タイトル田中河内介らの斬殺事件
クーデター計画の隠滅(薩摩藩)

(以下は『週刊文春 2023年11月9日号』
『蒼空に擲つ』伊藤秀倫の記事から抜粋)

文久2年(1862年)の5月2日、小豆島の漁師が浜辺に打ち上げられた2つの死体を発見した。

検死したところ、1人は50歳ぐらいの男性、もう1人はまだ20歳くらいの男性だった。

その死体は、刀傷があり、両手は後ろ手に練られ、足枷まではめられていた。

これは、公家の中山家の家臣だった田中河内介と その息子・左馬介の死体だった。

薩摩藩の誠忠組が起こした京都義挙(京都でのクーデター計画)は、薩摩藩以外の者も参加していて、田中河内介はその1人だった。

公家・中山家の忠愛(ただなる)と忠光の教育掛だった田中河内介は、幽閉中の朝彦(孝明天皇の息子)から討幕の命令書を、忠愛を通じてもらったとし、討幕のクーデターに参加する者を集めていた。

このクーデター計画は、九条・関白と京都所司代を襲撃し、朝彦を救出して、討幕の命令書を天皇に出させる計画だった。

だがこの陰謀は、寺田屋事件によって止められた。
つまり島津久光が、藩士たちの暴走を武力で止めたのである。

寺田屋事件の後、田中河内介らは薩摩藩邸に収容され、船で薩摩に送られる事となった。

そして5月1日に船に乗せられた田中父子は、前述のとおり翌2日に斬殺された姿で見つかったのである。

『鹿児島県史料 忠義公史料』によると、田中父子は同乗していた薩摩藩士の手で殺された。

そして殺しの実行犯として、吉田清右衛門、柴山竜五郎、是枝万助、永山万斎(弥一郎)を挙げている。

柴山竜五郎はこの件について、『柴山景綱事歴』で「船内に麻疹が蔓延し、嘔吐と下痢に苦しんだ」としか書いていない。

この時に薩摩に行くもう1つの船に乗った、薩摩藩士ではない海賀宮門(かいがみやと)、千葉郁太郎、中村主計も、死体となって細島に流れ着いている。

死体には7~9ヵ所の切り傷がそれぞれあり、めった斬りにされたのが分かる。

豊田小八郎氏の書いた『田中河内介』では、田中河内介を殺した者について、次の3つの話を紹介している。

①桜井勉から聞いた話として、河内介を殺した男は亡霊にうなされて発狂した。これは是枝万助だと言われている。

②元岡藩士で京都義挙(上記したクーデター計画)に参加した広瀬重武が、手紙で明かした話。

殺す役はくじ引きで決め、柴山が当たったが、柴山は弟の是枝万助に「代わりに殺ってくれ」と命じた。万助はその後、河内介殺しに話が及ぶと発作を起こした。

③土佐出身の田中光顕の語ったこと。
明治後に彼の部下となった柴山は、「河内介を殺したのは自分である。中山忠左衛門(中山尚之介。島津久光の側近)の命令だった」と言った。

(2025年12月17日に作成)


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