(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)
慶応3年(1867年)の11月15日の夜21時ころ、京都の醤油業者「近江屋」の2階にいた坂本竜馬は、暗殺された。
まず、坂本竜馬が殺されるまでの流れを書く。
慶応元年(1865年)
閏5月22日
徳川家茂・将軍は、参内して孝明天皇に長州藩の再征伐を告げる。
6月24日
薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)は、京都で竜馬と会い、長州藩の武器購入に協力することを承諾する。
7月21日
長州藩は、薩摩藩の斡旋でトーマス・グラバーから銃を購入。
慶応2年(1866年)
1月18日
竜馬は、長州藩の支藩である長府藩の藩士・三吉慎蔵を伴って、大阪の薩摩藩邸に到着。
1月21日
竜馬を立会人として、薩長同盟の密約が成る。
1月24日
午前3時に船宿・寺田屋において、宿泊中の竜馬と三吉慎蔵は、伏見奉行所の役人たちに襲撃される。
からくも脱出して、薩摩藩邸に逃げ入った。
3月4日~4月12日
竜馬は、お竜(27歳)と共に、長崎、鹿児島に新婚旅行をする。
6月7日
第二次の長州征伐(長州側から見れば四境戦争)が始まる。
竜馬は、長州藩の高杉晋作に協力して、小倉口の攻撃に参加した。
7月20日
徳川家茂・将軍が、21歳で病死。
8月20日
一橋慶喜が徳川家の家督を相続する。
翌日に長州征伐の中止を命じる。
12月5日
慶喜は徳川将軍に就任。
12月25日
孝明天皇が35歳で死去。(※毒殺説がある)
慶応3年(1867年)
4月
海援隊は、竜馬を隊長として土佐藩に属する。
5月21日
土佐藩士の乾退助(板垣退助)は、土佐藩脱藩の中岡慎太郎らと共に、薩摩藩の西郷や小松帯刀らと京都で倒幕の密約を結ぶ。
6月
竜馬は「船中八策」を執筆する。
10月3日
土佐藩は、幕府へ大政奉還を建白する。
10月6日
薩摩藩の大久保一蔵(利通)、長州藩の品川弥二郎は、公卿の岩倉具視らと王政復古の策謀を協議する。
10月13日
岩倉具視は、薩摩藩に倒幕の密勅を渡す。
徳川慶喜は二条城において、諸大名に大政奉還の是非を諮問する。
諸大名から支持される。
10月14日
具視は、長州藩にも倒幕の密勅を渡す。
慶喜は、大政奉還案を朝廷に提出する。
10月15日
慶喜は、大政奉還の勅許(天皇の許可)を受ける。
11月13日
薩摩藩の兵士たちは、鹿児島を出発する。(22日に京都に入る)
11月15日
竜馬(33歳)は近江屋で中岡慎太郎(30歳)と共に襲撃され、殺される。
(※重傷の中岡は2日後に死亡)
12月9日
朝廷は王政復古を宣言する。
慶応3年(1867年)11月15日に、近江屋の2階にいた坂本竜馬と中岡慎太郎を襲ったのは、京都見廻組であった。
京都見廻組は、徳川幕府が譜代の家臣から剣と槍の達人を選抜して創った、京都の治安維持を目的とする組織である。
1864年4月に組織され、5月27日に京都入りして、京都の見廻りをしていた。
竜馬たちが斬られたと知って、最初に近江屋に駆け付けたのは、土佐藩士の谷干城と毛利恭助だった。
谷干城は、明治39年(1906年)になってから、「坂本、中岡暗殺事件」と題する講演を行った。
そこで彼はこう語った。
「(近江屋の)階段を上った所に、坂本は斬り倒されていた。
そこから右に行った窓の所に、竜馬の下僕(藤吉)が斬り倒されていた。
座敷には中岡が斬られていた。
坂本は額の所を横に5寸(15cm)斬られており、後ろからも背中に袈裟に斬られていた。
中岡は後ろから頭にかけて斬られ、左右の手と、両足も斬られていた。
しかし中岡はなかなか元気で、気は確かだった。
それで中岡は「早く(倒幕を)やらなければ、君らもやられるぞ。早くやらねばならない」と言った。
中岡にどういう始末だったかと訊くと、彼はこう話した。
「坂本と2人で話していると、『十津川の者でござる、どうぞお目にかかりたい』と言って客が来た。
取次の下僕(藤吉)が手札(名刺)を持って(2階に)上がってきたので、2人で行灯(あんどん)へ頭を出して手札を見た。
(刺客は)下僕に付いて上がってきたが、手札を読む暇もなく『コナクソ』と言って斬ってきた。
坂本は、後ろの床に刀を置いていたから、後ろを向いて刀を取ろうとした。
自分(中岡)もすぐに短刀を取ったが、抜くことは出来ず、相手は後退しながら斬ってきた。
それで手が効かなくなったので、(刺客に)むしゃぶり付こうとしたが、両足も斬られた。
そのまま倒れて、斬らせておくしかなくなった。
すると『もうよい、もうよい』と言って、刺客たちは出て行った。
しばらくしたら、坂本はすっと起き上がって、行灯を提げて階段のそばまで行った。
そこで倒れて、『石川(中岡の変名)、刀はないか、刀はないか』と言ってから、動かなくなった。
自分たちは油断はしてなかったが、非常な武辺の奴だったから、どうする間もなくやられた。」
中岡は、16日の午後1時か2時ころに死んだ。
斬られたのが脳へ幾分かかかっていたようで、次第に吐き気をもよおし、吐きながら死んだ。
(※谷干城の証言はここまで)
事件後、谷干城たちは犯人探しを始めたが、刺客の言った「コナクソ」は伊予松山あたりの方言だった。
さらに近江屋に残されていた、蠟鞘(蝋色の鞘)と瓢箪の焼き印のある下駄から、伊予松山出身の新選組の原田左之助が犯人だと推理した。
しかし今日では、いくつもの資料から、京都見廻組の犯行だったと明らかになっている。
谷干城が語った中岡慎太郎の証言は、慎太郎が脳にかかる傷を負っていたことや、瀕死の状態だったことから、信頼性に疑問がある。
箱館の五稜郭にこもって新政府軍と戦った林董は、『回顧録』にこう書いている。
「五稜郭で糧食と弾薬が尽き、落城が迫ると、私は降伏も脱走も恥辱と考えて、人に頼んで首を斬ってもらうことにした。
それで今井信郎(坂本竜馬を斬ったと噂さるる男、※このカッコ内は原文のまま)に依頼したが、快く引き受けてくれた。」
(※林董は結局、降伏して生き延びた)
林董の証言から、『旧幕府軍の中では、今井信郎が竜馬を斬ったと知られていたこと』が分かる。
岩崎鏡川の述記『坂本と中岡の死』には、こうある。
「流山において(新選組の組長だった)近藤勇を捕縛した際、(坂本と中岡の暗殺について)糾問したが、要領を得なかった。
その後、旧新選組で箱館で降伏した横倉甚五郎と相馬主殿を尋問したが、刺客ではなかったと判明した。
旧新選組の大石鍬次郎を、薩摩兵が捕まえて尋問したところ、こう証言した。
『近藤勇は、酒席でよくこう話していた。
坂本竜馬を討ち取ったのは、見廻組の今井信郎と高橋某ら少人数だった。
豪勇の竜馬を仕留めたのは、感賞すべきことだ。』」
五稜郭で降伏した今井信郎は、身柄を刑部省に移されて、尋問を受けた。
この時信郎は30歳だったが、次のように自白した。
「私は慶応3年5月22日に、京都見廻組に配属され、10月初めに京都入りした。
10月中旬(11月中旬の誤り)に、与頭の佐々木唯三郎(佐々木只三郎)の宿舎に呼ばれて、同僚の渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎と共に出向いた。
佐々木から、こう命じられた。
『土佐藩の坂本竜馬に不審の筋がある。
先年に伏見(の寺田屋)で捕縛しようとした時、ピストルを撃って捕手の2名を倒して(殺して)逃走した。
いま(竜馬は)土佐藩邸の向かいの旅宿(近江屋)にいるので、今回は逃がさずに捕縛しろ。
手に余るなら討ち取ってもよい。』
(私たちは)その旅宿に向かい、渡辺、高橋、桂が2階に踏み込んで、私たち残りの者は(1階の)台所で見張りをする手筈になった。
ところが桂が先に行って、(竜馬が)在宅しているか探ると、不在だと分かった。
そこで東山で時間をつぶし、夜8時に再び行った。
佐々木唯三郎が先に入り、松代藩とか書いた偽の手札を出して、『先生に面会したい』と申し入れた。
(そこからは)手筈とおりに行い、私は見張り役をつとめた。
渡辺、高橋、桂の3人は、2階から降りくると、『竜馬の他にも2人ばかりいたが、手に余ったので竜馬は討ち、他2人は斬ったが生死は見届けず』と報告した。
佐々木は『それならば仕方ない、引き上げよう』と言って、一同は引き上げた。
佐々木に竜馬捕縛を命じたのが、幕府の老中なのか、京都守護職・松平容保なのかは知らない。」
上に書いた今井信郎の自供に出てくる、彼の同僚たちは、彼が自供した時すでに全員が鳥羽伏見の戦いなどで亡くなっていた。
刑部省・大輔の佐々木高行は、1870年(明治3年)9月22日に、今井信郎に対して申し渡した。
「坂本を討った件は、手を下してはいないが、その後も官軍と(箱館で)戦い、降伏したとはいえ不届き者である。
しかし寛典をもって(死刑にせず)禁錮刑にする。」
もし信郎がこの時に「竜馬を斬ったのは俺だ」と自供していたら、斬首されていただろう。
信郎は刑務所に入ったが、明治5年1月に赦免となった。
今井信郎の孫である今井幸彦は、著書『坂本竜馬を斬った男 幕臣今井信郎の生涯』を1983年に刊行している。
同書によると、信郎は18歳で直心影流の榊原鍵吉に入門した。
榊原鍵吉は、当時有数の剣士である。
信郎は負けず嫌いで、決して「参った」と言わないため、1日に多い時は数回も絞め落されたが、屈することなく稽古して励んだ。
(※当時の剣術の稽古は、組みついて寝技に持ち込むのがありだった)
信郎は3年で免許を得て、幕府の開いた講武所の師範代に就いた。
師匠の榊原鍵吉も同じく講武所師範だったから、師と肩を並べる剣の腕を認められたといえる。
信郎の得意技は「片手打ち」で、水戸藩士の某との試合でこの技を使ったところ、面の上から打ったのに頭骨を割って殺してしまった。
以後、師の榊原鍵吉はこの技を禁じたという。
「近畿評論」の明治33年5月号には、「今井信郎氏実歴談『坂本龍馬殺害者』」という記事が載った。
これは結城礼一郎が信郎にインタビューして、それをまとめたものである。
ここでは今井信郎は、次のように語っている。
「私は、坂本龍馬は京都を騒がせる悪漢だから、斬らねばならないと思っていた。
幸いにも、ふとした事から蛸薬師にいる西谷(才谷)という男が、坂本だと確かめた。(※才谷は、坂本竜馬が使っていた変名である)
それで(慶応3年の)11月15日に、桑名藩の渡辺吉太郎と、京都の与力の桂迅之助と、他にもう1人と、一緒に出かけた。
夜10時すぎまで酒を飲んで、それから蛸薬師の醤油屋(近江屋)へ行った。
そして『私どもは信州松代藩のこれこれと言う者ですが、坂本さんに火急お目にかかりたい』と申したら、取次の者は『はい』と言って立って行った。
取次が『こちらへ』と言うので、彼に付いて2階へ行った。
2階は8畳と6畳の二間になっていて、6畳には書生が3人いて、8畳には坂本と中岡が机をはさんで座っていた。
私は坂本を存じず、機転をきかせて『やや坂本さん、しばらく」と言った。
すると1人が『どなたでしたねえ』と答えたので、『それ』と言いざま刀を抜いて斬りつけた。
まず横鬢を叩いておいて、次に左の腹を斬って、それから右からもう1つ腹を斬った。
坂本は『うん』と言って倒れた。
次は中岡で、手早く脳天を3つほど続けて叩いたら、倒れてしまった。
6畳にいた3人の書生は、渡辺と桂が斬り合い、私どもは8畳で坂本と中岡をやっつけた。
書生たちは、窓から屋根伝いに逃げてしまった。」
この記事を見て激怒したのが、谷干城だった。
前述した谷干城の講演「坂本、中岡暗殺事件」は、この記事を否定し反論するために行ったものだ。
干城は、中岡が語った内容との違いを指摘して、今井信郎の証言を「証拠の上で認められぬ。あの時分は斬り自慢をする世相で、誰がやったと言うのは当てにならぬ」と否定した。
信郎にインタビューした結城礼一郎は、当時は国民新聞の記者で、後に『お前達のおぢい様』(別名は『旧幕新選組の結城無二三』)を書いている。
無二三は、礼一郎の父だが、新選組の隊士ではなく、新選組の屯所に出入りしていた者にすぎない。
それを隊士のように書いてしまう所に、礼一郎の脚色癖が現れている。
「今井信郎氏実歴談『坂本龍馬殺害者』」について、後に礼一郎は斬殺場面は自分の創作だと告白した。
明治42年(1909年)になってから、今井信郎は69歳になっていたが、大阪新報の記者の質問状に応じた。
信郎は10月17日付の回答書で、こう書いた。
①竜馬殺しは暗殺ではなく、幕府の命令であり、捕縛に向かって格闘したのである。
②新選組は(竜馬殺しに)関係ない。私は京都見廻組の与力頭だった。
③竜馬はかつて、伏見で同心3名を(寺田屋において)銃撃しており、逃走していた。(※逃走中の犯罪者だった)
④(竜馬を殺した)場所は、蛸薬師の近江屋という醤油店の2階である。
ここで、前述した(今井幸彦の書いた)『坂本竜馬を斬った男』に戻る。
ここに書いてあるのは、今井信郎が家族に語り残したもので、(信郎が語ったものの中でも)信憑性が高いと思われる。
「11月15日に、今井信郎は与力頭の佐々木唯三郎の呼び出しを受けた。
信郎の他には、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎が呼ばれた。
佐々木が告げるには、坂本竜馬は前年に寺田屋で逮捕しようとした際、同心2名を殺害して、逃走中である。
最近になって、近江屋の2階に潜伏中との情報があった。
今回は逃さぬように、手に余るなら討ち取っても差支えないとのことだった。
佐々木以下の7人は、手筈を整えて出発し、午後2時頃にまず桂隼之助が近江屋に行き、坂本が在宅かを探ったが、留守だった。
東山あたりで時間をつぶし、夜8時近くに一同は腰を上げて、雨があがったので蓑や笠など証拠品になりそうなものは全て鴨川に流した。
斬り込みの順番を、くじを引いて決めたところ、信郎は三番刀になったので憤慨し、引き直しを主張して今度は一番になった。
近江屋に近づくと、信郎は先に立って戸を叩いた。
下僕が出たので、信郎は『松代藩の者だが、才谷先生はご在宅か』と言って、偽の名札を差し出した。
下僕は『少々お待ちを』と言って、2階への階段を登っていった。
坂本の在宅は間違いないと判断した信郎は、下僕を追って一刀で斬り伏せた。
信郎は刀を鞘に収めると、何食わぬ顔で2階の奥の8畳のふすまを開けた。
すると男が2人、火鉢を囲んで向かい合って座っていた。
どちらが竜馬か分からないので、とっさの機転で座ったまま『坂本先生、お久しぶりです』と丁寧にあいさつした。
すると右手の人が、顎をなでながら『はて、どなたでしたかな』と顔を向けた。
間違いないと見た信郎は、刀を抜きざまその額を真横に払った。
驚いた左手の人(中岡慎太郎)が、脇差をつかんで立ち上がろうとしたので、抜く暇を与えずに、拝み打ちの連打を浴びせた。
中岡は脇差を半抜きのまま、両手で捧げ持つような形で懸命に受けていたが、ついに倒れた。
その間、竜馬は離れて置いてあった太刀ににじり寄ったが、背後をさらす形となり、信郎は後ろから袈裟がけに一刀を浴びせた。
その時竜馬は、実に気味の悪い悲鳴を上げた。
続く太刀を、竜馬は辛うじて鞘ごと受けたが、信郎の剣はそれを刀身ごと削ぎ取り、竜馬の体に深く打ち込んだ。
それきり竜馬は動かなくなった。
(ここまでが)ほんの2~3分の出来事だった。
信郎が階段の方に戻ると、二番刀、三番刀が白刃をひらめかせて駆け登ってきた。
身をかわす場所が無くて、右人差し指を味方に切られた。
階下に降りると、佐々木は『早すぎて俺の出る間がなかった』と言いながら、下駄を揃えてくれた。
外に出て少し歩くと、土佐藩の巡回隊らしき一団がやってきた。
折しも、ええじゃないかの一団が通りかかったので、これに紛れ込んで、ええじゃないかと歌い踊ってやり過ごした。
その後は解散となり、盛り場を回って噂話に耳をそば立ててみたが、もっぱら新選組の仕業と伝えられているので(安心して)帰宅した。」
上の今井信郎の証言は、谷干城が語った中岡慎太郎の証言とかなり異なる。
信郎は「片手打ち」を得意技にしており、座った状態からの抜刀技の第一撃は必ず「片手打ち」だから、竜馬はこれで頭骨を割られたのである。
中岡の証言で「むしゃぶりつこうとしたが、両足を斬られた」とあるのも、二番刀、三番刀の者が中岡が死んでいるかを確認するために振るった刀を、信郎がまた斬りつけたと錯覚したのだろう。
〇村本尚立のコメント
ここに抜粋した本だと、今井信郎の語った、信郎が全員を斬ったという話を最も信頼できるとしているのですが、何となく違和感があります。
信郎が最初に1人で2階に上がっていくのは、竜馬たちを警戒させないために分かるのですが、2階で刀を振って格闘する音が聞こえてきたら、すぐに仲間の数人が2階に向かうと思うのです。
しかし室内での刀を使った戦闘は、人数が多いと味方を斬ってしまったり、刀が柱などにぶつかると言われ、かえって少人数で斬り込んだほうが良いみたいです。
信郎の仲間たちは、2階から戦闘音が聞こえてきて、少し様子を見ていたら静かになり、どうなったかと思って駆け付けたところ、信郎がいて指に傷を負わせてしまった、ということなのでしょうか。
信郎が最初に下僕の藤吉を斬った時も、「一刀で斬り刀を鞘に収めて、何食わぬ顔で竜馬に面会した」とありますが、返り血を浴びそうだし、刀も血で汚れちゃいそうなんですけどね。
(2022年12月2~3日に作成)