(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)
慶応2年(1866年)の1月18日に、坂本竜馬と、長州藩の支藩である長府藩の藩士である三吉慎蔵は、大阪の薩摩藩邸に入った。
この夜、竜馬は大阪城代の大久保忠寛(一翁)を訪ねている。
実は、大政奉還の政策は、竜馬が発想したのではなく、大久保忠寛の発案だった。
『維新土佐勤王史』にのった三吉慎蔵の日記によると、忠寛は訪れた竜馬に対してこう伝えた。
「お前は長州人(三吉慎蔵)を同行しているが、その事はすでに町奉行所に知られている。
早々に帰ったほうがいい。」
禁門の変から後は、長州藩とその支藩の者は賊徒となり、京都に入るのが禁じられていた。
長州藩と結ぶ竜馬は、大阪町奉行所からも狙われており、それが大阪城代の大久保忠寛にも伝わっていたのだ。
坂本竜馬と三吉慎蔵は、その夜のうちに京都・伏見にある寺田屋に移り、竜馬は慎蔵を残して出掛け、1月21日に「薩長同盟」の成立に携わった。
竜馬は23日に寺田屋に戻ったが、24日の午前3時に伏見奉行所の100名が寺田屋を包囲した。
この包囲にまず気付いたのが入浴中のお竜で、彼女はこのとき竜馬の内縁の妻になっていたが、急いで竜馬に伝えた。
この後、竜馬と慎蔵は伏見奉行所の捕吏と戦闘になり、竜馬はピストルを撃ち、慎蔵は槍を使って、捕吏を攻撃した。
捕吏の1人が刀を竜馬に打ち込み、竜馬はピストルの銃身で受けたが、受けそこねて親指を負傷し、ピストルを撃てなくなった。
不利と見た慎蔵は斬り死にしようとしたが、竜馬はそれを止めて、2人は物干し場から屋根に移り、隣家の庭に飛び降りて、逃走した。
逃げた2人は川岸の材木置き場に隠れたが、竜馬は慎蔵に「薩摩藩邸まで助けを求めにいけ」と指示した。
(慎蔵の要請は受け入れられて)2人は薩摩藩邸に保護された。
伏見奉行所は竜馬ら2人の引き渡しを求めたが、薩摩藩邸の留守居役である大山彦八(大山巌の父)は「さような者はおらぬ」とシラを切り通した。
当時の大名屋敷は、今日の外国大使館と同じで治外法権だから、奉行所も手を出せなかった。
竜馬と慎蔵の人相書が出回り、京都見廻組は2人の外出を待ち構えた。
この時は竜馬は無事に脱出できたが、翌慶応3年の11月15日に竜馬を近江屋で襲い暗殺したのは、京都見廻組であった。
(2022年12月2日に作成)