(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)
安政7年(1860)3月3日に、徳川幕府の大老の井伊直弼が暗殺された。
文久2年(1862)1月15日には、老中・安藤信正が襲われて負傷し、失脚した。
その後、尊王攘夷派による天誅という名のテロが、京都で吹き荒れた。
京都でのテロを列記すると、次のとおりだ。
文久2年7月20日に、九条家の家臣・島田左近が殺され、さらし首になった。
同年8月21日に、越後浪士の本間精一郎が殺され、さらし首になった。
同年8月23日に、九条家の家臣・宇郷重国が殺され、さらし首になった。
同年9月1日に、目明し文吉の絞殺死体が、はりつけ姿で発見された。
上の連続テロ事件は、安政の大獄に協力した者や、尊王攘夷派から佐幕派に転向したと見られた者が犠牲となった。
京都所司代と京都町奉行所は、幕府が置いた京都を治める組織で、警察業務も担当していた。
京都所司代は、若狭・小浜藩主の酒井忠義が長くつとめて、1843~50年と1858~62年(安政5年6月~文久2年6月)までつとめた。
酒井忠義は文久2年6月末に罷免されたが、それは相次ぐテロに震え上がってしまったからだった。
幕府は、テロがひんぱつする状況を見て、さらに強力な「京都守護職」を設置することにした。
そして会津藩主の松平容保が仕命された。
しかし文久2年の9月23日には、京都町奉行所の役人4人、すなわち渡辺金三郎、森孫六、大河原十蔵、上田助之丞が天誅で襲撃された。
この4人は、皇女の和宮が江戸に嫁入りした時、両替商人の伊勢屋の番頭・定助と結託して、和宮の冥加金をつのるとして、近江商人から大金をとって分け合った、との噂があった。
これを聞いた尊王攘夷派が命を狙い始め、23日に浪人約30人に襲われて、逃げた上田以外は殺されて、さらし者になった。
文久2年12月に松平容保は、会津藩士1000人ほどを率いて、京都に着いた。
そして文久3年2月21日から、落士たちが市中見廻りを始めて、ようやく途絶えていた夜市も復活した。
京都守護職は、京都所司代、京都町奉行、伏見奉行などを支配下に置いた。
さらに幕府が江戸で募集した集団も、会津藩のお預りにして市中を見廻らせたが、これが新選組である。
他にも幕府は、譜代の幕臣から剣槍の達人を選んで、京都市内の見廻りをさせたが、これが見廻組である。
長州藩は、文久2年7月6日に、それまでの藩論(藩の方針)だった「航海遠略策」を捨てて、新たに「尊王攘夷」を藩論に定めた。
長州藩の尊王攘夷派が、それまでの水戸藩の者たちなどと違ったのは、テロだけではなく、朝廷工作を行ったことである。
朝廷では、トップにいる統仁(孝明天皇)が、異人(外国人)嫌いで知られていた。
長州藩は、文久2年8月14日に、関白の近衛忠煕に対して、「攘夷を断行したいので、朝廷の方針を定めてほしい」と要請した。
朝廷は会議して、ただちに攘夷決行と決めた。
すでに幕府は、日米和親条約を結んで以来、開国策を採っていた。
だから朝廷と幕府は、ここにおいて政策の不一致に陥った。
この頃から、朝廷と幕府の関係は、強気になった朝廷に幕府が押される展開となった。
その流れを書くと、次の通りだ。
文久2年6月10日
勅使の大原重徳は、江戸城で徳川将軍・家茂に会見し、一橋慶喜と松平慶永を登用しろとの勅命を伝えた。
7月6日
幕府は一橋慶喜を、将軍の後見職にした。
7月9日
幕府は松平慶永を、政事総裁職にした。
11月2日
幕府は、攘夷の勅命に従うことを決定。
11月27日
勅使の三条実美らは、攘夷の督促と親兵(朝廷の軍)の設置の沙汰書を、家茂に伝達。
12月9日
朝廷は、国事御用掛を設置。
12月16日
朝廷は、関白以下の任免について、幕府にお伺いをしてきたのを廃止して、決定してから幕府に承認させることにした。
文久3年2月13日
朝廷は国事参政と国事寄人(よりうど)を設置し、尊王攘夷派の公卿が朝議に参加し始める。
3月4日
家茂は、徳川将軍として229年ぶりに京都入りした。
その後に天皇の攘夷祈願に随行。
4月20日
家茂は、5月10日を攘夷開始の期限と上奏した。
5月10日
長州藩は、下関で攘夷の戦争を開始。
8月13日
孝明天皇が攘夷祈願と親征の前段として、大和に行くとの詔勅が出る。
孝明天皇の攘夷祈願や親征の方針は、長州藩の尊王攘夷派や真木和泉が、公卿の三条実美らと立案したものだった。
この事を薩摩藩士の高崎左太郎から聞いた松平容保は、薩摩との同盟(薩会同盟)を結ぶことにした。
そして薩摩藩と会津藩は、京都から長州藩士と三条実美ら7人の公卿を追放するために、「八月十八日の政変」を起こした。
この武力クーデターは成功し、長州藩士と7人の公卿は京都を追われた。
長州藩の攘夷派は、あきらめずに京都に潜入して、朝廷(天皇)を握るための作戦を練った。
そのアジトの1つが、割木屋(薪炭商人)の桝屋喜右衛門の家であった。
元治元年(1864年)の5月下旬、新選組は、桝屋に攘夷派の過激な者たちが出入りしている事を探知した。
そこで6月4日の早朝に、隊士20数名で踏み込み、桝屋喜右衛門を捕縛した。
桝屋の正体は古高俊太郎で、過激派の志士であった。
新選組・副長の土方歳三が拷問をしたところ、古高俊太郎は自白をした。
その自白内容は、「長州藩・京都留守居役の桂小五郎と、志士一同が、御所(天皇のいる所)を焼ち打ちする。その混乱に乗じて孝明天皇を長州に連行する。」という計画だった。
上のクーデター計画に驚いた新選組・組長の近藤勇は、京都守護職に報告すると同時に、隊士に非常呼集をかけて、古高俊太郎が自白した志士のたまり場を調べることにした。
その頃、過激派の志士たちは、古高が捕まったのを知り、池田屋で密談(会合)することにした。
近藤勇ら新選組の5人が、見回りで池田屋に寄り、志士たち(テロリスト)がいると知って踏み込んだのが、6月5日の夜10時だった。
そして起きた乱戦が、有名な「池田屋事件」である。
池田屋事件の直前の長州藩の動きを見ると、5月27日に藩主の毛利慶親は、家老の国司信濃に京都行きを命じている。
その直後に家老の福原越後は江戸行きを命じられ、6月4日には藩主の息子・定広も京都に行くことになった。
6月6日に定広は、長州軍の訓練を行っており、京都入りで薩摩藩や会津藩との戦闘を覚悟していたと分かる。
長州に池田屋事件が伝わったのは、事件の9日後の6月14日だった。
藩主はその日のうちに家老の益田右衛門介にも京都行きを命じたので、定広と3人の家老が出発することになった。
6月15日に、長州藩士の中でも猛者で知られた来島又兵衛が、400の兵を率いて山口を出発した。
16日には福原越後が300の兵と出発し、同日に真木和泉と久坂玄端も兵を率いて海路で出発した。
長州から、総勢1600名の兵士が京都に向かったのである。
長州藩の出兵の動きを知った京都守護職の松平容保は、6月27日に参内して、「長州軍の襲来が濃厚である」と伝えた。
孝明天皇は、「引き続き御所を守るように」と、容保に言った。
さらに29日に天皇は、「長州人の入京はよろしくない」との書を出したので、長州軍は賊軍になった。
長州軍は、京都へ進撃してきて、御所を守る諸藩の兵と戦争になった。
これが「禁門の変(蛤御門の変)」である。
7月18日の深夜に、福原越後の隊が進撃してきたが、大垣藩の兵と衝突して、19日の午前4時に福原越後が負傷して退却した。
国司信濃と来島又兵衛の隊は、19日の午前2時に出陣し、会津藩の守る蛤御門に押し寄せた。
会津藩は苦戦したが、京都所司代・桑名藩の兵と、薩摩藩の兵が救援に来た。
一方、益田右衛門介、真木和泉、久坂玄端らの隊は、福井藩の兵と戦った。
真木らは敗れて、久坂は重傷して自刃し、真木は山崎へ退却したが後に自刃した。
こうして長州藩は、「八月十八日の政変」、「池田屋事件」、「禁門の変」と、3連敗した。
長州軍が禁門の変で、退却時に捨てていった物品のうち、薩摩藩が押収したものの中から、毛利慶親・定広の黒印のある軍令状が見つかった。
これは、長州軍が藩命に従って攻めてきたという証拠であった。
禁裏御守衛・総督に就いていた一橋慶喜は、この軍令状を朝廷に提出した。
その結果、7月24日に次の勅命が出た。
「毛利慶親は、入京を禁じていたのに自ら兵端を開き、禁裏に発砲した罪は軽くない。
しかも軍令状を(家老の)国司信濃に授けていた。
諸大名たちは、防長(長州藩)に押し寄せて、すみやかに討伐せよ。」
上記の孝明天皇の命令を受けて、幕府は長州征伐に動き出した。(第一次の長州征伐)
まず8月22日に、毛利慶親から従四位上と参議の官位と、12代将軍・家慶の名から与えた「慶」の字を、剥奪した。
同じく、13代将軍・家定が毛利定広に与えた「定」の字も剥奪した。
これにより、毛利慶親は敬親に、息子の定広は広封(ひろあつ)に改名せざるを得なくなった。
さらに幕府は、徳川慶勝を征討総督に任命し、10月16日までに15万人の大軍が長州藩を囲んだ。
(2024年6月6~7日に作成)