(2012年5月21日~6月にノートにとり勉強したもの
何の本から学んだかは不明)
2012年6月3日。徳川家康の年譜を勉強中。
金ヶ崎の撤退から2ヶ月で姉川の合戦だったと気づく。
何となく2年後くらいに戦ったイメージがあった。この早さと決断力はさすが織田信長である。
姉川の戦いで負けていたら、信長は滅んでいたかもしれない。2連続での大きな敗戦は厳しいからだ。
そう考えると天下分け目の戦い的なものだったと気づく。
家康は攻めをほとんどせず、守りが中心だと知る。
彼の30代は武田氏を相手にしているのもあって、ほとんど領地が増えていない。
1582年に武田氏が滅び、家康は駿河を信長から拝領するが、東の北条氏と家康は同盟しており今後攻める国がない状態であることに気づいた。
これを考えると、ベストのタイミングで信長が死んでくれたと言える。
(※信長が死んだことで、織田領となったばかりの旧武田領に進攻できた)
本能寺の変の直後、家康は伊賀越えでの帰国に成功するが、考えてみるとすぐ前に信長は伊賀を攻めて虐殺をしており、信長の味方である家康に伊賀衆が味方するのは不自然である。
家康は、秀吉に臣従してからは(関東移封はあったが)領土は増えず、またしても守りの状態である。
このように守りを続ける年月がとても多い。よくこれで天下が取れたと思う。
生まれた時が良かったというのはあると思う。
(2025年9月19日に作成)