タイトル薩摩藩の動き
誠忠組、クーデター計画、寺田屋事件(1862年4月)

(以下は『週刊文春 2023年10月19日号、11月2日号』
『蒼空に擲つ』伊藤秀倫の記事から抜粋)

🔵薩摩藩主・島津斉彬の政策と死、薩摩藩の権力の動き

安政5年(1858年)に、薩摩藩主の島津斉彬が50歳で急死した。

斉彬は西郷隆盛を見出して起用した人で、「公式合体」による幕政改革を目指していた。

斉彬は、養女の篤姫を徳川将軍・家定に嫁がせて、幕府への発言権を強めた。
彼は幕府の老中・阿部正弘と組んで、次の将軍に一橋慶喜を就けようと運動した。

しかし阿部が急死して、井伊直弼が大老に就任すると、直弼らは独断で『日米修好通商条約』を結び、次期将軍は徳川慶福であると発表した。

これを見た島津斉彬は、朝延に働きかけて慶喜を将軍にするよう求める勅語を天皇に出させると決め、藩兵を率いて上京するための準備を始めた。

ところが斉彬も急死してしまった。

薩摩藩主の島津斉彬が死ぬと、藩主は甥の茂久(後の忠義)が継いだ。

茂久の父は、斉彬の弟の久光である。

この時から薩摩藩の最高権力者は、斉彬と久光の父である斉興となった。
そして藩政は一気に保守化して、幕府に従う態度となった。

(※斉興は、斉彬の前に藩主だった人。
斉彬が死んだのを機に、斉興は院政を布いたのである。)

一方、徳川幕府の大老となった井伊直弼は、一橋慶喜を推す人々(一橋派)の弾圧に乗り出し、「安政の大獄」が始まった。

島津斉彬の側近だった西郷隆盛はこの状況に絶望して、僧侶の月照と共に自殺を図ったが、月照は死んで自分だけは生き残ってしまい、奄美大島に流されて潜居することになった。

安政6年に島津斉興が死去すると、久光が薩摩藩の最高権力者となった。

🔵薩摩藩の若手グループが討幕クーデターを計画する、誠忠組

安政6年(1859年)の11月に、薩摩藩の尊攘派の若手グループは、大久保利通を中心にして、「脱藩して討幕のクーデターを起こす計画」を立てた。

この計画は藩主・茂久に漏れて、茂久は父・久光に相談した上で、計画を止めるよう論告書を出した。

この論告書は、誠忠の武士たちに宛てたもので、「時機が来るまで待て」と説いていた。

クーデターを企てたことを罪とせず、「時機が来るまで私を助けてくれ」と説いた内容で、大久保らは感激し、西郷ら同志49名の連署で『請書』を提出した。

この請書に名を連ねた49名が、後に「誠忠組」と呼ばれることになった。

🔵誠忠組のリーダーの1人である西郷隆盛の復活と、再度の島流し

安政7年(1860年)に、大老の井伊直弼が水戸浪士らの手で暗殺された。
これが「桜田門外の変」である。

この変事の時、誠忠組は島津久光に出兵・上京を求めた。
だが久光は、「時機尚早である」としてしりぞけた。

ところが久光は、自らの求心力が低下しそうなのを見て、一転して出兵・上京を決めた。

大久保利通は久光の側近になっていたが、出兵・上京のための政治工作を行える人として、島流し中の西郷隆盛を久光に推薦した。

久光が了承したので、西郷は文久2年(1862年)2月に3年ぶりに奄美大島から戻ってきた。

西郷は久光の上京計画を聞くと、「稚拙(ちせつ)だ」と批判し、不満を持った。
西郷が反対した理由は、久光は無位無官だし、朝廷と幕府への根回しも不備に終っていたからだ。

西郷は政治工作のため先行して3月13日に薩摩を出発したが、久光から「下関で待て」と言われていたのに、情勢が不穏なので京都に向かった。

だから久光が千余名の兵を率いて下関に着いた時、西郷はいなかった。
この命令違反に久光は激怒し、西郷を捕まえるよう命じた。
そして西郷は再び島流しとなった。

🔵誠忠組の過激派の突出、彼らのクーデター計画

西郷隆盛の更迭は、誠忠組内の過激派を怒らせ、彼らは「もはや突出しかない」と決断した。

この過激派の中心は、有馬新七だった。
新七は誠忠組の理論的支柱であった。

彼らが計画したのは、京都で放火してクーデターを起こし、京都(朝廷)を支配して、勅命を久光に下して薩摩藩に討幕の挙兵をさせることだった。

この計画は、3年前に藩主・茂久に止められたクーデター計画の復活に他ならない。

このクーデター計画は、田中河内介、真木和泉、久坂玄端といった、他藩の者も加わっていた。

彼らは、関白の九条尚忠と京都所司代の酒井忠義(ただあき)を襲撃し、京都に放火することを計画した。

🔵寺田屋事件、島津久光の命令で過激派が粛清される。薩摩藩士の殺し合い

文久2年(1862年)の4月23日、有馬新七らの薩摩藩士は、大坂の薩摩藩邸を出ると、舟で伏見の寺田屋に向った。
この薩摩藩士の中には、田中謙介、橋口伝蔵、弟子丸龍助、柴山龍五郎、永山弥一郎(永山万斎)らがいた。

彼らは誠忠組のメンバーであった。

ちなみに柴山龍五郎(景綱)は、後に『柴山景綱事歴』において寺田屋事件を詳細に綴っている。

この日に寺田屋に集まった者のうち、薩摩藩士の数は36名だった。

他藩からも真木和泉らが参加した。

その日の夜、島津久光の命令で、薩摩藩士の奈良原喜八郎らは「鎮撫使」として寺田屋に向った。

島津久光は、藩士たちのテロ(クーデター)を阻止することにし、奈良原たちを派遣したのである。

鎮撫使たちは、久光から「命令を聞かぬ者がいたら、臨機応変の処置をとれ」と命じられた。
これは、「命令を聞かぬ者は討ち取れ」という意味である。

寺田屋にいる薩摩藩士たちは、前述のとおり関白の九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃し、京都に放火することを計画していたが、その最後の準備をしていた。

そこに鎮撫使が現れた。

鎮撫使たちはまず、「相談がある」と言って、2階にいる有馬新七らを1階に降りるよう誘った。

鎮撫使の面々は、寺田屋に集まった者たちと親しく、奈良原喜八郎、江夏仲左衛門、大山格之助(綱良)らは誠忠組のメンバーでもあった。

奈良原は、降りてきた有馬らを説得した。
「今は突出(クーデター)は控えてほしい。久光様が面談すると言っているから、藩邸まで来てほしい。」と話した。

久光はすでに藩兵を率いて上京し、朝廷から不逞浪士の取り締まりを命じられていた。

説得に対し有馬らは、「自分たちはこれから青蓮院宮のお召しで向かうところだ。その御用の後で久光公に面会する」と答えた。

青蓮院宮とは、天皇家の朝彦・親王のことで、安政の大獄で幽閉中の身だった。

有馬らのクーデター計画では、関白・九条尚忠らを襲撃した後、朝彦を救出して討幕の勅書を出させる手はずだった。

『有馬新七先生・伝記及び遺稿』は、寺田屋での惨劇をこう書いている。

「鎮撫使たちは、「君命に背くならば腹を切れ」と言った。

新七らは、「久光公の命令でも、宮の御用を終えるまでは死ねない」と答えた。

鎮撫使は、「聞かぬなら私たちは上意討ちの命令を帯びて来ているから、それをする」と告げた。

新七らは「よろしい」と答えた。

鎮撫使の道島五郎兵衛は声を励まして、「どうしても聞かぬか」と尋ねた。

田中謙介は「事がここに及んだ上は、聞かぬ」と答えた。

すると道島は「上意」と大声で叫び、田中謙介に斬りつけた。
謙介は眼球が飛び出して倒れた。

鎮撫使の山口金之進は、刀を抜くと座っていた柴山愛次郎の両肩を斬り、愛次郎の頭は胴を離れて前に飛んだ。

有馬新七は刀を抜いて道島と戦ったが、刃が折れた。
すると素手で道島に組みついて壁に押し付け、仲間の橋口吉之丞に叫んだ。「俺ごと刺せ!」

言われた吉之丞は、新七と道島の両人を刀で貫いた。
20歳そこそこの吉之丞は、格別の思慮もせずに新七の言うまま刺した。」

鹿児島県歴史・美術センター黎明館の学芸員である崎山健文は、こう話す。

「橋口吉之丞は寺田屋事件後に謹慎となり、赦されてからは寺田屋の犠牲者の墓がある大黒寺で僧になった。

その後、薩摩藩の支藩である佐土原藩士になったが、明治元年にトラブルで切腹した。」

なお、吉之丞の兄である橋口壮介は、寺田屋事件のときに鎮撫使に討たれた。

話を寺田屋事件の戦闘に戻すが、鎮撫使のうち大山格之助は、戦闘が始まると刀を抜き、2階とつながる階段の脇で待ち構えた。

2階に残っていた者のうち、弟子丸龍助はいち早く異変に気付き、階段を駆け降りた。
それを大山は斬り、弟子丸は倒れた。

続いて降りてきたのは橋口伝蔵(※これは橋口吉之丞の兄弟ではない)で、大山に足を斬られたが片足立ちで奮闘した。

伝蔵は鎮撫使の鈴木勇右衛門の耳を斬り落とした。
すかさず勇右衛門の息子・昌之助が渡り合い、伝蔵は囲まれて討死した。

2階にいた西田直五郎は、「何事か」と階段を1~2段降りて様子をうかがったが、鎮撫使の上床源助に槍で突き上げられた。
直五郎は転げ落ちて、討死した。

森山新五左衛門は、1階の厠で用を足していたが、鎮撫使と戦闘になり倒れた。

橋口壮介は、斬られて討死した。

2階にいるクーデター組は、階下での騒音を聞くと、伏見奉行所の兵が捕まえに来たと勘違いした。

そこで大山弥助(巌)、篠原冬一(国幹)、西郷信吾(従道)、永山弥一郎、柴山龍五郎、三島弥来街(通庸)らは、刀を抜いた。

是枝万助が階下を覗くと、鎮撫使で親友の上床源助が「降りてくるな」と首を振って合図した。

万助の兄の柴山龍五郎も、下で待ち構える鎮撫使たちを見つけた。
すでに鎮撫使たちは、血で染まっていた。

鎮撫使の奈良原喜八郎は、2階の柴山龍五郎に対し、「上意である。国父(島津久光)の前で成りゆきを話せばいい。国父もこの義挙の大義は分かっている」と呼びかけた。

さらに奈良原は、刀を捨てて上半身裸になり、「やめてくれ、頼む」と言いながら2階に上がってきた。

奈良原は、「有馬らは君命に背いたから上意討ちしたが、君たちに敵意はない。久光公の命令だ。薩摩藩邸に出頭せよ」と呼びかけた。

西郷信吾はすぐに刀を置いて下へ降りた。

その他の者はどうするか議論したが、永山弥一郎は「腹を切って赤心(真心)を見せるしかない」と叫んだ。
後年の西南戦争の前には、冷静に非戦論を唱えた弥一郎だが、この時はまだ血気盛んだったようだ。

結局、2階にいた者たちは藩邸に出頭すると決めた。

薩摩藩士らのクーデター計画は、薩摩藩士9名が死ぬことで中止となったのである。

🔵寺田屋事件での薩摩藩士以外の者たち

寺田屋事件の時、真木和泉や田中河内介といった薩摩藩以外からのクーデター計画への参加者も、寺田屋にいた。

田中河内介は、睦仁(後の明治天皇)の教育掛(教育係)を務めた人としても知られている。

真木や田中が1階の奥の部屋で酒盛りをしている時に、鎮撫使たちが踏み込んできた。

薩摩藩士が同士討ちの乱闘をしている間は、彼らは息を潜めて静かにしていた。

乱闘が終わると、鎮撫使の奈良原が真木たちのところに来て、上意討ちの事情を説明し、2階にいる薩摩藩士を説得するよう頼んだ。

2階の者たちが大人しく出頭したのは、真木らの説得も大きかった。

🔵クーデター計画参加者たちの処分

クーデターを一歩手前で中止させられた面々は、伏見の薩摩藩邸に出頭した。

寺田屋で鎮撫使に斬られた田中謙介と森山新五左衛門は、蘇生したのだが、翌日に切腹となった。

他の薩摩藩士たちは、薩摩に戻って謹慎するよう命じられた。

志學館大学の原口泉・教授によると、島津久光の側近のうち中山尚之介は厳罰にするよう進言したが、大久保利通は軽い罪にするよう進言し、謹慎という軽い処分に決まった。

なお、真木和泉は所属する久留米藩に戻って謹慎となった。

クーデター計画の参加者のうち、田中河内介ら浪人たちは薩摩藩にかくまわれることになった。
しかし船に乗せられた田中や海賀宮門たちは、薩摩に着く前に薩摩藩士によって(口封じで)殺された。

余談になるが現在の寺田屋は、寺田屋事件の後に鳥羽・伏見の戦いで焼失したものが、明治時代になって再建されたものだ。

寺田屋に入ると、弾痕や刀痕の解説があるが、「焼失は一部で、弾痕や刀痕は当時のもの」と寺田屋は主張している。

(以上は2026年6月25日に作成)


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