(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)
岩倉具視は、明治維新を実現させた1人として、討幕派の公家として有名である。
しかし元々は公武合体派で、将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚を推進した人だった。
そのために尊王攘夷派から命を狙われた事があった。
徳川幕府の将軍である徳川家茂と、統仁(孝明天皇)の妹である親子(和宮)の結婚は、朝廷と幕府の冷えた関係を改善させる策だった。
だが親子(和宮)は、6歳のときに熾仁・親王と婚約していた。
そこで統仁は、この結婚について岩倉具視に相談した。
具視は、次の意見書を提出した。
「この結婚を許して、公武の一和を天下に示し、漸次に(幕府に)諸外国との通商条約を破棄させればいい。
国政の大事は、必ず天皇を経て執行するように、幕府に提案すれば、幕府は了承するだろう。
まず幕府に条約の破棄を命じ、幕府が誠意をもって行ったら、結婚を許可すればいい。」
統仁はこれに同意して、宮中にいる勾当内侍の高野房子に命じて、親子(和宮)の説得にあたらせた。
堀河紀子は、徳川家茂と和宮の結婚に尽力して、特に高野房子を動かすことで暗躍した。
堀河紀子は、岩倉具視の妹である。
具視は岩倉家に養子入りした人である。
また堀河紀子は、統仁(孝明天皇)の側室となり、女子を産んでいた。
こうして文久2年(1862年)2月11日に、家茂と親子は結婚した。
しかし文久2年に入ると、尊王攘夷派のテロが頻発した。
まず1月15日の幕府の老中・安藤信正が襲われて、負傷したため老中を罷免された。(坂下門外の変)
4月8日には、土佐藩の重臣・吉田東洋が、同藩の過激派である武市瑞山の配下に斬殺された。
4月23日には、薩摩藩の過激派である有馬新七らが、討幕の挙兵をしようとした。
これは島津久光(薩摩藩主の父)の放った者たちによって上意討ちされた。
7月20日には、公家の九条家の家臣・島田左近が、薩摩藩の過激派の田中新兵衛らに斬殺された。
尊王攘夷を掲げる過激派たちは、将軍・徳川家茂と親子(和宮)の結婚、つまり「公武合体の方針」に怒り、テロに走ったのである。
そしてこの結婚を実現させるために動いた6人を、「四奸二嬪」と呼んで、排撃のターゲットにした。
四奸とは、久我建通・内大臣、岩倉具視、千種有文、富小路敬直という、公家たちである。
二嬪とは、今城重子と堀河紀子という、宮中の女官である。
(※補足すると、千種有文と今城重子は義理の兄妹である)
上の6人のうち、富小路敬直、今城重子、堀河紀子は、親子(和宮)が嫁入りで江戸に行く際に、供をした。
そこで「幕府寄りの奸物」と見られた。
この6人を排撃する運動は、ついに朝廷を動かすに至り、文久2年8月20日に岩倉具視、千種有文、富小路敬直は辞職と引退・蟄居を命じられた。
8月25日には、久我建通と今城重子も辞職・引退を命じられた。
9月1日には、堀河紀子も同じ処分となった。
だが尊王攘夷の過激派たちは、これで手を止めずに、同じ過激派の公家・中山忠光(中山忠能の七男)らと組んで、次の投書をした。
「久我、岩倉、千種、富小路らは、鴆毒(チン毒)を作って、孝明天皇に飲ませようとした疑いがある。
2日以内に洛中を退去しなければ、首をとって四条河原にさらし、家族に危害を加える。」
上の投書は9月12日の夜にあったが、これに恐怖した朝廷は9月25日に九条尚忠(前関白)と、久我建通、岩倉具視、富小路敬直、今城重子、堀河紀子らに、洛中の居住を禁じた。
なお、岩倉具視たちが本当に天皇に毒を盛ろうとしたかは、分からない。
この後、隠居中の岩倉具視は、徐々に討幕に傾き、薩摩藩士(主に大久保利通)や長州藩士などと交流するようになった。
そして大久保利通らと共に、王政復古のクーデターを行い、幕府を倒して、明治政府の中心人物になった。
(2023年5月24日に作成)