(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)
坂本竜馬を斬ったと証言した、京都見廻組の今井信郎。
信郎の孫である今井幸彦が書いた『坂本竜馬を斬った男』には、こうある。
「(見廻組を率いる)佐々木只三郎が告げるには、最近、近江屋の2階に坂本竜馬が潜伏中との情報あり。」
佐々木只三郎は、竜馬が近江屋の2階にいると、何者かから聞いた。
そこで組員の今井信郎らを連れて、近江屋に出動したのである。
平尾道雄の著書『海援隊始末記』には、次の記述がある。
「近江屋の主人・新助は、竜馬の身を気使って、裏庭の土蔵に密室をつくった。
万一の場合は、はしご伝いに裏手から誓願寺に逃げる手筈もとった。
新助はこれを家人にも知らせず、(土蔵に隠れている竜馬には)竜馬の下僕である藤吉が寝具・食膳の世話を一人でしていた。
竜馬が襲われた11月15日は、前日から竜馬は風邪気味で、不便さを覚えて(土蔵から)母屋の2階に移っていた。
また寒さが厳しいので、彼は厚着をしていた。」
同じく平尾道雄の著書である『維新暗殺秘録』には、こう書いてある。
「坂本竜馬は、はじめは材木商の酢屋にいたが、のちに同町の醬油屋の近江屋に移った。
襲撃の前日に竜馬は、風邪気味で用便などに不自由だからと、主家の2階へ移っていた。」
『坂本龍馬全集』の年譜にも、「11月14日に風邪気味で、土蔵より母屋の2階に移る」とある。
以上を考えると、竜馬暗殺事件は、次のような流れが自然だろう。
①11月14日に、佐々木只三郎のもとに「竜馬が近江屋の母屋2階にいる」との情報が入った。
②只三郎は14日の遅く、あるいは15日の早朝に、今井信郎たちを呼び出し、竜馬を逮捕しに行くと告げた。
③15日の夜に、今井信郎が先頭になって近江屋の母屋に行き、竜馬を襲撃した。
もし佐々木只三郎のもらった情報が、11月13日以前ならば、彼らは近江屋の土蔵を目指したはずである。
彼らが、土蔵を見に行った形跡は無い。
これは、竜馬が母屋の2階へ移った事を伝えられていたのを示している。
私の知り合った歴史研究者の1人に、石田孝喜がいる。
1988年のことだったと思うが、私は「別冊歴史読本」の時代小説特集・第四号に、今井信郎を主人公とする小説を寄稿することになった。
そこで石田氏に電話し、「だれが竜馬の潜伏先を佐々木只三郎に告げたのか」と尋ねてみた。
すると彼は、機関紙『鴨の流れ』に京都見廻組の隊士だった渡辺篤の回想録『摘書』を連載しているから、それを送りましょう、と言った。
聞くと、「渡辺篤も竜馬襲撃に参加しており、大正時代になってから告白した」と言う。
『鴨の流れ』(渡辺篤の回想録)から、竜馬暗殺に関する部分を紹介する。
「坂本竜馬を討つについては、諜報吏の増次郎を使い、前々から下宿所や竜馬の挙動を探索させていた。」
「佐々木只三郎は歌人でもあり、歌会に出席していた。
薩摩藩の八田知紀という歌人と折々に会って、懇意にしていた。
佐々木只三郎は、元は会津藩の者で、薩摩藩は敵国だが、歌道においては睦まじくしていた。」
上の記述から、佐々木只三郎が薩摩藩・京都藩邸の者と交流があったことが分かる。
もともと薩摩藩は、会津藩と懇意にしていた。
同じ公武合体派だったから、京都で共に行動していた。
薩摩藩は、(後には長州藩と手を組んだが、)文久3年(1863年)の時点では尊王攘夷派の長州藩と対立した。
文久3年の5月20日に、薩摩藩の評判を激落させる事件が起きた。
公卿の姉小路公知の暗殺事件である。
公知が襲撃された時に刺客から奪った刀を調べたところ、薩摩鍛冶の作刀で、薩摩の田中新兵衛のものと分かった。
現場に脱ぎ捨てられていた下駄も、薩摩の下駄だった。
そこで京都守護職の松平容保は、26日に田中新兵衛を捕縛させて、京都町奉行所に渡した。
ところが奉行の永井尚志が中座したすきに、新兵衛は脇差で自刃してしまった。
この事件では、田中新兵衛は数日前に、祇園新地で遊ぶ間に愛刀を何者かに盗まれていた。
だから犯人は新兵衛ではない、との説もある。
この事件をうけて、朝廷は薩摩藩に対し、乾門と南門の警備の任務を解いた。
それだけでなく、薩摩人が御所九門を通るのを禁じた。
薩摩藩の名望は一気に失墜した。
文久3年(1863年)の出来事を年譜にすると、こうなる。
3月4日
徳川将軍・家茂は、将軍として229年ぶりに京都に入った。
3月11日
孝明天皇は加茂社に行き、攘夷の祈願をした。
家茂らの諸大名が供をした。
4月20日
将軍・家茂は、(攘夷派からの圧力に負けて)5月10日を攘夷開始の期限にすると、朝廷に伝えた。
5月10日
攘夷開始の期限日に、長州藩は下関(馬関)でアメリカの商船を砲撃し、攘夷を始めた。
5月20日
(前述した)姉小路公知の暗殺事件が起きる。
その結果、朝廷から薩摩藩は干された。
5月23日
長州藩はフランスの軍艦を砲撃し、26日にはオランダの軍艦も砲撃した。
6月1日
アメリカの軍艦が下関に来て、長州藩の砲台を攻撃した。
6月5日
フランスの軍艦が下関に来て、上陸して砲台を占領し、破壊した。
6月13日
将軍・家茂は、海路で江戸に戻った。
7月2日
薩摩藩は、鹿児島湾でイギリスの艦隊と戦闘した。
8月13日
孝明天皇が攘夷の親征を行う前段として、大和に行くとの詔勅が出た。
以上の流れがあり、薩摩藩は孝明天皇が親征するとの発表を知ると、その日のうちに藩士の高崎左太郎(正風)を会津藩の公用局に派遣した。
高崎左太郎は、秋月悌次郎らの会津藩士に会って、こう説いた。
「親征の軍を起こすというのは、天皇の本意ではなく、攘夷派の公卿・三条実美らが偽勅を作って発表したのだ。
長州人と真木和泉らは、三条実美と結託して、天皇が大和に行く途中で詔勅を出して、天下に号令しようと陰謀している。
だから非常手段で止めないといけない。
会津藩は、京都守護職を任されており、兵が多く京都にいる。
我が藩と一緒に、この大業(長州藩と三条実美らを追い出すクーデター)をされることを望む。」
会津藩の公用局員たちは、全員がこれに賛成し、藩主の松平容保に伝えた。
すると容保も承諾した。
そこで高崎左太郎と秋月悌次郎は、公武合体派の公家である朝彦・中川宮を訪ねて、協力を求めた。
こうして「薩会同盟」が成立し、攘夷派の7人の公卿を追放するクーデター「八月十八日の政変」に成功した。
翌年(1864年)は、改元して元治元年となったが、6月5日に会津藩お預かりの新選組が、池田屋に集まった攘夷過激派を襲い、斬ったり捕らえたりした。(池田屋事件)
長州藩の者も池田屋におり、数人が死んだ。
行きづまった長州藩は、(藩兵を上京させて)元治元年7月19日に京都の御所に大砲を撃ちかける「禁門の変」を起こした。
しかし御所を守る会津藩兵や薩摩藩兵に敗れた。
話を竜馬暗殺事件に戻すが、京都見廻組が組織されて、京都に入ったのは、元治元年の5月27日である。
これは、薩摩藩と会津藩が蜜月関係だった時期である。
このため、会津藩主・松平容保の配下となった見廻組は、薩摩藩士と親しくなる者がいたのである。
前述した佐々木只三郎と八田知紀の交流は、その一例と言える。
薩摩藩士の八田知紀は、同藩士で薩会同盟を持ちかけた高崎左太郎の歌道の師匠だった。
また佐々木只三郎は、会津藩の若年寄として京都にいた手代木直右衛門の弟であり、幕臣の佐々木家に養子入りした人である。
だから佐々木只三郎は、薩摩藩士とも会津藩・中枢ともパイプがあった。
坂本竜馬が近江屋にいる事は、薩摩藩の首脳部は知っていたはずだ。
(竜馬は頻繁に薩摩藩と交流していた)
事実、新選組を脱退して薩摩藩に近づいた伊東甲子太郎は、11月13日(竜馬暗殺の2日前)に竜馬を近江屋に訪ねている。
(甲子太郎はこの時、竜馬に危ないぞと忠告したという)
私は竜馬暗殺は薩摩藩が黒幕だと考えるが、暗殺までの流れはこうである。
①薩摩藩の者(八田知紀や高崎左太郎など)が、11月14日に佐々木只三郎を訪ねて、竜馬が近江屋の母屋2階にいると告げる。
②只三郎は、この情報を兄・手代木直右衛門に伝えた。
直右衛門は、主君の松平容保に伝えた。
③松平容保は、見廻組に出動を命じ、それが只三郎に伝えられた。
只三郎は、今井信郎たちを15日の午前中に呼び出し、竜馬を襲いに行くと告げた。
坂本竜馬が殺された慶応3年は、次の出来事があった。
5月21日
土佐藩士の乾退助(板垣退助)と、土佐藩・脱藩の中岡慎太郎は、薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀と京都で会い、討幕の密約をした。
6月
竜馬は、船中八策を執筆した。
これは幕府の大政奉還を提言したもので、平和裡に政権交代を目指すものだった。
竜馬がこれを船中で書いた時、後藤象二郎も同乗していた。
土佐藩では、前藩主の山内容堂は公武合体派で、容堂は大政奉還のアイディアを聞くと採用し、後藤象二郎に運動を開始させた。
これが「大政奉還の建白運動」である。
9月上旬
後藤象二郎は京都に入り、幕府の永井尚志・若年寄や板倉勝静・老中にも会見した。
10月13日
徳川将軍・慶喜は、大藩の重臣を二条城に呼び、大政奉還をしたいと告げた。
徳川慶喜の回想録『昔夢会筆記』には、こうある。
「私が大政奉還をしたいと言うと、後藤象二郎や福岡藤次の土佐藩士はもちろん、薩摩藩の小松帯刀らも『未曾有のご英断、感服にたえず』と言った。
小松は、老中の板倉勝静に向かって、『こう決まった以上、ただちに参内して(天皇に)伝えるべし』と言ったが、翌日になって大政奉還を上奏した。」
小松帯刀が大政奉還を支持したのは、西郷隆盛や大久保利通ら暴力革命論者と違って、竜馬に近い考えだったからである。
竜馬は、徳川慶喜の決断を知ると、土佐藩士の中島作太郎にこう語った。
「徳川将軍は、よくも決断した。
私は誓って、この人のために一命を捨てん。」
竜馬は、慶喜の行いに感動したのである。
竜馬が10月16日(大政奉還が決まった直後)に書いた、『新官制擬定書』は、新政府の首脳人事の提案である。
ここで関白に次ぐ内大臣に、慶喜を選んでいる。
竜馬は、将軍は辞任したがまだ内大臣である慶喜を、そのまま新政府の内大臣(副関白)にしようと考えていた
竜馬が翌11月に書いた『新政府綱領八策』には、「諸侯の会盟では、〇〇〇自らが盟主となり」とある。
伏字になっているが、諸侯(諸大名)の盟主となる資格があるのは、慶喜なのが自然だろう。
坂本竜馬は大政奉還に感動したが、彼の同志の中岡慎太郎は別の考えを持っていた。
中岡慎太郎の胸中について、平尾道雄は『海援隊始末記』にこう書いている。
「中岡の著述した『時勢論』は、「プロシャが興ったのも、アメリカの独立も、戦争の結果である。それゆえに日本も一戦をもって起つ他はない」と論じている。
中岡は、(土佐藩が行った)大政奉還の建白に不満で、それもよろしかろうと同意はしたが、戦意は捨てなかった。」
長州藩の木戸孝允は、土佐藩の討幕派である佐々木高行と、こう話していた。(『保古飛呂比』から)
「(徳川氏の)大政の返上は難しいだろう。
7~8歩(7~8割)まで運んだら、その時の模様で10段目は砲撃芝居(戦争)より仕方なし、などと相談していた。」
長谷川伸が書いた『相楽総三とその同志たち』には、こうある。
「慶応3年の10月上旬に、江戸にある薩摩藩の上屋敷へ、益満休之助と伊牟田尚平という薩摩人が、江戸で生まれて江戸で育った小島四郎(相楽総三)を伴って到着した。
この3人は、江戸へ死ににやって来たのである。」
相楽総三らは、江戸で火付けや強盗を行い、幕府を怒らせて薩摩藩邸を攻撃させようとした。
彼らを操る西郷隆盛と大久保利通は、討幕の戦争を始めるきっかけを作ろうとしたのである。
この時期の大久保利通の動きについて、私はかつて『乱世に生きる』所収の「薩長同盟と王政復古」でこう書いた。
「9月6日に島津備後(薩摩藩主の弟)が、兵士1千を率いて上京すると、大久保利通は長州に急行して、桂小五郎(木戸孝允)や広沢真臣と討幕の挙兵の手順を相談した。
大久保は、長州藩主の父子に面会して、9月19日に出兵の盟約を結んだ。
京都に戻った大久保は、公家の岩倉具視や中御門経之や、長州藩の品川弥二郎らと、王政復古の方略を協議した。
そして新しい政体は、太政官の職制にすること、討幕軍には錦旗を持たせることなどを決定していった。」
大久保利通は10月8日に、公家の中山忠能、三条実愛、中御門経之の3人に宛てて、小松帯刀、西郷隆盛との連署で、「討幕の密勅」を求める書を送った。
これを受けて10月13日に、中山忠能は薩摩藩に「討幕の密勅」を出した。
さらに長州藩主の父子に対しては、官位を元に戻す文書を交付した。
長州藩主の父子は、禁門の変を起こした罪から、官位を剥奪されていたのだが、官位を回復させたのである。
討幕の密勅が出た10月13日は、徳川慶喜が大政奉還を諸大名に提示した日である。
翌日に慶喜は、大政奉還の文書を朝廷に提出したが、この日には裏では長州藩にも「討幕の密勅」が出ている。
つまり、大政奉還と討幕の密勅は、同時に並行で進行していた。
(※重要なことは、大政奉還は公けに進められたが、討幕の密勅は裏で密かに進められた事である。
この件で一番悪いのは、両方に手を貸した朝廷や公家だろう。
日本史を学ぶと分かるが、朝廷や公家は、このような卑怯なことを重要な局面でしばしば行う。
彼らは、保身と朝廷内の権力闘争しか頭にない。)
坂本竜馬は前述のとおり、10月16日に『新官制擬定書』を書き、11月に入ってから『新政府綱領八策』を書いた。
そして11月15日に、京都見廻組によって暗殺された。
その後、12月9日に朝廷で行われた「小御所会議」では、土佐藩の前藩主・山内容堂が「徳川慶喜も新しい政治に参画させるべきだ」と強く説いた。
これを聞いた西郷隆盛は、「短刀が一本あれば足りる」と言った。
これは「山内容堂を刺殺してしまえばいい」という意味である。
この言葉を後藤象二郎から聞かされた容堂は、にわかに弱気になり、主張を取り下げてしまった。
こうして竜馬が描いた、慶喜を新政府の中心メンバーにするという青写真は、否定されてしまった。
西郷隆盛は、竜馬が『新官制擬定書』を書いた頃から、殺意を抱いたのだろう。
それで竜馬の居場所を、薩摩藩士の八田知紀か高崎左太郎の線から、佐々木只三郎に教えたのである。
12月25日に、江戸で暴れて幕府を挑発し続けた相楽総三らに対し、江戸の警備を担当する庄内藩の兵などが怒りを爆発させ、裏で糸を引く薩摩藩邸を焼き討ちした。
これを知った西郷隆盛は、土佐藩の討幕派である谷干城に向かって、「谷さん、ようよう始まりましたよ」とニコニコしながら話しかけている。
大政奉還というアイディアを、暴力革命論者(武力討幕の論者)たちは、白眼視した。
そして、討幕の密勅を急いで求めた。
こうした流れを考えると、坂本竜馬を殺したのは、西郷隆盛だったと思えるのである。
ちなみに半藤一利の『幕末史』では、竜馬暗殺について、大久保利通の黒幕説を採っている。
「竜馬は労をいとわず走り回り、弁舌も達者で影響力があった。
彼は『武力で討幕などとんでもない。戦争をやるべきではない』と説いていた。
だから薩摩にとっては、邪魔になっていた。
竜馬が殺された日の朝に、大久保利通は京都に入っている(京都に戻っている)。
そこで大久保が見廻組に竜馬の居場所を教えたと、私は考えている。
証拠はありませんが。」
しかし当時の薩摩藩では、西郷隆盛が武略を担当し、大久保利通が朝廷工作を担当していた。
だから竜馬殺しは、隆盛が指示したと思われる。
(※この本では西郷隆盛が指示したと説くが、私は西郷隆盛と大久保利通の性格や、その人生における行動から、利通がやった可能性のほうがはるかに高いと考える。
大久保利通は、陰謀に何度も関与している。前述の討幕の密勅や、征韓論争で西郷政権を倒したのは、その代表例である。)
渡辺篤は、前にも述べたが見廻組にいた人で、『摘書』という著書を残している。
近江屋に踏み込んだ時を、こう書いている。
「佐々木只三郎の命令により、自分や今井信郎たちは坂本竜馬の旅宿へ踏み込んだ。
竜馬に斬り付けて、左右にいた者も同時に打ち果たしたが、そのうち1名が中岡慎太郎だったと後日に聞いた。
竜馬の従僕は、手や頭が太っていて、背が高かった。
我々が近江屋を訪ねて案内を乞うと、その従僕が2階から降りてきたので、偽名(の札)を差し出した。
従僕と共に2階に上がって、正面に座っていた竜馬に斬り付けた。」
従僕が太った男だったというのは、説得力がある。
従僕の藤吉は、元は角力取りで、しこ名を雲井龍といった。
渡辺篤の回想は、今井信郎の回想と少し異なるが、信郎が一番刀で、篤は二番刀だったのだろう。
なお信郎の回想だと、別人の渡辺吉太郎の名になっているが、これは篤がまだ生きているから累を及ぼさない配慮だろう。
『摘書』を読むと、渡辺篤は明治維新後には奈良県知事になった海江田信義にかわいがられて、部下になっている。
海江田信義は、薩摩藩の者で、西郷隆盛や大久保利通と親しかった人である。
信義は、江戸城の明け渡しの時には、受け取った代表4人に入っている。
信義が、竜馬を襲った渡辺篤を厚遇したのは、薩摩藩と見廻組のつながりを考えないと説明がつきにくい。
今井信郎の孫である今井幸彦の書いた『坂本竜馬を斬った男』によると、信郎は竜馬を斬った罪などで、明治3年(1870年)9月20日に禁錮刑となった。
それが明治5年1月6日付けで特別に赦免された。
この特赦は、助命運動をした西郷隆盛のおかげだった。
「信郎と面識のない西郷隆盛が、なぜ助命運動をしたかは謎」と幸彦は書いている。
さらに幸彦は、父の語った事も書いている。
「おやじ(信郎)が留守だった時だが、西郷さんが征韓論に敗れて鹿児島に帰る時に、家に訪ねてきて伝言を残した人がいた。
人相や言葉から、どうしても西郷さんだった。」
西郷隆盛が政争に敗れて、辞表を出して帰国をしたのは、明治6年10月28日だった。
彼は横浜を船で出発したが、当時は途中の清水港に寄港したはずで、静岡藩に預けられていた今井信郎は静岡市にいた。
清水と静岡市は11キロの距離だから、行けないことはない。
西郷隆盛らが西南戦争を始めた時、今井信郎は政府の募集した西郷討伐隊に志願した。
この事について、信郎の息子・健彦は、次のように話していた。
「信郎は、西郷が命を助けてくれたと感じていたので、西南戦争が始まると西郷を助けたくなった。
表向きには出来ないので、西郷討伐隊を編成して、向こうに着いたら寝返る腹だった。
しかし出陣して浜松まで行った時に、西南戦争が終わってしまった。」
西郷隆盛は、なぜ今井信郎を助けたのか。
自分が指示した竜馬殺しに信郎が関わり、自分の走狗となったことで刑死しそうなので、不憫に思って赦免の運動をしたのだろう。
(2023年5月21~23日に作成)