛隊も人員不足でした。
だから元ヤクザとか元暴走族の頭も、僕らの部隊にいました。

僕らの隊は、17~26歳と年齢がバラバラでした。

自衛隊では、試験を受けて「陸曹」になると、「本雇い」と呼ばれる立場になり、定年までいられるラインに乗ります。

それまでは「契約隊員」、「アルバイト」と呼ばれます。

昇進のため試験勉強をしたこともありますが、内容が自衛隊でしか使えないことばかりで、「こんなものを頭につめ込んで何になる?」と思い、やる気がなくなりました。

僕は結局6年で辞めました。

妻からは「あなたが自衛隊を辞めたら離婚する」と言われていて、実際に離婚になりました。

自衛隊は公務員だし、ボーナスは年3回ももらえるから、収入の問題で離婚になりました。

除隊後は、大型免許を持っているので雪印で牛乳を運ぶドライバーになりました。

ところが2000年6月に雪印の工場で食中毒事件があり、給料がドーンと落ちた。
それで退職して、戦場カメラマンになりました。

吉岡

(話は戻るが)、君たちのイラク人質事件は、君たちが車でイラクに行かなければ起きなかった。

郡山

そうです。飛行機でイラクに移動すれば問題なかったです。

だけど飛行機代の500ドルを(車移動にして)浮かすと、滞在日数を延ばせると考えました。

吉岡

俺は湾岸戦争の時に、テルアビブでミサイルが飛んで来るのを撮った。

あの時テルアビブにはフリー・カメラマンの村田信一も来ていて、「週刊ポストから百万円もらって取材に来た」と言う。

大手新聞社の社員の俺たちは「たった百万円」と感じた。
でも彼は、「これでも良いほうだ」と言う。

俺たちはヒルトン・ホテルに泊まっていたが、彼は1泊30ドルの安宿に泊まっていた。

ミサイルが飛んで来た時、ヒルトン・ホテルは頑丈だから大丈夫だが、安宿だとひとたまりもない。

でも、お金のある会社にいるジャーナリストは戦争取材をやりたがらず、お金のないフリーの人がやることになる。だから危険度は高くなる。

君はフリーのカメラマンだけど、 動画の方が売れればゼロが1つ増えたりするから、写真よりも動画の方が割がいいよ。

郡山

(米国のイラク戦争に追従して、)自衛隊はイラクに行ったけども、イラクの地形に似た所で自衛隊は訓練していません。

山中でしか訓練してないのに、砂漠や乾燥地帯で何ができる?と思います。

吉岡

俺は自衛隊のPKOに取材で付いて、カンボジアやルワンダに行った時、自衛隊が実地訓練をしているとすごく感じたんだ。

海外でのノウハウを研究している気がした。

あと思ったのは、自衛隊員は1日に3万円の危険手当をもらっている。俺たちは1日に3千円なのに。

危険性は俺たちのほうがはるかに高いんだよ、ルワンダでもカンボジアでも。
自衛隊は安全な所にいる。

郡山

自衛隊は安全な所にいるし、集団で動く。

それに対し記者やカメラマンは単独行動ですからね。

僕は元自衛官ですが、戦場カメラマンをやっていて自衛隊にいた時のことが役立っていることは特にないです。

でも自衛隊では、免許をたくさん取れました。

免許を取るために自衛隊に入る人は、僕の時代にもすごく多かった。

でも実は、皆が免許を取れるわけではない。
使えなさそうなヤツには取らせないんです。

吉岡

あなたが今も自衛隊員だとして、紛争地に派遣されたいと思う?

郡山

本当に人道支援なら行きたいですけど。

自衛隊が武器を完全に捨てて、災害救助隊になっていたら、僕は残ってましたね。
消防官になる夢を持っていたからです。

でも消防官は、コネが無いとなれないんです。
「枠がすごく少ないから、コネがないと受からない」と言われました。

「試験を受ける前から合格者が決まっている」と知って、愕然としました。

吉岡

2004年5月に橋田信介さん、小川功太郎さんの2人のジャーナリストが、イラクで襲撃されて亡くなったけど、その感想は?

郡山

「イラク人の日本人への感情は、ついにここまで悪化したか」と思いました。

吉岡

今まで俺は、イラクへ行く時はわりと安心感があったんだ。

だってイラク人は日本人が大好きだから。

郡山

僕も拘束された時、ずっとそう思ってました。

吉岡

でも橋田さんの事件が起こった。
今まではアメリカが嫌われてたけど、日本人も嫌われたとはっきりした。

俺は湾岸戦争の前にイラクへ行って、取材をしてはいけない所で取材して秘密警察に拘束されたことがあるんだ。

でも「日本人はフレンドだ」と言って解放してくれた。

郡山

イラク人の人の好さは、日本には伝わっていないですね。
イラク人を理解しようとしないから。

吉岡

日本では、イラク国民の全員がテロリストで銃を持っているイメージがある。

郡山

9.11テロの後から、イスラム圏の人たちに対するイメージがガラッと変わってしまった。

僕は今、「日本人は(アメリカに協力することで)イラク戦争の片棒を担いでいる」と訴えているけど、どれだけの人がピンと来ているのか。

でも僕も、イラクで拘束されなければ同じ考えだったと思います。

吉岡

橋田さんの事件があって、会社に所属するジャーナリストたちはいよいよ危険地帯に行かなくなるでしょう。

「危ない所はフリーの奴に任せておけ、現場はフリーに任せておけ」という方向に進行している。

日本人は中東地域に残虐なイメージを持っている。ところが中東は恐くない所。

泥棒が少ないし、戦争がなけれは非常に穏やかで、夜の12時に外を歩いても平気。

アメリカの都市ニューヨークのほうがずっと危険だよ。

郡山

僕も、「外務省がイラクの危険度を最高にするのは分かる。でも、なぜアメリカの危険度が最低なんだ」と思います。

吉岡

日本のマスメディアは、欧米と一緒になって「イラク人は野蛮で危険だ」というイメージを作り上げている。
本当のイラクの姿は報じられていない。

君たちがイラクで捕まった事件は、冷静に考えれば家族が出てくる必要なんてなかった。

それをあれだけの長時間、日本のメディアは家族たちの姿を映し続けた。

家族がヒステリックに叫ぶのを、「おいしい」、「絵になる」と見たからだ。

さらにマスメディアは、君たちの事件に自作自演説が出ると、それも「おいしい」と考えて報じた。

そして視聴者も、メディアの憶測や煽りに乗ってしまった。

郡山

僕たちの人質拘束事件は、犯人の声明文にまだ対話の余地があった気がします。

自衛隊の撤退を要求すること自体、まだ対話の余地がある証拠でした。

もしあそこで自衛隊が引けば、イラクで信頼を回復するきっかけになったと思います。

日本政府は「テロに屈しない」と言うけど、「彼らはテロリストじゃない!」と僕は思います。

吉岡

本当に変だよね。

1996年の「在ペルー日本大使公邸・人質事件」の時は、犯人に対して「話し合えばわかる」と日本政府は言ってたじゃない?

今回も「話せばわかる」と言えば良かったと思うけどね。

郡山

日本政府は、その時々で言うことがコロコロ変わる。

それで自己責任だの何だの言われてもねえ。

僕は今、「日本にもイラク戦争の責任があるんだ」と訴えたい。

◎以下は、あとがきに書いてあったこと。補足として記す。

郡山総一郎の後に拘束されたジャーナリストの安田純平によると、「日本政府は身代金を一切払っていない」と外務省筋は明言した。

橋田さん、小川さんの事件についての証言も出てきた。

橋田さんの夫人らが文藝春秋9月号に書いたものによると、犯人は「日本人を殺す気はなかった。米国CIAの車と勘違いした」と語った。

犯人は謝罪したくてインタビューに答えたという。

(2025年11月17日に作成)


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