タイトル薩摩藩の特色
郷中教育

(以下は『週刊文春 2023年9月21日号』
『蒼空に擲つ』伊藤秀倫の記事から抜粋
2026年9月21日に作成)

🔵薩摩藩の郷中教育

薩摩藩には、独特の教育システムがあった。それが「郷中(ごじゅう)教育」である。

郷中とは、方限(ほうぎり)という一定の地域を意味しつつ、そこに組織された武家(武士)の子弟集団も指す。

鹿児島城下だけでも41の郷中があった。

武家の子弟は6~10歳は小稚児、11~15歳は長稚児、15~25歳はニ才(にせ)と呼ばれた。

ニ才頭は、郷中頭としてその集団の諸事について決定権を持っていた。

大人の教師がいないのが、郷中教育の特徴である。

近年の研究によると、この教育システムは幕末の藩主である島津斉彬の頃に整備された。

斉彬は、薩摩藩士の心の荒廃、すぐに竹棒で殴り合う若者たちを改良するため、年上の若者に絶対服従する郷中教育に力を入れた。

郷中の稚児たちは、朝6時の鐘を合図に先生役のニ才の家を訪ねて、「四書五経」の素読や習字を教わった。

8時になると相撲や旗奪りといった戦ごっこをする。

10時からは長稚児のもとで、復習や生活指導。

午後は運動し、16時からは剣術を教わり、18時に帰宅した。

驚くことに稚児の時から軍事教練も受けていた。

ニ才になると、午前中は勤務や藩校に行き、午後は文武の稽古、夜はニ才たちが集まって軍書を読み、「詮議」を行った。

「詮議」は、先輩が後輩に質問し、後輩は即座に答えるものだ。
質問は武士道や忠孝のことが多かった。

詮議では郷中メンバーの素行が取り上げられることもあった。

父母の言いつけに背いた者や、ケンカして逃げた者が取り上げられ、詮議の結果、郷中から追放されることもあった。

薩摩藩には「議を言うな(議論をするな)」というルールがあったが、これは「(郷中で)皆で議論して決めたことには文句を言うな」という意味だという。

郷中には、郷中外の人間と親しくするな、というルールもあった。
これは郷中同士を不仲にした。

西郷隆盛は二才頭(郷中頭)だった時に、別の郷中の者にケンカをふっかけられ、背後から襲われて、右手の神経が傷つけられた。

このケガで利き手を伸ばせなくなり、武芸を諦めたという。

明治22年に鹿児島の小学校の教員となった越後出身の本富安四郎は、薩摩人の気風に驚き、『薩摩見聞記』を著した。

この本では郷中教育の問題点を書いているが、その1つ目は拷問である。

郷中で処罰すると決めると、高所から落とす、大勢で乗りかかって苦しめる、木に釣るす、手足を縛る、などしていた。

ケガした者は多かったろうが、親が怒鳴り込むことはできなかった。

親に言いつけたと分かると、その子はさらに拷問され、イジメにあうからだ。

この特殊な教育で育った者は、戦争では強さを発揮した。
だが大短所を持っていた。

本富はこう書いている。

「彼らは何事も個人ではせずに、必ず一団となって進退する。
個人の独立心は発達しておらず、権利や自由の考えが欠乏している。

個人の意見は、常に集団の興論に圧倒されて、発達しない。」


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