タイトル徳川家康の年譜(1598年まで)

(2012年5月21日~6月にノートにとり勉強したもの
何の本から学んだかは不明)

天文11年(1542年) 1歳

12月26日 岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生。幼名は竹千代。

天文13年(1544年) 3歳

9月 父・広忠は生母のお大を離別。

天文14年 4歳

広忠は、尾張の織田氏に占領された安祥城の奪回に失敗。

天文16年(1547年) 6歳

人質として今川氏の本拠である駿府に送られる途中、戸田康光の裏切りで織田信秀(信長の父)の所に連行される。

織田氏の人質となる。

天文18年(1549年) 8歳

3月6日 広忠は城中にて殺害される。

11月 太原崇孚(雪斎)の率いる今川軍が、織田信広の守る安祥城を攻めおとす。
信広は捕虜となる。

11月9日 織田信秀の長子である信広との捕虜交換によって、竹千代は解放され、岡崎に帰る。

11月22日 改めて今川氏の人質として駿府へ行く。

天文23年(1554年) 13歳

3月 甲・駿・相の三国同盟(武田・今川・北条の同盟)が成立。

弘治元年(1555年) 14歳

3月 元服し、松平元信と名乗る。

4月 織田信長は清洲城を奪取する。

弘治3年 16歳

1月15日 今川義元の重臣である関口親永の娘(築山殿)と結婚する。

永禄元年(1558年) 17歳

2月5日 義元の命令で城を攻め、初陣をかざる。

この頃、諱を元信から元康に改める。

7月 織田信長が尾張を平定。

永禄2年(1559年) 18歳

長男・信康が誕生。

永禄3年 19歳

5月19日 桶狭間の戦いで今川義元が戦死する。

5月23日 空城となった本拠地の岡崎城へ入る。

この後、今川氏からの独立を図る。

永禄4年(1561年) 20歳

春 信長と和睦する。

永禄5年(1562年) 21歳

1月 清洲城にて信長と同盟を結ぶ。

永禄6年(1563年) 22歳

3月2日 長男・信康と信長の長女・徳姫との婚約が成立。

7月 諱を元康から家康へ改める。

9月 領地・三河で一向一揆が起きる。

永禄7年(1564年) 23歳

1月11日 一向一揆と戦うが大敗する。(上和田の戦い)

2月28日 起請文を一向一揆に与え、内乱を終結させる。

6月 三河をほぼ平定する。

永禄8年(1565年) 24歳

この年 本多重次・高力清長・天野康景の三名を奉行に任命する。

永禄9年(1566年) 25歳

12月29日 従五位下・三河守に叙任され、徳川姓に改めることを勅許される。

永禄10年(1567年) 26歳

5月27日 信康と徳姫が結婚する。

永禄11年(1568年) 27歳

2月 甲斐の武田信玄と密約し、今川領の分け取りを約束する。

9月 織田信長は足利義昭を奉じて入京する。

10月 義昭が新たな将軍となる。

12月 武田信玄と徳川家康は連携して今川領へ攻め入る。

12月18日 家康は引馬城(浜松城)を攻め落とす。

今川の当主・今川氏真は掛川城へ逃げ、上杉謙信に援助を求める。

12月27日 家康は信玄の要請に応えて、掛川城攻めを開始。

永禄12年(1569年) 28歳

1月8日 武田軍が徳川領にすると約束した遠江に侵入したので、厳重抗議をし、撤退を約束させる。

2月18日 上杉謙信の部将・河田長親に書状を出し、謙信との親善を図る。

3月8日 前日の掛川城外での合戦に敗北したので、今川氏真に和議を提案する。

5月17日 氏真は掛川城を出る。

この年 遠江国を平定する。

元亀元年(1570年) 29歳

3月7日 織田信長の命令により、兵を率いて上洛する。(初めての上洛)

4月20日 信長軍と共に越前へ出陣し、京都を出発。

4月28日 近江の浅井氏の裏切りにより、金ヶ崎での撤退戦となる。

5月18日 岡崎城に帰着。

6月28日 姉川の合戦(織田・徳川軍と朝倉・浅井軍の合戦)で活躍し、大勝する。

6月 三河・岡崎城を信康(10歳)に譲り、自らは遠江の浜松城に移る。

10月 上杉謙信に誓書を送り、同盟を結ぶ。

元亀2年(1571年) 30歳

4月29日 三河の吉田城に武田信玄が攻めてきて交戦する。退ける。

元亀3年(1572年) 31歳

10月 武田信玄が攻めてくる。

10月?日 一言坂で武田軍を迎え討つが敗れる。

12月22日 三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗する。

天正元年(1573年) 32歳

2月4日 越後の上杉謙信に(武田領である)信濃への出兵を要請する。

2月11日 三河の野田城が武田軍に攻め落とされる。

4月 武田信玄が死去する。武田軍は撤退。

7月 織田信長は将軍・足利義昭を追放。

8月 信長は浅井氏と朝倉氏を攻め滅ぼす。

天正2年(1574年) 33歳

5月12日 武田勝頼軍に徳川領の高天神城が包囲される。

6月17日 高天神城が落城。

次男の於義伊(秀康)が誕生。

天正3年(1575年) 34歳

4月 武田軍が攻めてくる。

5月8日 武田軍は長篠城を包囲。

5月18日 織田・徳川連合軍は設楽原に着陣する。馬防ぎの柵を作る。

5月21日 長篠の合戦で武田軍に大勝する。

10月 武田方の二俣城を攻め落とす。

天正4年(1576年) 35歳

7月 長女・亀姫を奥平信昌に嫁がせる。

天正5年(1577年) 36歳

8月と10月に武田軍が遠江に侵入するが、二回とも戦わずに退却させる。

天正6年(1578年) 37歳

1月21日 岡崎に立ち寄った織田信長と会見。

3月 上杉謙信が死去。

天正7年(1579年) 38歳

4月 三男の秀忠が誕生。

7月16日 信長より築山殿(妻)と信康(長男)の処罰を命じられる。武田氏に内通したとの疑いで。

8月29日 築山殿を部下に命じて殺害させる。

9月5日 関東の北条氏と同盟が成立。

9月15日 信康を切腹させる。

天正8年(1580年) 39歳

1月17日 未亡人となった徳姫(信長の娘、信康の妻)の美濃への帰国を見送る。

この年はいく度も高天神城を攻める。

天正9年(1581年) 40歳

3月22日 高天神城を落とし、遠江を完全に平定する。

天正10年(1582年) 41歳

2月3日 信長から武田氏討伐のため駿河口から攻めるよう命じられる。

2月18日 浜松城から出陣する。

3月1日 武田氏の重臣・穴山梅雪を誘降させる。

3月11日 武田勝頼・父子は追いつめられて自殺。武田氏は滅亡。徳川軍は甲府に入る。

3月29日 信濃で信長と会見する。これまでの論功により駿河国を与えられる。

5月15日 返礼のため穴山梅雪を伴って、安土城へ向かう。

5月18日 この日より3日間、信長手ずからの厚い接待を受ける。

5月21日 信長から京と堺の見物を勧められ、上洛する。

6月2日 本能寺の変が起き、信長が自害。

6月3日 帰国するのに安全なルートを求めて、伊賀の山越えをする。

6月4日 三河の大湊に着く。
その後、出兵の準備をする。

6月14日 明智光秀の討伐のため出陣し、尾張の鳴海に着陣。

6月21日 羽柴秀吉から光秀討伐が完了したと書状が来て、兵と共に帰国。

織田領で旧武田領の甲斐と信濃を奪うため、策謀・暗躍する。

10月29日 旧武田領の領有をめぐり、甲斐で北条軍ともめていたが、この日に和議が成立。
甲斐は徳川氏のものと決まり、家康は甲斐に留まり武田氏旧臣に領地を当て行う。

12月12日 浜松城に帰着。

天正11年(1583年) 42歳

1月18日 織田信雄と尾張にて会見。

4月 賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉が、柴田勝家を自刃に追いこむ。

8月15日 二女の督姫を北条氏直(北条氏の当主)に嫁がせる。

12月 秀吉との決戦に備えて、三河の本願寺門徒の復帰を許す。

この年は信濃の平定に専念した。

天正12年(1584年) 43歳

1月18日 羽柴秀吉と織田信雄が断交する。

3月13日 信雄の側についた家康は、尾張の清洲城へ入り、信雄と会見。

3月15日 織田信雄と共に小牧山に布陣する。小牧の戦役が始まる。

4月9日 三河に侵入してきた羽柴秀次軍を長久手にて攻め破る。

4月10日 小牧山に戻る。(同盟を結んでいる)北条家に大勝した報告。

7月3日 尾張の蟹江城を落とす。そして北伊勢へ侵攻する。

10月 岡崎に帰着。

11月 秀吉と信雄が講和する。

11月11日 二人の講和を承認する。

12月12日 二男の義伊を養子(人質)として秀吉のいる大坂に向かわせる。ここにおいて秀吉との休戦が成立。

天正13年(1585年) 44歳

3月 「よう」という腫物が背中にできるが、すんでの所で命をとりとめる。

8月 信州上田の真田氏を攻めるが、敗退する。

11月13日 重臣の石川数正が妻子と共に出奔し、秀吉の配下となる。

この年は、五度も居城の浜松城を離れて領内を回り、行政を視察した。

11月28日 秀吉が使者をよこして上洛を求めてくるが、拒否する。

天正14年(1586年) 45歳

1月 甲斐の武田衆から人質を出させる。

1月27日 織田信雄が秀吉との和議をすすめに岡崎に来る。会見する。

3月9日 伊豆の三島で北条氏政・氏直の父子と会見。同盟関係を強化する。

4月23日 本多忠勝を秀吉のもとに遣わし、旭姫(秀吉の妹)との婚儀の話を進ませる。

5月14日 旭姫との婚姻の式を挙げる。

7月17日 真田氏の上田城を攻略するため出陣。

8月7日 秀吉の命令に従い、上田城攻めを中止。

9月26日 秀吉の使者が来て、大政所(秀吉の母)を人質に送るから上洛せよと告げられる。受け入れることにする。

10月4日 秀吉の斡旋により、権中納言に任命される。

10月18日 大政所が岡崎に到着。

10月20日 上洛の途につく。

10月26日 大坂に入り、夜に秀吉と会談。

10月27日 大坂城で秀吉に謁見する。

11月11日 岡崎に帰着。

11月12日 大政所を大坂に送り返す。

12月4日 居城を、16年間居た浜松城から駿府城へ移す。

12月9日 秀吉は太政大臣となり、豊臣姓を賜る。

天正15年(1587年) 46歳

3月18日 敵対していた真田昌幸および小笠原貞慶と、秀吉の仲介で和議を結ぶ。

7月29日 秀吉の九州平定を祝うため、上洛の途につく。

8月5日 入京し、秀吉に祝詞を述べる。

8月17日 駿府に帰着。

天正16年(1588年) 47歳

3月9日 最上義光に秀吉の内意を伝え、伊達政宗との和平を勧める。

3月18日 秀吉が行う天皇の聚楽第への行幸に列席するため入京。

4月6日 最上義光に秀吉の好意を伝え、上洛を勧める。

4月14日 天皇の行幸に列席。

4月15日 諸将と共に、秀吉の命令に違背しないことを誓う。

4月27日 岡崎に帰着。

5月21日 北条氏に今月中の上洛を勧めて、拒否するなら娘の督姫を北条氏直と離別させたいと手紙で伝える。

6月22日 大政所の病気見舞いのため、妻・旭姫と共に上京の途につく。

7月8日 秀吉は刀狩令を出す。

9月4日 帰国の途につく。

天正17年(1589年) 48歳

2月13日 真田昌幸の長男・信之を人質として受け取る。

3月7日 入京。

5月3日 伊達政宗に最上義光と仲良くするよう勧告する手紙を書く。

5月22日 参内する。

11月 秀吉は諸国に検地を命じる。

11月24日 秀吉は北条氏直へ宣戦布告状を発送。
家康はその仲介者となる。

11月29日 駿府を出発。

12月9日 入京。

12月10日 秀吉に会見し、北条氏攻めの評定に加わる。

12月22日 駿府に帰着。

天正18年(1590年) 49歳

1月14日 旭姫が死去。
秀吉は織田信雄の娘を養女とし、家康の三男(秀忠)に嫁がせる。

1月15日 三男の長丸は秀吉に謁見し、元服して秀忠を名乗る。

1月21日 北条氏攻めに向けて、駿府で諸将と軍議を開く。

2月10日 駿府から出陣。

3月20日 駿府に戻り、東下してきた秀吉を接待する。

3月28日 秀吉から北条氏攻めにおいて小田原口の先鋒を命じられる。

4月15日 家康・信雄の内通の噂を耳にした秀吉は、両者の宿営を訪れる。秀吉は自ら真意を問い確認する。

4月26日 家康は秀吉と相談し、諸城を配下に攻めさせる事を決定する。

6月28日 北条氏の降伏が迫る中、秀吉は家康に対し江戸を居城にすること(関東への領地替え)を勧めてくる。

7月5日 北条氏が降服する。

7月12日 秀吉は、北条氏直は家康の娘婿であるため助命する。氏直は高野山へ追放される。

7月13日 家康の領国5ヵ国は接収され、新たに旧北条領の6カ国と、その他に在京料11万石が与えられる。

7月29日 秀吉は、養子にした秀康(家康の次男)に結城家を相続させて5万石を与えると伝えてくる。これを家康は了承する。

8月1日 江戸城に入る。以後はここを居城とする。

8月15日 榊原康政を総奉行、青山忠成と伊奈忠次を補佐にして、関東6ヵ国の知行割りを行わせる。

井伊直政に12万石、榊原康政に10万石、本多忠勝に10万石、鳥居元忠に4万石、大久保忠世に4万石、などが与えらえた。

さらに板倉勝重を江戸町奉行に任命する。

12月27日 秀吉から会津に転封された蒲生氏郷を救援するよう命じられる。

天正19年(1591年) 50歳

1月5日 江戸から出陣。

1月12日 伊達政宗に対し、万事を自分と浅野長政に任せて上洛するよう伝える。

1月13日 伊達政宗と蒲生氏郷の和解により出兵を中止。帰路につく。

閏1月3日 江戸を発し、上洛の途につく。

閏1月22日 入京。

閏1月26日 清州まで来た政宗に、秀吉の意思を書状で伝える。

3月21日 江戸に帰着。

5月14日 秀吉に鶴岡八幡宮の造営(再建)を訴え、了承される。

6月10日 陸奥の九戸政実の反乱を鎮圧するため、豊臣秀次と共に遠征軍の大将となる。

7月19日 江戸から出陣。

8月6日 二本松に着陣。蒲生氏郷や伊達政宗らと軍議をする。

9月16日 乱を鎮定。

10月29日 江戸に帰着。

11月 下野の足利学校に所領を寄進する。

文禄元年(1592年) 51歳

2月2日 江戸を発し、京へ向う。

2月24日 入京。

3月17日 伊達政宗、上杉景勝らと共に京都を出立し、肥前の名護屋に向かう。

これは朝鮮への遠征を秀吉が決めたからで、家康の名護屋滞在は翌年8月まで続いた。

6月2日 自ら渡海(朝鮮討伐)しようとする秀吉を、前田利家と共に諌止する。

6月11日 秀吉の命令により、大船の建造を命じる。

7月22日 大政所(秀吉の母)危篤の報が入る。
秀吉は家康と利家に留守をまかせて大坂へ向かう。しかしこの日に大政所は没する。

文禄2年(1593年) 52歳

5月15日 石田三成と小西行長が伴ってきた明国の使者を、秀吉の命令で利家と共に接待する。

8月29日 大坂に帰着する。

閏9月22日 秀吉の茶会に参加。

10月5日 能の宴で、秀吉、利家らと共に役を演じる。

10月26日 江戸に帰着。

11月9日 黒川衆、安部衆に、金などの採掘の免許状を与える。

12月 藤原惺窩に貞観政要(中国政治の教科書的な本)を講義させる。

12月 重臣の大久保忠隣を、息子・秀忠に仕えさせる。

文禄3年(1594年) 53歳

2月12日 秀吉の伏見城築城を手伝うために入京。

3月14日 伏見城を視察。

5月3日 賀茂の競馬を見物。さらに柳生宗厳から兵法の相伝を受ける。

8月15日 次女・督姫を、池田輝政に再嫁させる約束をする。

10月20日 秀吉に供奉して、関白・秀次を訪問。

12月27日 秀吉の命令で、督姫が輝政と結婚。

文禄4年(1595年) 54歳

2月16日 入京。

3月28日 自宅を秀吉が来訪。

5月3日 息子・秀忠を留守居役として、江戸へ帰ることにし、出発。

7月8日 秀吉は、後継者の関白・秀次を免職して、高野山に放逐する。

7月14日 秀次追放の知らせを受け、翌日に江戸を発つ。

7月24日 伏見に着く。
幼い秀吉の子・拾(後の秀頼)に忠誠を誓う起請文を、他の大名たちと共に提出する。

7月 毛利輝元、小早川隆景との連署で、秀吉に異心なきことを誓う。

7月 秀次がらみで細川忠興が苦境となっていたが、それを弁護して救出する。

8月2日 家康ら五大老の連署で、「御掟」が出される。

9月17日 秀吉の命令により秀忠は、故・浅井長政の三女・お江をめとる。

11月2日 秀吉の入京に供奉する。

豊臣秀次が足利学校から持ち出していた本を、同校に返還させる。

慶長元年(1596年) 55歳

5月8日 権大納言・従二位から内大臣・正二位に昇進する。

5月13日 秀吉と拾の参内に、前田利家らと共に供奉する。

閏7月13日 畿内で大地震が発生。被災した秀吉を見舞う。

9月2日 秀吉は明の和平使節と会うが、明側の出した講和条件に不満を持ち、家康らの諫止を聞かずに再出兵を決める。

9月5日 伏見を発して、江戸に向かう。

12月15日 伏見に帰着。

12月28日 三女の振姫を蒲生秀行に嫁がせるための結納の儀式を行う。

慶長2年(1597年) 56歳

2月 秀吉は朝鮮再出征について、諸将の部署を決定する。

3月8日 秀吉に従って醍醐寺で花見する。

4月27日 秀吉の参内に前田利家と随行。三人で清涼殿で宴を賜る。

5月7日 吉田兼見を訪問。

9月25日 関東の浄土宗の寺に、知恩院の法度に従うことを命じる。

11月12日 承に太平御覧のうち25冊を補写して与える。

11月17日 伏見を発して、江戸帰国の途につく。

慶長3年(1598年) 57歳

3月中旬 伏見に到着。

3月15日 秀吉主催の醍醐寺の花見に参加。

5月5日 秀吉が発病する。

7月15日 重体となった秀吉の命令で、秀吉の後継者である豊臣秀頼に忠誠を誓う起請文を諸大名と共に提出。

8月5日 五奉行に対して誓書を提出し、五奉行も五大老の家康と利家に誓書を出す。 秀吉から五大老に遺言状が与えられる。

8月6日 秀吉の枕頭に招かれ、五大老たちは大陸(朝鮮遠征)の置目等(後始末)を託される。

8月8日 五奉行はそれぞれに対し誓書を提出し、豊臣秀頼への奉公を誓う。

8月18日 豊臣秀吉が死去。

8月19日 石田三成が家康を討とうとするが失敗。

8月25日 家康・利家は、秀吉の死を秘して朝鮮と講和すべく、使者を送る。

8月28日 四大老は連署の書状を以って、渡海している黒田長政と立花宗茂に、秀吉の命令という形で撤退・帰国を命じる。

8月下旬 家康・利家は、秀吉の名を以って毛利秀元・浅野長政・石田三成に対し、博多に赴いて帰国してくる諸将を迎えるよう命じる。

9月19日 渡海している黒田長政と加藤清正に対し、帰国を促す書を送る。

10月7日 上杉景勝が京都に到着。

11月11日 奏請して、山科言経の勅勘を解く。

11月15日 浅野長政から、渡海した全軍が釜山浦まで撤収したとの書が届く。

11月18日 後陽成天皇の譲位を諫止する。

11月25日 日本軍の帰路を阻む明国の水軍に対応するため、救援軍を出させる。

この年、秀吉の死後に、六男・忠輝に政宗の長女を嫁がせること、蜂須賀至鎮、黒田長政、福島正則の子・忠勝には、自らの親類の娘を嫁がせることを約束をする。

以下は、徳川家康の年譜をノートにとっていた時の感想メモ。

2012年6月3日。徳川家康の年譜を勉強中である。

金ヶ崎の撤退(敗戦)から2ヶ月で姉川の合戦だったと気づく。
何となく2年後くらいに戦ったイメージがあった。この立ち直りの早さと決断力はさすが織田信長である。

姉川の戦いで負けていたら、信長は滅んでいたかもしれない。2連続での大きな敗戦は厳しいからだ。
そう考えると天下分け目の戦い的な一戦だったと気づく。

家康は攻めをほとんどせず、活動は守りが中心だと知る。

彼の30代は武田氏を相手にしているのもあって、ほとんど領地が増えていない。

1582年に武田氏が滅び、家康は駿河を信長から拝領するが、東の北条氏と家康は同盟しており今後は攻める国がない状態であることに気づいた。

これを考えると、ベストのタイミングで信長が死んでくれたと言える。

(※信長が死んだことで、織田領となったばかりの旧武田領に進攻できた)

本能寺の変の直後、家康は伊賀越えでの帰国に成功するが、考えてみるとすぐ前に信長は伊賀を攻めて虐殺をしており、信長の味方である家康に伊賀衆が味方するのは不自然である。

家康は、秀吉に臣従してからは(関東移封はあったが)領地はあまり増えず、またしても守りの状態である。

このように守りを続ける年月がとても多い。よくこれで天下が取れたと思う。
生まれた時が良かったというのはあると思う。

(2025年9月21~27日に作成)


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