(以下は『週刊文春 2023年11月16日号』
『蒼空に擲つ』伊藤秀倫の記事から抜粋)
薩英戦争の発端は、文久2年(1862年)8月21日に起きた生麦事件である。
生麦事件は、薩摩藩の国父・島津久光の行列を横切った4人の英国人が、無礼として斬られた事件だ。
英国政府はこれに対し、文久3年に幕府と薩摩藩に謝罪と賠償金を求めた。
幕府は要求を呑んだが、薩摩藩は拒否した。
英国は言う事を聞かない薩摩藩に対し、7隻の艦隊を送って武力で解決しようとした。
文久3年6月28日に、英艦隊は薩摩沖に錨を下ろした。
英艦隊は、生事事件の主犯の死刑と、2.5万ポンドの賠償金を要求し、「24時間以内に回答がなければ武力手段をとる」と脅した。
島津久光と藩主の島津忠義は、家臣の奈良原喜左衛門と海江田武次(信義)を呼び出した。
この2人は、生麦事件の主犯であった。
久光は怒りを込めつつ、「生麦事件の非は英国側にある。だから英国側の将兵を皆殺しにして、 7隻の船を奪え。」と命じた。
奈良原と海江田の2人は、英国艦隊と戦うため有志を募ることにしたが、たちまち 81人が集まった。
その中には、西郷従道、大山巌、篠原国幹といった、明治後に大官になる者もいた。
彼らは寺田屋事件の生き残りだが、謹慎はすでに解かれていた。
決死隊81人は、次の計画を立てた。
英国艦隊は、薪や果物の提供・補給を求めていた。
そこで西瓜売りに変装して舟で近づき、一斉に斬り込むというのだ。
6月29日に藩主・島津忠義は、決死隊の者たちに酒をふるまい、涙を流しながら「死ぬ気で頑張るよう頼む」と声をかけた。
決死階は10人ほどが1組となって、8つの舟に分乗して英艦隊に近付いた。
しかし怪しまれて、襲撃計画は失敗に終わった。
英艦隊のキューパー提督は、決死隊の動きを敵対行為の偵察と判断し、交戦の準備に入った。
そして7月2日に錦江湾に停泊していた薩摩藩の船を襲い拿捕した。
ここに至り薩英戦争がスタートし、死者13名(そのうち艦長が1名)、負傷者50名を出した英艦隊は7月4日に錦江湾を去った。
薩摩側の被害は、城下を焼かれ、全砲台が大破し、死者5名、負傷者は10数名だった。
(2025年6月25日に作成)